番外編:あなたが私にくれたもの
一年後の穂高の誕生日の話
十一月二十二日は、いい夫婦の日――であり、真帆の夫である五十嵐穂高の誕生日だ。真帆にとっては、二重の意味で夫に感謝し夫を労わるべき日である。
真帆が穂高と結婚してから、およそ一年半。彼の誕生日を祝うのは二回目だ。今年は平日だったこともあり、仕事を終えた真帆はデパートの地下で少し豪華なお惣菜とケーキとワインを買って帰った。
真帆が買ってきたのは、フランボワーズのムースと和栗のモンブランだった。どちらがいいか穂高に尋ねたところ、モンブランを選んだので、真帆は残ったムースを食べることにした。
二人掛けのソファに並んで座って、甘酸っぱいムースを口に運ぶ。昨年真帆が作ったものもなかなか上手くできたと思っていたけれど、さすがお店の味は違うな、と真帆は感嘆した。
「やっぱりプロのケーキは美味しいね」
「去年真帆が作ったのも美味かったけど」
「そう? 今年も手作りしたらよかったかな」
「いや、いいよ。むしろ仕事なのに、いろいろ用意させて悪かったな」
「ううん。昨日もどこにも行けなかったし」
本当は日曜である昨日、二人でデートをする予定だったのだ。しかし真帆が体調を崩したため、大事をとって家でのんびりすることにした。せっかくの誕生日なのに、きちんとお祝いができずに申し訳ない。しかし穂高は気を悪くした様子もなく、むしろ真帆を気遣ってくれる。
「体調、もう大丈夫か」
「うん、全然平気。穂高、まだワイン飲む?」
「もらおうかな。そういえば、真帆は飲まないのか」
「今日はやめとくよ」
穂高のグラスにワインを注ぐと、自分はマグカップを口に運ぶ。今日、デパ地下のハーブティー専門店で購入したばかりのルイボスティーだ。少し癖のある味だが、なかなか美味しい。
「あ、そうだ。誕生日プレゼント買ってきたの」
真帆は立ち上がると、自室に隠していたプレゼントの包みを持ってくる。ブランドの紙袋を穂高に手渡すと、彼は嬉しそうにそれを受け取った。
「いろいろ悩んだんだけど、マフラーにしました」
「ありがとう。今使ってるの、さすがに買い替えようと思ってんだ」
「そういえば、穂高って物持ち良いよね……」
真帆はしみじみと言った。彼が持っている財布やキーケースも、ブランド物ではあるが、それなりに使い込まれている。大手家電メーカーイガラシの御曹司だとは思えないぐらい、夫の金銭感覚は堅実だ。しかしケチというわけではなく、お金を使うべきところには豪快に使う、というタイプである。
「良いものを長く大事にしたいタイプなんだよ」
「うん、知ってる」
「開けてもいいか」
「どうぞ」
穂高は丁寧にラッピングのテープを剥がし、包みを開いた。中からカシミヤのマフラーが出てくる。仕事でも使えるように、シンプルなチャコールグレーのものにした。地味かなと思ったけれど、なにせ夫は顔がとびきりかっこいいのだから、少しぐらい地味なデザインのものの方がよく似合う。
「いいな。もうちょっと寒くなったら使うよ」
「そうして。実は、私も欲しくなったから色違いで買ったんだ。私のはベージュ」
これまでの真帆は、恋人との「お揃い」にまったく興味がなかった。しかし穂高と結婚して指輪を購入してから、大切な人と同じものを持つのも悪くないな、と思い始めていた。
「色違いならそれほど主張しないだろうし、たまにはお揃いにしてみるのも良いかなって。……穂高が嫌なら、二人で出掛けるときにはつけないようにするけど」
「いや、俺は嫌じゃない。むしろ、わりと好きな方だ」
真顔で言った穂高に、真帆は吹き出した。そういえば、結婚指輪を積極的に欲しがっていたのは夫の方だった。
穂高と結婚してから、少しずつ自分の価値観が変わっている気がする。彼もまた、真帆に影響されているなあと感じる部分がある。他人だった二人が次第に家族になっていくのだなと思うと、真帆はどうしようもなく嬉しくなるのだ。
「ありがとう。マフラー、大事にする」
そう言って口元を綻ばせた穂高に、真帆も笑みを返した。普段はしっかり者の夫に甘えてばかりなのだから、こういう機会に少しでも喜ばせてあげなければ。
(私が穂高にしてあげられること、まだあるかな)
「穂高、何か私にしてほしいことある?」
「え」
「……今年は、ほっぺにチューよりはもう少しいいものあげられると思うけど」
昨年同じことを訊いたときは、夫から「ほっぺにチュー」をねだられたのだった。今にして思えば、自分たちはずいぶんと初心な夫婦だった。おままごとじゃあるまいし、と呆れていた同期の気持ちもよくわかる。
懐かしみつつ頬を赤らめた真帆に、穂高は肩を揺らして笑った。
「いや。去年も、いいもの貰ったなーと思ってたよ。幸せすぎて死にそうだった」
「そうかな? 穂高って欲がないよね」
「……あのとき俺の本当の望みを言ってたら、真帆はたぶん引いてたと思うぞ」
「えっ、そんなすごいこと考えてたの? 穂高のすけべ」
からかうような口調で言うと、穂高は真帆の腰を強く引き寄せて、耳元で低く囁いてくる。
