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黒渦-CLOSE-  作者: 天海六花
10→9 訝しむ
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10→9 訝しむ 三

     三


 酷く寝苦しい。もうすっかり暦は秋だというのに、今年の残暑はかなり厳しい。そのせいか、室内は少々蒸し暑く、美帆は何度も寝返りを打っていた。

「あっつ……やっぱりちょっとだけ窓、開けよう」

 ギィと軋む西洋寝台(ベッド)から降りる。

 この茶館の二階は西洋風の造りの部屋が四つあり、それぞれ美帆、綾弥子、晶が三室を使い、残り一室は物置となっている。西洋風の部屋なので、床は畳敷きではなく板間(フローリング)で、寝る場所は布団ではなく西洋寝台があるのだ。

 欠伸をしながら窓の鍵を開ける美帆。

「筧さん、またいらっしゃるかな? 今度いらっしゃったら、あたしも一緒にお話しさせてもらえるように頼んでみよう」

 昼に訪れた筧の事を思い出し、美帆はゆっくりと観音開きの窓を開ける。

 僅かだが風が室内に吹き込み、美帆は額に滲む汗を手の甲で拭った。蒸し暑さが少しマシになったように感じる。


「あれ?」

 薄暗い瓦斯燈が続く道を歩く人影が二つ。綾弥子と晶だった。

 市内の商店街から少し外れたこの茶館の近辺は、夜になるとほとんど人通りはない。むろんほぼ全ての店が閉店してしまう夜中にわざわざ出かける用事などもありはしないし考えられない。

 だが綾弥子と晶は二人連れ立って、どこからか帰宅してきた様子だった。綾弥子は昼間と同じ、黒地のモダンなワンピース姿。晶は白いシャツと濃紺のスラックス。客を出迎えるための、店を開けている時の格好のままなので、ちょっとお洒落して出掛けてきた、眠気を促すために散歩をしてきた、という装いではない。しかも時間が時間なだけに、二人の様子から何やら異質な空気を感じずにはいられなかった。

「こんな夜中なのに?」

 ぼんやりと窓から二人を見下ろしていたが、ふいに晶は立ち止まり、ゆっくりとこちらへ視線を上げた。

 とっさに美帆はしゃがみこんで、晶の視線から逃げてしまう。

「あれ? あたし、なんで隠れたの?」

 やましい事などない。ただ寝苦しくて、窓を開けただけ。そうしたら外に二人の姿が見えたので、ぼんやり眺めていた。

 何もおかしな所はない。悪い事をしている訳ではない。しかし美帆は、晶の視線から逃げるようにしゃがみ込んで隠れてしまった。

 美帆は自分の行動に首を傾げつつ、そっと立ち上がって窓の外を見下ろした。もう綾弥子と晶の姿は見えない。

「どこかに行っちゃった」

 夜中に外出していた二人の行動と、とっさに隠れてしまった自分の行動。どちらも不可解に思いながら、ただぼんやりと窓の外を見続ける美帆。

 深夜の静寂が、美帆の周囲に取り巻いていた。


 その時、コンコンと控えめなノックが聞こえた。不意を突かれた突然の物音に美帆は驚き、首を竦める。

 返事をせずにいると、コンコン、コンコン、とノックが続く。意を決して、美帆は部屋の入り口に近付いた。

「誰ですか?」

 扉を開けずに問い掛ける。

「僕」

「晶くん?」

 つい先程まで外にいたはずの晶。その彼が扉のすぐ外にいる。


 冷たい手で心臓を掴まれるようなヒヤリとした感覚──恐怖や畏怖といったものを感じ取り、美帆は立ち竦んでいた。悪い事など何もしていないし、彼を恐れる必要など、何もないはずなのに、だ。

 無理に押し入ってくるでもなく、しかし立ち去る気配はない。薄い扉越しに、向かい合う美帆と晶。

 二つの人の気配が扉を挟んで、そこにある。

 いつまで黙っていても、きっと晶は立ち去ってくれない。そう決断し、美帆は勇気を振り絞って、扉越しに口を開いた。

「何か用ですか?」

 思わず、声が震える。心にあるのは、早く立ち去ってくれという願いのみ。なぜ晶を避けようとするのか、美帆自身も理解できないでいた。あえて理由をあげるならば、自らの保身や身の安全のためというべきか。

 しかし待てど暮らせど晶からの返事はない。

「あの。あたし、寝てたんですけど」

 いっそ強く言って追い返そうと、控えめに拒絶の意を示すが、扉の向こうにいる晶の気配は消えない。早鐘のように脈打つ胸を押さえ、美帆は小さく深呼吸した。僅かに震える指先を伸ばし、そしてカチリと扉の鍵を外す。ゆっくりと、細く、扉を開いた。


