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黒渦-CLOSE-  作者: 天海六花
9→8 返る
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9→8 返る 一

     一


 店の奥。休憩室へ向かう薄暗い廊下の端に、例の壊れた振り子時計がある。

 三人分の珈琲を持った美帆はその前を通りかかり、ふと文字盤を見る。黒い渦の文字盤に、やはり出鱈目な時を指し示す、煤けて黒ずんだ針。しかし振り子は、小気味良い音を立てて左右に振れている。壊れている気配のない、振り子のリズム。コチコチと聞き心地の良い音。ただ文字盤の黒い渦だけが、不可思議な、古い、振り子時計。

 カチリ、と、長針が一つの時を刻む。本来の右回りとは逆の、左回りに。

「やっぱり壊れてるんだ。逆に回っちゃうなんて変な時計」

 針を見つめ、文字盤の黒い渦を見つめ、美帆の心がふいに不安感に見舞われた。キョロキョロと周囲を見回すが、誰の気配もない。自分一人だ。

「ここの前を通る時、いつも誰かに見られてるような気がするのよね。このグルグルの渦模様が悪いのかな?」

 美帆は眉を顰め、文字盤に顔を近付ける。やはり針が出鱈目に廻るだけで、なんの変哲もない古い時計だ。

 彼女はふうと息を吐く。

「まぁいいや。筧さんの所に行こう」

 先ほど店に入ってきた筧は、何かに対して酷く憤慨していたが、口に温かいものが入れば落ち着くだろう。それに大らかで頭のいい綾弥子ならば、筧の怒りを静めていてくれるはずだ。

 そう自分に言い聞かせ、美帆は休憩室の前までやってきた。

「約束が違うじゃない! わたしはすぐにでもって言ったの! なのに今朝、事務所に行ってみたら、いきなり社長に解雇通告を受けたわ。もうスキャンダルの揉み消しは難しいからって! だから急いでって言ったのに、何をノロノロしてるのよ!」

 扉越しに、筧の怒鳴り声が飛び込んでくる。美帆はその剣幕に圧され、思わず立ち竦んでしまった。


 民間放送のラヂオから流れてくる筧の歌やお喋りは、いつでも美帆の心を和ませ、ぽっと温かくしてくれた。温厚そのものといった優しい声音で演じ、歌い、語り、筧の人気は絶頂だった。

 だが最近はその地位が、新しい女優に奪われつつある事は知っている。三流新聞のゴシップ記事に、彼女のスキャンダルが多数、やり玉に挙げられている事も知っている。それでも美帆にとって筧の存在は、いつでもキラキラ輝く、心をほっとさせてくれる憧れの女優だったのだ。

 美帆の描いていた筧の姿とまるで結びつかない、ヒステリックな声で喚き散らす筧が、この扉の向こう側にいる。小刻みに手が震え、美帆はただただ立ち竦んでいるばかり。

「ヘラヘラと笑ってないで、早く殺して! 今すぐ、あの生意気な新人と、わたしを裏切って三流雑誌に、わたしのスキャンダルを垂れ流した作曲家を殺してよ! そういう約束だったでしょう!」


『殺す? 誰を? ──誰が誰を殺せと、言っているの?』


 美帆の思考は停止し、考える事を、今聞こえてきた事実を、客観的に筧たちに結びつける事を拒否している。筧が「殺せ」など口にするはずがない。人気女優に憧れるその思いが打ち砕かれて、美帆の心を凍結させていた。

 驚愕で体は硬直し、美帆の手から配膳盆が滑り落ちた。


 ガシャンと床に落ちて、砕け散った珈琲茶碗。筧の声が途切れ、足音が近付いてくる。

『逃げなきゃ』

 そう思ったものの、美帆の足は動かない。まごついていると、休憩室の扉が勢いよく開かれた。

 普段と変わらぬ優しい笑みを浮かべた綾弥子。彼女が美帆を見下ろしている。

 眼鏡の奥にある瞳は笑っていて、咎める様子も責める様子もない。普段と変わらぬ、妖艶で優しげな彼女がそこにいた。

「あら、どうしたの? お店で待っていてって、私は言ったわよね?」

「あ……ああ。あの……」

 美帆は怯えた視線を綾弥子に向ける。彼女の向こう側には、憤怒の表情をした筧。そして能面のように無表情なまま、真っ直ぐ立っている晶の姿。

 綾弥子の穏やかな声音は、美帆の知っている綾弥子と何一つ変わらない。だからこそ、彼女という存在がとてつもなく異質で不気味で、恐ろしいものとして脳裏に焼き付いた。

「美帆、どうしたの? お店で待っていてって、私は言ったわよね?」

 微笑みを絶やさぬまま、綾弥子が同じ言葉を繰り返す。だが美帆は何も答えられず、また、動く事もできなかった。

「何よ、その子? アナタたちの仲間じゃないの? 誰でもいいわ。あいつらを早く殺してよ。もう時間がないの」

 ずっと憧れていた筧の口から、聞きたくもない恐ろしい言葉が飛び出す。晶はゆっくり動き、すっと筧の顔の前に手を翳した。

「な、何なの?」

「黙って」

「わたしが黙れば今すぐ、あいつらを殺してくれるの? このわたしが切羽詰まった状況に陥っているのが好転するっていうの?」

「黙って」

 晶はもう一度筧の言葉を遮ると、すうっと目を細めて、振り返り様に美帆を見る。表情の乏しい晶の黒い瞳が美帆を居抜き、美帆は床に零れた珈琲の上へと、力無くしゃがみ込んでしまった。珈琲の染みが、美帆の着物の裾を濡らす。


「ねぇ、美帆。お店で待っていてって、私は言ったわよね?」

 優しく微笑む綾弥子の表情が歪む。いや、表情は変わっていない。しかし美帆には綾弥子の微笑みが、かくも恐ろしく映っていた。


「ねぇ、美帆。お店で待っていてって、私は言ったわよね?」

 壊れたレコォドのように、同じ言葉を綾弥子が口にする。いや、今現在、自分に対して彼女がそう語りかけているのか、それとも数秒前の記憶の再生なのか、それすらも認識できなくなっていた。


 同じ言葉を繰り返す綾弥子。

 繰り返される。グルグルと、渦を巻いて、同じ言葉が、状況が、時が繰り返される。


「ねぇ、美帆。お店で──……」

 数度目の綾弥子の言葉は、最後まで聞き終える事ができなかった。

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