10
討伐実習での騒動は、大きな問題にはならずに終着した。教師の定めた探索範囲を逸脱した王太子のグループが、軽い叱責を受けたが、それだけだった。ラース侯爵家の印章と、王命により、王太子の失態や変異種の出現は厳重に隠蔽された。
但し、ちょっとした変化はあった。ブレインの側近であるライトとマックスは、学園内の騎士クラブと魔術師クラブを辞め、学園が終わると直ぐに王宮の騎士団や魔術師団の下っ端として訓練に従事する様になった。より実践的な訓練を積む為で、どちらも団長である父親に自ら願い出たという。
また、王太子は、学園内の仕事や公務を黙々とこなしている。お茶会やイベントにはあまり顔を出さなくなり、憂いを含んだ顔で時折、深く考え込む事が多くなった。
「わざわざ足を運んでもらって、すまない」
ある日の昼下がり、人払いのされた生徒会室に、エリスはブレインに呼び出されていた。勿論、侯爵令嬢たるエリスには、ラブとダフの2人がぴったりと付き添っていたが、王太子の側近と護衛達の姿は無かった。
「私の侍従と護衛は隣室に控えているよ。あぁ、影はついているけど、こればかりは外せないからね。気にはしないで」
ここ数ヶ月で、急に憂いを帯びた色気を放つ様になった王太子は、微かに笑みを浮かべる。
「さようでございますか」
対するエリスは、王太子自らの呼び出しに臆する事なく、いつもの様に朗らかな笑みを浮かべている。反対に、警戒心が露わなのは双子の方だ。
「出来ればダフとラブ嬢にも外して欲しいけど、それは叶わないんだろうね?」
「申し訳ありませんが。お呼び出しの名目がいつもの様にダフとラブの引き抜きですもの。この2人がいなければ、奇異に思われますわ」
平凡に擬態するエリスは、予想通り首を振った。
「ですが、聞こえない様には出来ますわよ。ダフ、ラブ。部屋の隅に控えて頂戴?」
柔らかな主人の声に、ダフとラブは音もなくスルリと部屋の隅に下がる。そこに、エリスがパチリと指を鳴らした。空間がピシッと歪んだ様に感じた。
「音声を遮断しました。聞かれたくない話は、そう願えば私と殿下以外には聞こえないはずですわ。行動を制限するものではありませんから、影の皆様もどうかお楽になさってね?」
突然の無音に緊迫した影達に、エリスが穏やかに声をかける。ブレインが重ねて「大事無い」と言い渡せば、影達は驚きの気配を残しながらも落ち着きを取り戻した。
「便利なものだ。聞かせたくない会話だけ、遮断出来るのか」
「内緒話にはもってこいでしょう?」
無邪気に笑うエリスだが、この魔術がどれほど緻密で複雑な魔術陣によるものか、魔術を齧っただけのブレインにさえ分かる。それを指を鳴らしただけで行使出来る。予想を超えた実力に、最早、感動を通り越して呆れしか感じない。
「…それで、エリス嬢。今日お呼びしたのは他でもない」
ブレインはエリスの側に近づくと、頭一つ分は小さいエリスを見下ろした。華奢で、小さくて、どこにでもいる様な平凡な令嬢だ。外見は、そうとしか見えない。
「私が今から口にする事は、王族という身分である事を忘れた上で、どうか聞いてほしい」
ブレインは、真摯にエリスを見つめ、その片手を取って膝を付いた。
「貴女を、心の底からお慕いしている。どうか、私の妻になってくれないだろうか」
◇◇◇
空間を無理矢理歪めた様な圧が、部屋を覆う。
「なっ!」
ブレインは咄嗟にエリスを背に庇った。ダフとラブ、そして影達がブレイン達に慌てて駆け寄ろうとした瞬間。
ビシリッと歪む音が響き、そこには、悪鬼の表情をしたハル・イジーが佇んでいた。いつもは綺麗に整えられた銀髪が乱れ、身体中から紫電が放たれている。
「いや、どこの魔王だよ」
遠い目をするダフに、ラブが喝を入れる。
「現実逃避しないで頂戴、ダフ。血のつながった兄よ」
その存在の禍々しさに、双子は引き攣ってそれぞれの得物を構えて兄に対峙した。王太子とエリスの会話は全く聞こえなかったが、王太子の顔つきと跪いた事から、求婚しやがったのだろう。それを、兄が嗅ぎつけた。
エリスに惚れ込む男が2人。物語などではここで「決闘だ!」という流れになるのだが。兄が絡むと、途端に国の滅亡の危機だ。兄にはエリスに関して、常識も良識も一切通じない。エリスのみを只ひたすら欲する、狂犬なのだ。
「ブレイン王太子。エリス様から離れろ」
夥しい魔力を放出させるハルは、その壮絶な美貌も相まって、人外の様だ。本当に、何でこんなのが血を分けた兄なのか。森で遭遇した変異種など、可愛いものだと感じる。