 戸口の細い隙間から、晶の陶器のような白い肌と黒い瞳が片方だけ見える。やはり彼の表情は乏しく、なぜ、この時間に美帆の部屋を訪ねてきたのか、理由や事情が全く分からない。

 細い隙間に僅かなりとも相手の姿が見えたためか、美帆の心のさざ波がほんの少し穏やかになる。やはり顔を見て話す事と、姿を見ないまま話す事は大違いだった。

「何か急な用事ですか?」

 晶は黙って、細い隙間から美帆を見つめている。ただひたすらに、無言のまま。

 彼の態度に少々苛立ち、美帆は扉を大きく開いて頬を膨らませた。恐怖や猜疑心は消えていないが、はっきりしない彼の態度に苛立ったのは事実だったからだ。

「夜中に女の子を起こしておいて、無理やり戸を開けさせて、不躾にジロジロ見て、なんでずっと黙ってるんですか? いくらあたしの雇い主の弟さんでも、これってちょっと失礼な態度だと思うんですけど? 用がないならあたし、もう寝ちゃいますよ? 本当に眠いんです。明日、晶くんだってお仕事があるじゃないですか!」

 晶の姿をはっきり見られるほどに扉を開いたので、晶からも美帆の姿が見えているはずだった。しかし晶の視線は美帆の背後へと向けられている。美帆は頬を膨らませたまま、晶の視線を辿って自分の背後へ振り返ってみた。

 開いた窓。先ほど、自分が開けたものだ。

 彼の視線が何を捉えているかに気付いた途端、再び何とも言えない動揺が美帆を襲う。ツッと背筋が冷たくなり、吐息が途切れ途切れに震える。

 決して見つかってはいけないものが見つかった時のように、美帆は扉を開けた事を小さく後悔した。


「窓、開けたの?」

 晶が初めて言葉を発した。

「えっ? その……あ、暑くて。寝てたんですけど、ちょっと蒸し暑くなっちゃって、ついさっき開けたんです」

「なに見てたの?」

「窓を開けただけで、何も見てませんけど?」

 迷う事なく口を突いて出た嘘に、美帆自身が戸惑う。外を歩いていた二人を見た事を、嘘を吐いて隠してしまった事に、小さな罪悪感を抱く。しかし今更、そんな些細な出来事の相違を訂正し、詫びる気はない。何も悪い事ではないと思ったからだ。

 しかし、美帆の心を締め付ける得体の知れない動揺が、彼女の指先を震わせる。とっさに美帆は、その手を後ろ手に隠した。彼にこの動揺を見透かされたくないと、そう思ってしまったのだ。

 晶は彼女の言葉の真意を確かめようとするかのごとく、じっと黙って美帆の顔を見つめている。美帆は自身に絡まる彼の視線に居心地の悪さを感じ、上目がちに晶を睨んだ。精一杯の虚勢を張って。

「あの……あたし、もう眠いんですけど、まだ何か?」

 コクリと頷き、晶は黒い瞳をもう一度美帆の背後へと向けた。視線を合わせない、誠意のない、だがいつも通り感情が篭もらない抑揚のない声で、晶は美帆に詫びた。

「起こしてごめん。おやすみ」

 ようやく諦めてくれたのか。

 美帆の背中にジワリと汗が滲む。難攻不落の城を、偶然の産物で攻め落としたかのような、納得できぬ、満足度のない達成感。それでも、雁字搦めにされていた心の呪縛を解きほぐすには充分だった。

「うん、もういいよ。気にしないで。おやすみなさい、晶くん」

 ほっと胸を撫で下ろし、美帆は笑顔で晶に挨拶する。

 晶は立ち去ろうと踵を返し、だが僅かに振り返って肩越しに美帆へ警告する。

「夜は……あまり遅くまで起きてない方がいい」

「だから、暑くて目が覚めちゃったんですってば」

「夜は窓、開けない方がいい」

 また同じ問答を繰り返すのかと、美帆は小さな絶望感を抱く。また心が、彼の言葉の鎖に呪縛されてしまいそうだった。

「お部屋が暑くても我慢しろって事ですか?」

 それでも懸命に虚勢を張り、眉を顰めて唇を尖らせる。晶は何も答えず、滑るように足音を発てずに立ち去った。


 美帆は急いで扉を閉め、鍵を掛け、何度も何度も、扉が開かない事を確認する。確認を終えると、そのままペタリと床に座り込んでしまった。

「あたし、何怯えてるの? 晶くんはただ、窓を開けっ放しだと風邪ひくよって忠告してくれただけなのよね? 綾弥子さんと一緒だったんだから、夜にお散歩に行ってたって変じゃないわ。確かにこんな夜中に出歩くのは変だけど、悪い事じゃないもの。なのになんであたし、こんな怯えてるの?」

 両腕を擦りながら、美帆はたった数分前の彼との会話を思い出し、身震いした。

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