8→7 喰む 四
四
休憩室で膝を抱えて体を丸めて座り込んでいる美帆。頭の中は靄がかかっているような、何も考えられない思考停止状態。それでも必死に自我を繋ぎ留める。
まるで自分とこの世界を必死に繋ぎ止めておくかのように。
「あたし、どうして忘れちゃってるの? あたしの故郷は? 弟、いたの? こ、故郷。家族……う、んっ!」
酷い吐き気と頭痛。美帆はこめかみを抑えて唸った。
ガクガクと震えている美帆のいる休憩室に、晶が配膳盆を手にやってきた。盆の上には淹れたての香り立つ珈琲。そして珈琲用ミルク壺も添えられている。
「晶くん?」
美帆が首を傾げると、晶は無言で珈琲の茶碗を乗せた盆を美帆の前に置いた。
「わざわざ持ってきてくれたんですか? ありがとう」
珈琲茶碗にたっぷりとミルクを注ぎ、美帆はふうふうと息を吹きかけて一口含む。そしてニコリと微笑んで晶を見上げた。
「美味しい。あったかい。少し、落ち着きました」
コクと頷き、晶が出ていこうとする。その背に、美帆は問い掛けた。
「ねぇ晶くん。故郷の事とか、自分が考えてた事を忘れちゃうって、変な事ですよね? あたし、どうしてここで働いているのか思い出せなくなっちゃって。あ、いえ! お仕事はすごく楽しいしやり甲斐もあるんです。けど、なんで故郷を離れて一人だけでいるのかなって……家族構成、ううん、家族とか、いたのかなって。それすらぼんやり漠然としちゃって、昔の事が何も思い出せなくなってて。だから……不安で……」
一時的に記憶が曖昧になっている事に、多大な不安を抱き、美帆は晶に向かって自らの疑問や不安を打ち明けた。
答えが欲しいとは思うが、少しでも励ましてほしいと思ったのだ。
「気にする必要ない。美帆は美帆」
振り返りもせず素っ気なく答え、晶は休憩室の扉を開けた。すると目の前に綾弥子がいる。そして綾弥子の隣には、白い百合の花束を抱えた女性──まだ少女とも言える年代の女が、鼻を赤くして啜り泣いて立ち竦んでいた。
彼女は自分とそう、年齢は変わらないのではないか? 美帆にはそう感じられた。
「調子が悪いところに申し訳ないけど、休むなら自分の部屋に行ってもらえないかしら? 特別なお客様がいらしたの」
綾弥子は腰に手を当て、妖艶な笑みを浮かべたまま、美帆に部屋の移動を願い出る。
「は、はい。じゃあ、お部屋に」
美帆はミルクたっぷりの珈琲茶碗を持ってゆっくり立ち上がる。
「晶、お店は支度中にしてきたから」
綾弥子の言葉にコクリと頷き、晶は室内に戻って座布団を用意した。美帆は茶碗を両手で大事そうに持ち、俯いたままそろそろと休憩室を立ち去ろうとする。
「ぐすっ……ひっく……」
百合の花束を抱えた涙ぐむ少女は美帆をチラリと見て、か細い声を絞り出す。
「あなたは、一緒に聞いてくれないの?」
「はい?」
綾弥子と晶は確かに、この少女より年上だろう。年上の者しかいない場での発言に、恐怖や窮屈さ、圧迫感を抱く者もいる。少女もそういった性分なのであろう。だから同年代の美帆に一緒にいてほしいと願い、声を掛けてきたのかもしれない。
美帆は少し困ったように眉根を寄せ、首を振った。
「すみません。あたし、このお店で働き始めたばかりなので、特別なお客様の対応はまだちょっと自信なくて」
少女は残念そうに俯いて花束に顔を埋め、そのまま黙り込む。
彼女は綾弥子に導かれるままに休憩室へと入った。
彼女の発した言葉は気にになるものの、自分も本調子でない。綾弥子に言われたまま、素直に部屋へ戻っておとなしくしているべきと判断し、美帆は無言でペコリと頭を下げて二階へと向かった。