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「この愚弟に愚妹が」
冷ややかな声と共に、凄まじい熱量の炎が巻き起こり、周囲が爆発した。
「これしきの魔獣相手に後れをとるとは……。鍛錬が足りん。それでよくラース侯爵家に仕えようなどと思ったものだ」
白銀の髪をオールバックに撫で付け、銀縁の眼鏡をかけたとんでもない美貌の男が、冷ややかな視線をこちらに向けながら立っていた。身に纏うのはシワ一つない執事服、白い手袋、ピカピカの革靴。手には銀盆にフルーツの盛られた皿を持っていた。
ラース侯爵家、エリス付きの専属執事であり、双子の兄であるハル・イジーである。
「ハ、ハル兄様…」
先程の魔獣以上の殺気を感じて、ダフが悲鳴をあげて飛び起き、ラブは立ち上がって姿勢を正した。恐ろしい重圧を纏った冷気が、兄からダダ漏れている。これは疑いようもなく、完全に、完璧に、怒っている。
ダフを囲っていた魔獣達は、炎に巻かれ黒炭と化していた。しかしダフにもハルにも、小さな火傷一つない。魔術師のライトは、こんな精密で正確な魔法の展開が可能なのかと、目の前の光景が信じられずにいた。
「実力も足りずに、何故、森の奥に入った。お前らが死ぬだけならまだしも、殿下の身に万が一のことがあれば、我らの主家であるラース侯爵家にも責が及ぶのだぞ?」
静かに激昂する兄に、ダフとラブは先程とは違う命の危機を感じていた。抜き身の剣を喉に突きつけられている様な恐ろしさを、血を分けた筈の実の兄から感じる。
「あらあら、ハルは厳しいわね。ダフ、ラブ、怪我はなかったかしら?」
そこにのんびりとした声がかかる。途端にハルの冷気が霧散し、柔らかな雰囲気に変わった。軽く頭を下げ、主人に場所を譲るために一歩下がる。
「お、嬢さまぁ」
「お嬢…」
そこにいたのはエリスだった。ハルの執事服も森の中に相応しくないものだったが、エリスに至ってはドレス姿だ。柔らかなシフォンを重ねた白い生地は、木の枝に引っ掛けただけで破れそうなほど頼りない。お茶会にでも参加しそうな軽やかな春の装いは、森の中では異質だった。
エリスはいつもの様に穏やかな微笑みを浮かべている。その笑顔に、ダフとラブの体から、力が抜けるのを感じた。
エリスはダフとラブの無事を確認すると、双子の後ろでポカンと口を開けているブレイン達に漸く目を向けた。
「あら?お怪我をなさった方がいるのね?ラブ?治癒は?」
「申し訳ありません。魔力が回復していなくて…」
魔力ポーションを飲んだが、ラブの魔力はまだ充分には回復していなかった。まるで亀の歩みの様に、じわりじわりとした回復力なのだ。
「まぁ、ラブ…。魔力が無くなるまで頑張ったのね、偉いわ」
うんうんと頷かれ、優しく頭を撫でられる。ラブは鼻の奥にツンとした痛みを感じた。
「ダフも頑張ったわね。たくさん魔獣を倒したんでしょう?強くなったわね」
そう声をかけられ、ダフは不意に溢れた涙を見られないようにぐいと拭った。
「貴方もそう思うでしょう?ハル」
「ええ、よく頑張りました。自慢の弟と妹です」
先程の冷ややかさはどこにいったのか、ハルは満面の笑みでエリスに首肯する。実に心のこもった労いだった。彼はエリスの言うことには一切逆らわない、エリス至上主義だ。エリスが望めば、己など簡単に曲げてしまう男だ。そんな兄の調子のいい言葉に、双子の感動の涙が引っ込んだ。蕩けるような視線をエリスに捧げる兄に、胡乱な目を向ける。
「じゃあ代わりに私が怪我の治癒をするわね?殿下、お手に触れても構いませんか?」
「あ、あ、あぁ…」
エリスがブレインに目を向け、許可を取って手に触れる。温かな魔力に包まれ、ブレインの怪我がみるみる癒されていく。特にひどかった腕の怪我は、わずかな痛みも残さず霧散した。
「無詠唱でこの回復速度…。まさか、あり得ない」
ライトが目を見張っているが、エリスはのんびりと「これで治癒完了です。念のために後で王宮の侍医さんに診てもらってくださいね」とブレインにのほほんと告げている。
「マックス様は…傷は回復しているみたいね。ラブ、ポーションと魔力ポーションはあるかしら?」
エリスの言葉に、ラブは荷物からポーションと魔力ポーションを取り出した。実習に備え、数だけは沢山あるのだ。効くまでに時間が掛かるが。
「ありがとう。…ううん?随分と薬効成分が低いのね。粗悪品かしら?」
「エリス様。それが一般的に使用されているポーションでございます」
ポーション瓶を日にかざして不思議そうな顔をするエリスに、ハルが首を振る。
「そうなの?…シナリ草が不活性みたいね」
エリスはポーションを目の高さに掲げ、魔力を流し込みながら小さく振った。ポーションは白い光を僅かに放ち、その透明度が上がっていく。
「これぐらいでいいかしら?ラブ、飲んでみて」
「エリス様!試飲は私がっ!」
「ハルはまだ魔力が有り余っているでしょう?必要ないわ」
