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銀盆で銀毛犬を横殴りに吹っ飛ばしたハルは、間髪を容れずに魔法を叩き込んだ。しかし銀毛犬は尾を一振りして、ハルの魔法を弾く。
「…変異種か。ソーナの森にこんな上級の魔獣が出るとは」
銀縁のメガネを押し上げ、ハルは無表情に吐き捨てる。その声音に魔法が弾かれたことに対する焦りはない。少し面倒だなと思っただけだ。
ハルはより高濃度の魔力を練り上げる。いくら魔法を弾くといっても、それは魔獣の魔力がこちらの魔力を上回っているためだ。魔獣が弾けぬ威力の魔力を練り上げ叩きつければ、倒すどころか魔獣の欠片も残らないだろう。
銀毛犬が警戒を強め威嚇の咆哮を上げた。ビリビリと響く咆哮と圧にブレインたちは耐えられず、身体が萎縮して固まった。
ハルは威嚇にも特に反応せず、魔力を練る片手間にブレイン達を守る障壁を展開させた。別に、王家への忠義心から、王太子を守ろうとか思ったわけではない。銀毛犬の注意はこちらに向いているが、万が一にも余波で王族を怪我させたら、厄介だと考えただけだ。
充分に魔力を練り上げ、さて魔獣を消し去るかと構えたハルの袖を、白く嫋やかな手が可愛らしくクイクイと引っ張った。途端に、ハルの顔がデレッと緩んだ。
「ねえ、ねえ、ハル?」
遠慮がちなその声に、おねだりの甘さを感じて、ハルは歓喜した。見上げてくるその愛くるしい顔には、ほんの少しの恥じらいがあって、身悶えするほど可愛らしい。とにかく理屈抜きに可愛い。
「どうなさいました?エリス様」
どんな無茶難題を言われても、その答えは「諾」一択であったが、ハルは取り敢えず聞いてみた。まずは聞いてみなくては、彼女の願いは叶えられないのだ。
「わたくしね、あの変異種を持って帰りたいの。あの毛皮と魔石を、無傷で手に入れたいの」
恥ずかしそうに、モジモジと、可愛らしい仕草とは裏腹にとんでもなく恐ろしい事をエリスは強請るが、ハルは蕩けたままで頷く。
「分かりました。しかし、原型を留めて持ち帰るとなると……どうやって倒しましょうかねぇ……」
ハルは思案する。剣があれば魔法で燃やし尽くさなくても倒せるが、エリスの専属執事である彼は、帯剣していない。冒険者として活動中ならいざ知らず、今日はエリスにアフタヌーンティーを供している時にここに転移してきたので、碌な武具を持っていなかった。
「ねえハル。貴方さっき果物を剥いていたから、果物ナイフを持っていたわよね?」
「ええ」
ハルは聞かれるままに懐から果物ナイフを取り出した。刃の長さは大人の拳一つ分ぐらい。刃を折り畳めるようになっていて、侯爵家の執事が扱うのに相応しい、優美な飾りが付いている。
ちなみに2人が悠長に話している間、魔獣はもちろん襲い掛かってきていたが、ハルの張った障壁で悉く弾き返され、怒り狂っていた。
「そうそう、このナイフよ」
受け取って、エリスは嬉しそうに畳まれていた刃を伸ばす。そしてそれを持ったまま、音もなく一瞬にして魔獣に肉薄した。
ザスッと、何か重いものを断ち切る音が響く。
果物ナイフを持ったエリスは、気付けばハルの側に戻っていた。
一拍遅れて、ドウッと魔獣が地面に倒れ伏した。魔獣の首がパックリと切られており、血は吹き出さないように肉の断面がコンガリと焼かれていた。
「ありがとう、ハル。研がれていたから、良く切れたわ」
ハルは目を見開く。細く頼りない刀身は血曇りもなくキラキラと輝いている。魔獣の首を切った後、エリスが浄化魔法を掛けたからだろう。