「ハル兄。ちょっと落ち着け。王太子殿下に命令するな、不敬だ」
「その魔力、止めてよ。濃密すぎて気持ち悪い!」
キャンキャンと吠える双子に向かって、ハルは無造作に右手を振る。途端、双子は壁に向かって吹っ飛んだ。
「うるさい」
これが身内に対する仕打ちかと、ダフとラブは文句を言おうと体を起こそうとしたが、ご丁寧に上から圧をかけられ、ピクリとも動けなくなった。
影達も王太子を守るべく動いていたが、こちらも姿を現した瞬間に壁に飛ばされ、押さえつけられていた。
「ブレイン王太子。エリス様から離れろ」
抑揚のない声で、ハルが繰り返す。ギラギラと怒りに燃える鮮やかな緑の瞳にブレインは命の危機を感じたが、ここで退くわけには行かなかった。
「断る、ハル・イジー。君こそ退きたまえ。私は真摯にエリス嬢に乞うているんだ。今は執事でしかない君に、止める権利などない」
「…っ!」
ハルが息を詰め、悔しげに顔を歪める。
「王家とラース侯爵家には約定がっ」
「ハル」
それまで黙っていたエリスが、咎める様な声を上げた。
「悪い子ね。盗み聞きなんて」
王太子の背後から、ひょこりと顔を出し、子供を嗜める様にハルを睨む。
「でも聞いていたのなら分かっているでしょう?殿下は身分を忘れて欲しいと仰ったわ」
エリスは小首を傾げ、ブレインを見つめる。
「ロメオ王国の王太子としての命ではなく、ブレイン様自身のお申し出なら、約定には反しないわ」
「エリス嬢…」
ホッと頬を緩め、ブレインは安堵する。エリスにはキチンと意図が伝わっていた様だ。
「それでもっ!エリス様に求婚など、許せないっ!」
激情のままに揺らぐハルの魔力に、部屋の中に更なる圧がかかる。お昼に食べた物が逆流しそうで、ダフとラブはグッと身体を強ばらせた。
「ハル!」
「キャンッ」
鋭いエリスの声に、ハルが飼い主に叱られた犬の様な声を上げ、平伏した。目には見えないが、エリスから多数の魔術陣が展開し、ハルの魔力を無力化していた。
「シュウ」
蹲るハルを睥睨しながら、エリスが短く呼んだのは、ハル、ダフ、ラブの父であり、現イジー子爵家の当主、ラース侯爵家の執事を務めるシュウ・イジーだった。
求めに応じ、シュウは音もなく現れた。銀髪と緑の瞳はハルと同じだが、上品に年齢を重ねた皺とモノクルが、渋めの色気を醸し出している。仕立ての良い執事服を嫌味なく着こなし、柔和な笑みを口元に刻んでいた。
「お嬢様、ブレイン殿下、御前、失礼いたします」
美しく2人に礼をとり、シュウは未だに動けず地面に平伏するハルの襟首を掴んだ。
「愚息がとんだご迷惑を」
「連れて帰って頂戴。殿下への無礼は、私が謝罪致します」
「まだまだ未熟に御座いますな。躾け直すと致しましょう」
穏やかながら有無を言わさぬ迫力を感じ、ブレインはゴクリと喉を鳴らす。ハルの強さは規格外だと感じていたが、それを簡単に無力化するエリスも、息子を躾け直すと言う父親のシュウにも、もはや人間とは思えぬ迫力があった。こっちも人外の様だ。
それでも、ブレインはエリスへの求婚を取り下げる気持ちは無かった。どうしても、惹かれる気持ちを抑える事が出来ないのだ。
「では私はこれで」
襟首を掴まれ不自然にカクカクと揺れるハルをものともせず、シュウは来た時と同じ様に音もなく消えた。僅かな魔力の揺らぎもなく忽然と消えた親子に、影達からは呆れとも取れる息が漏れた。
「殿下。我が家の者の無礼、お許し下さいませ」
淑女の礼と共に紡がれたその言葉を聞いて、ブレインは苦笑を浮かべた。
「我が家の者か…」
約定がある以上、許されない事は分かっていたし、エリスの気持ちが自分に向いていない事だって、分かっていた。
しかし、自分の中で初めて芽生えた想いを、ブレインは蔑ろになど出来なかった。初めて知った、感情だったのだ。
あの日からエリスを想わない日はなかったし、毎日が浮き足立って楽しくて、しかし苦しくて身を切られる痛みを伴った。
だが、そろそろ現実に戻らなくてはならない。
ブレインの肩には、この国に対する責任と、愛情と、忠誠がある。
己の感傷に、ケジメを付けねばならないのだ。
ブレインは改めてエリスの手を取ると、傍に跪いた。
「答えは分かっているけどね、エリス嬢。君の口から聞かないと諦められそうにもないんだ。遠慮は要らないから、先程の返事を聞かせてくれないか?」
エリスは、困った様な笑みを浮かべ、口を開いた。
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