「じゃあ、今年は本気で欲しいもの言ってやろうか」
「……お手柔らかにお願いします」
結婚してからおよそ一年半。本気を出した夫が凄まじいことを、真帆は嫌というほど知っている。せっかくの誕生日だし、いくらでも付き合いたい気持ちはあるのだが、今はあまり無茶をすることはできない。
穂高がそっと小指を突き出してきたので、真帆はぎこちなく自らの小指をそれに絡めた。
「……約束が、欲しい」
「やく、そく?」
予想外のおねだりに、真帆はこてんと首を傾げる。切れ長の瞳は真剣な光を宿して、まっすぐにこちらを見据えている。どこか不安げな、縋るような表情に、今すぐぎゅっと抱きしめたくなる。
「……来年も、再来年もずっと……死ぬまで一緒にいてくれるって……約束、してくれ」
「……そんなことでいいの?」
そんなの、お願いされるまでもなく、ずっと一緒にいるに決まっている。キョトンとしている真帆に、穂高は「そんなことがいい」と真面目な顔で頷いた。
「やっぱり穂高って無欲だよね……」
「そうか? このうえなく強欲な願いだろ。真帆のこと、一生死ぬまで離さないって言ってるんだぞ」
「そんなの、望むところだよ」
ゆびきりげんまん、と振った小指が離れる。真帆はそのまま穂高の手を取ると、自らの下腹部にそっと押し当てた。未だ見た目にはわからないけれど、新しい命がたしかにそこにある。
「……来年は、三人で誕生日お祝いしようね」
「……へ?」
真帆の言葉に、穂高はぱちぱちと瞬きをした。未だ平らな真帆の腹をまじまじと見つめて、じっと考え込んでいる。やがて正解を導き出したのか、ぱっと表情を輝かせて――おそるおそる、腹の上に手を置いた。
「いつ、わかったんだ? 病院は?」
「ゆうべ検査薬で陽性出たから、今朝病院行ってきた。妊娠五週目だって」
「……なんで、先に言ってくれなかったんだ」
穂高はちょっと拗ねたように、唇を尖らせた。
本当は、真帆も言おうか悩んだのだ。少し前から体調が優れず、生理が遅れていたため「もしかして」とは思っていた。それでも真帆は、病院で確実なことが判明するまで、夫に何も言わなかった。
「……ちゃんとわかってから、言いたかったの」
「……」
「妊娠してなかったら、穂高が悲しむかもと思って。もし、だめだったとき……がっかりするのは、私だけでいいでしょ」
真帆が言うと、穂高は悲痛そうに表情を歪める。眉間に皺を寄せたまま、真帆の手を強く握りしめてきた。
「……真帆の気持ちはわかった。でも、今度からは何かあったら、俺にもすぐ話してほしい」
「……」
「真帆が俺の知らないところで一人で落ち込むより、二人で一緒に落ち込む方がずっといい。俺も、父親になるんだから」
「……うん、そうだね。黙っててごめんなさい」
真帆は素直に謝った。穂高を悲しませたくないと思ってしたことが、逆に彼を傷つけていたらしい。
(これからは、ちゃんと穂高に相談しよう)
夫は頼れるしっかり者だから、きっと真帆より良い答えを出してくれるだろう。それでも答えが出ないときには、一緒になって悩んでくれるに違いない。
「職場には、安定期に入ってから言おうと思ってるけど……あんまりつわりが酷くて仕事に支障が出るなら、早めに伝えるかも」
「そうだな、それがいいと思う」
「お義父さんと伊織さんと千明さんには、妊娠したこと言っておこうと思うんだけど……どうかな」
真帆は遠慮がちに尋ねた。穂高のことだから、また「親父には余計なこと言わなくてもいい」と言うのではないかと思ったのだ。
しかし穂高は、少し考える様子を見せたあと、「そうだな」と頷いた。
「真帆がもしよければ、親父たちに伝えておこう。何かあったとき、助けてもらえる人がいた方がいいだろ」
「穂高……」
「ただ、兄貴と義姉さんはともかく……親父には、俺からちゃんと口止めしておく。あいつのことだから、浮かれて周りにべらべら言いふらしかねないぞ」
穂高は忌々しそうに言ったけれど、その瞳にはもう、かつてのような怒りや憎しみは見えなかった。そのことに、真帆は心底安堵する。長い長い年月をかけて、彼はようやく父親のことを許せたのかもしれない。
「ありがとう、真帆。最高の誕生日プレゼントだ」
穂高は真帆の手を引くと膝に座らせて後ろから抱きしめる。真帆は彼の逞しい胸に頭を預けながら、家族がいることの幸せを改めて噛み締めていた。
「……ううん。私の方こそ……ありがとう」
父が亡くなってからひとりぼっちだった真帆に、穂高がくれたものは計り知れない。どれだけ感謝してもしきれないほどに、真帆は日々彼からたくさんのものを貰っている。
おまけに、新しい家族まで与えてくれるなんて――これ以上を望んだら、バチが当たってしまいそうだ。
「二人で、大事にしようね」
「うん。……大事に、するよ」
穂高が家族を大事にしてくれるひとだと言うことを、真帆はよく知っている。
真帆の腹を愛おしむように撫でた穂高は、「幸せだな」とぽつりと呟く。頬を寄せ合って微笑む二人は、もうひとりぼっちではなかった。