それよりもこんな頼りない刀身でどうやって魔獣の首を切ったのか。ほんのり残る魔力の名残で果物ナイフを強化したのは分かったが、それにしたって強度の面で問題がある。華奢な果物ナイフだ。肉を断つほどの鋭さはない。
動きを追うだけでやっとだった。制止の声を上げる間も無く、鮮やかに魔獣の命を絶ったその手際に、ハルはゾクゾクと背中に震えが走った。
ハルの中に、言いようの無い感情が膨れ上がる。圧倒的な強さと才能を目の当たりにして、憧れと恋情と執着が圧縮されたような感情が。目の前の焦がれてやまない唯一無二の人を、自分以外の誰の目にも晒さないように攫ってしまいたい。そう思い詰め、瞳は爛々と輝き、うっそりとした笑みが知らずに口の端に上る。
「ハル。考えていることが怖いわ」
穏やかだがハッキリと、こちらを制すエリスの言葉に、ハルはハッと我に返った。瞬時に己を取り戻し、深々と腰を折る。
「申し訳ありません。エリス様のお手を煩わせたばかりか、お見苦しい所を……」
「いつものことだから気にしてないわ」
穏やかだがどこか突き放したようなエリスの様子に、ハルは悄然とうなだれた。チラチラとエリスを窺うその様子は、飼い主に怒られるのを恐れる犬のようだった。
自信満々、泰然自若が常のハルの情けない姿に、銀毛犬の咆哮の影響が抜けた双子は、ザマァミロと思った。優秀な兄に虐げられるのは下の弟妹の宿命だが、その暴君の情けない姿を見られて気分が良かった。
「おい。い、今、何が起こったんだ?」
ブレイン、マックス、ライトが恐る恐る近づいてきた。銀毛犬が完全に事切れているのを確認し、信じられないといった表情でエリスを見ている。ありのままを見ていたはずだが、俄かには信じられないような光景だった。ドレス姿の令嬢が、銀毛犬を一撃で葬ったのだ。
その化け物でも見るような不躾な視線に、ハルは殺気立ち、ダフとラブは苛立った。
「ラース嬢。今、何が起こったんだ?何故あの魔獣を倒せた?」
ブレインに迫られ、エリスは困ったように首を傾げる。
「ダフ」
そんなブレイン達からエリスを隠すように立ち、ハルは懐から薄いカードを取り出す。そこには、ラース侯爵家の紋章が描かれていた。無言で頷き、ダフはカードを受け取る。
ハルはにこやかな笑顔で、懐中時計を取り出し、エリスに向き直った。
「エリス様。そろそろ観劇のお時間です。旦那様と奥様がお待ちですよ」
「あら大変!着替える時間はあるかしら?このドレスじゃ、観劇には向かないわよね?」
エリスは自分の姿を見下ろした。白いデイドレスは、茶会には向いているが夜の観劇にはいささか軽い。
「もちろん。お召し換えの準備は整っておりますし、時間もございます。私もお手伝いを」
「それはいいわ」
ハルの流れるように自然な変態発言を、涼しい顔でぶった斬り、エリスはブレイン達に微笑む。
「申し訳ありません、殿下。わたくし、家のものに何も言わずに出てきてしまったので、もう戻らなくては。わたくしが仕留めたあの魔獣は、冒険者のルールに則り、わたくしが頂いて帰りますわね?」
ハルは懐から取り出した魔法の袋に銀毛犬を仕舞い込む。魔法の袋は王家に献上されるぐらいの希少な魔道具だが、何故ラース侯爵家の執事が普通に使用しているのか。どんどん増えていく謎に、ブレインは眩暈がした。
「まて、ラース嬢。まだ話は終わっていない」
「先生方には既にラブが魔法でこの場所をお知らせしておりますわ。では、残りの実習、お怪我がないようお気をつけ下さいませね?」
エリスは有無を言わさぬ様子でブレインの言葉を押し切り、一礼するとハルを伴って消えてしまう。転移魔法は高位魔法で、王宮魔術師ぐらいしか使えないはずだが、どうしてあの2人は使えるのか。
また疑問が増え、驚きが大きすぎて処理できず頭を抱えるブレイン達が取り残された。