エリスの手ずからの改良魔力ポーションに、ハルが目の色を変えて熱望するが、エリスはキョトンと首を傾げる。その隙にラブが目をキラキラさせてポーション瓶を受け取り、何の迷いもなく一気に呷った。
「あっ!愚妹っ!私のエリス様の改良ポーションを飲むなど、1000年早いっ!」
慌ててポーション瓶を取り戻すが、既にポーションは飲み干された後だ。ギリリッと凄い目でラブを睨みつけるが、当の本人はじっくりと魔力ポーションの効能を堪能していた。
「うわぁ!魔力がどんどん回復していくっ!」
歓声をあげてラブが杖を振ると、その先から炎が飛び出す。市販のポーションとは、雲泥の差だ。
「ライト様もどうぞ?」
兄妹が揉めている間に、エリスは活性化させた魔力ポーションをライトに渡す。言われるままにポーションを口にしたライトは、その回復の早さに目を剥いた。
何かを聞きたげなライトを放って、エリスは次にマックスに近付いた。ドレスに土がつくのも構わずに、地面に座り込むと、未だに気を失ったままのマックスの頭を抱え、膝に乗せた。その口に優しくポーションを含ませる。マックスに飲ませたのは怪我や体力を回復するポーションで、同じくエリスが活性化させたものだ。
「う……?」
マックスは痛みが消え、身体が急激に軽くなるのを感じ、目を開けた。エリスに頭を抱えられた状況なのに気づき、ギョッと身を捩る。
「良かった、お目覚めですね、マックス様。ご気分はいかがですか?」
「ラース侯爵令嬢っ?」
「エリス様っ!軽々しく男性に触れてはいけませんっ!」
エリスの行動に気付き、血相を変えたハルが飛びついてくるが、エリスはキュッと眉を顰める。
「ハル。怪我人がいるのに大声はいけないわ」
「申し訳ありません。ですがそのお手を速やかに、早急に、お離し下さい。なんと羨ましいっ膝枕などっ!いけません、すぐにその方を膝から退けてください!」
鬼の形相のハルにため息を吐き、エリスは優しくマックスの頭を膝から降ろす。マックスの顔が真っ赤に染まっていたが、エリスは全く気にしていなかった。
「ダフもいらっしゃい。傷を治してあげるわ」
「愚弟の治癒など愚妹が致しますっ!」
エリスが手招きするが、ハルに極寒の視線と本気の殺意を向けられ、ダフは慌てて首を振る。魔獣の襲撃から逃れたのに、ここで兄に殺されたら洒落にならない。ラブが気を利かせてサッと治癒魔法をダフにかけた。魔力を回復したラブの治癒魔法は、エリスには劣るものの、傷だらけだったダフの身体をあっという間に癒していく。
「エ、エリス様。ラブに癒してもらえたので平気です」
ブンブンとぎこちない笑顔で手を振るダフに、エリスは「あら。ラブはやっぱり優秀ね」と嬉しそうに微笑む。殺意を上手に仕舞ったハルも、満足気に頷いた。
「ラース嬢。何故ここにいる?」
漸く我に返ったブレインが、信じられないようにエリスを見つめる。エリスはニコニコと笑いながら答えた。
「申し訳ありません、殿下。わたくし、ダフとラブのことが心配で、あの子たちの杖と剣に危機感知の術式を施しておりましたの。あの子達の命に危機が迫った時、わたくしにあの子達の位置が正確に通知されるように設定しておきました」
まるで明日のお天気の話をする様な気楽さでエリスは言うが、その内容にブレインは衝撃を受ける。
「危機感知の術式?そ、そんなものがあるのか?聞いたことはないぞ」
「お恥ずかしいですわ。可愛い子には旅をさせろと申しますが、いくら優秀とはいえあの子たちはまだ初等クラス。課外実習に抜擢され、特別優秀な方々と先生方が同伴していると分かっていても心配で……。保険代わりに術式を施したのです」
キュッと手を組み、恥ずかしそうに頬を染めるエリス。その大変可愛らしい仕草に、約1名、胸を撃ち抜かれ悶絶している執事がいたが、他の面々はそれどころではなかった。
「えっ!そんな術式いつの間に?魔力増幅の術式は掛けてもらいましたけど、それ以外は何も付与されてないですよ?」
「俺も!切れ味と攻撃力を上げる付与は掛けてもらいましたけどっ!」
「うふふ。念入りに隠蔽しておいたの。過保護だって怒られそうだから」
魔力増幅に切れ味、攻撃力向上、危機感知に隠蔽の術式。それが本当だったらダフの剣とラブの杖は国宝どころか神話級の宝物である。
「それにしても。いくら数が多いとは言え、二人があの程度の魔獣に後れをとるなんて珍しいわね」
そうエリスが呟いた時だった。
音もなく何かがエリスに向かって一直線に襲いかかる。
鈍い金属音がして、辺りに赤いものが散らばった。
「チッ、妙な気配を感じると思ったら、1匹、仕留め損なっていたか」
ハルの声に、不機嫌な色が混じる。
それとともに、フルーティな香りが広がった。銀盆からこぼれ落ち、地面に散らばったフルーツが魔獣に踏み潰されている。
エリスに襲いかかった魔獣の攻撃を、ハルは持っていた銀盆で防いでいた。磨き抜かれた銀盆は、魔獣の爪をあっさりと弾き飛ばし、凹みも傷つきもしない。
「銀毛犬」
あの火力の中で生き延びた魔獣は、憎悪を滾らせた唸り声を上げた。




