番外編:(もう充分すぎるほど待った)
本編39話とエピローグのあいだの話
歩行中にオートバイと接触して転倒した穂高は、右手首の軽い捻挫と診断された。軽く頭を打ったようだが脳の検査も異常はなく、その日の夕方にはめでたく帰宅できた。
風呂に入って髪を乾かして、リビングに戻るとそこに穂高がいた。ソファでのんびりしている彼を見つめながら、夫が無事でいてくれることの喜びを噛み締める。抜群に整った横顔に惚れ惚れとしたあと、こんなにかっこいい人が自分の夫だなんて、とうっとりしてしまう。
(……しかもこの人、私のことが好きなんだ)
病室で告白されてキスをしたことを思い出して、真帆はにやけそうになるのを必死で堪える。真面目な顔を取り繕いながら、穂高の隣にすとんと腰を下ろした。
躊躇いつつも、いつもよりほんの少し距離を詰めてみる。互いの二の腕が軽く触れ合う。穂高のシャンプーの匂いがする。そっと頭を預けると、穂高が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「どうした?」
「ううん。幸せだなって、思ってた」
穂高が生きて隣にいるだけでも充分幸せなのに、そのうえ自分のことを好きでいてくれるなんて贅沢すぎる。今ここにあるぬくもりを、できることならずっと失いたくない。
病院から電話がかかってきたときのことを思い出して、真帆の背筋が冷たくなる。押し寄せてきた不安を振り払うように、隣にいる夫に身体を寄せる。それでも足りなくて、もっともっと安心が欲しくなる。
「……穂高」
「うん?」
「……穂高のこと、ぎゅっとしていい?」
「え」
唐突な真帆の申し出に、穂高は目を丸くした。真帆は縋るように、上目遣いで彼をじっと見つめる。
「穂高がここにいるって、実感したい……だめかな」
穂高は少し悩む素振りを見せたあと、「いいよ」と両腕を広げてくれた。
彼の胸に飛びつくと、勢いが良すぎたのか、穂高は背中からソファに倒れ込む。真帆が穂高を押し倒すような体勢になってしまった。
もしかすると重いかなと思ったけれど、どいてくれとは言われなかったので、真帆はそのまま彼に頬擦りをする。ほこほこと温かい体温と香りが心地良くて、安心した。
(……本当に。無事でいてくれて、よかった)
「穂高が好き……」
「うん」
「ほんとに好きなの」
好きな人に好きだと伝えられることは、幸せなことだ。
飽きもせず「好き」を繰り返していると、穂高の腕が真帆の背中に回された。二人の身体は少しの隙間もなくぴったりとくっついている。顔を上げると、穂高がそっと唇を重ねてきた。真帆も目を閉じてそれに応じる。てのひらで後頭部を押さえ込まれて、啄むような短いキスを繰り返す。
「……ぁ、ん……」
するりと耳を撫でられ、上唇を軽く食まれた瞬間に、思わず甘ったるい声が漏れた。変な声出ちゃった、とこっそり照れていると、穂高がはっとしたように唇を離す。
「……真帆。悪いけど、そろそろ離れてくれ」
「えっ……」
突然の拒絶に、真帆は少なからずショックを受けた。彼とのキスは気持ち良かったし、もっとずっとこうしていたかったけれど、穂高はそうでもなかったのだろうか。
しょんぼりしていると、穂高は困ったように眉を下げる。
「そんな顔するなよ。離したくなくなる」
「離さなくても、いいのに」
「…………いや。だめだ。このままだと、さすがにしたくなる。もう既にかなりやばい」
言われてみれば、真帆の腿のあたり――ちょうど彼の股間にあたる部分に、何か硬いものがある。真帆は決して経験豊富なわけではないけれど、それが何かわからないほど初心ではない。
「……それって、なにかまずいの?」
真帆にしてみれば昨日の「お誘い」をかけた時点で夫に抱かれる覚悟はあったし、お互いの気持ちを確かめ合ったのだから、我慢する必要は少しもない。このままベッドに移動したって構わない。
真帆が首を傾げていると、穂高は真剣そのものの表情で言った。
「いいか。俺は真帆と結婚してからずっと、手を出したいのを我慢してる」
「そ、そうなの?」
「ずっと好きだった人と一緒に住んでて、しかもその人は自分の妻なんだぞ。その状態で我慢し続けるのは、常人なら気が狂う」
「はあ……」
「だからもし今真帆のこと抱いたら、簡単には離してやれない。ほぼ間違いなく、朝まで抱き潰す自信がある」
「へっ」
あまりにもストレートな表現に、真帆は頰を赤らめた。いつでもクールで落ち着いている淡白な夫に、そんな情熱的な欲が隠されているなんて、到底信じられない。穂高は真剣な顔つきのまま続ける。
「今日はまだ水曜だ。さすがに、寝ずに会社に行くのはまずいだろ。仕事にならない」
「それはまあ、そうだね」
「するなら翌日が休みの日にしよう。あと、俺の怪我が治ってからの方がいい。来週の金曜日――クリスマスイブの夜はどうだ? 真帆の体調の都合もあるだろ」
「え? わ……私は大丈夫」
テキパキと予定を立て始めた夫の勢いに押され、真帆は頷いていた。
「よし、決まりだ。それじゃあ悪いけど、そのつもりでいてくれ」
「う、うん……でも穂高、その」
「なんだ? 真帆が嫌なら、無理強いはしないけど」
「そうじゃなくて、今……〝こう〟なってるのは、大丈夫なの?」
真帆はそう言って、穂高の下半身にチラリと視線をやった。男性の生理を完全に理解しているわけではないけれど、これをこのまま放っておくのは辛いのではないだろうか。しかし穂高は、いつもと変わらず平然とした顔をしている。
「問題ない。自分でどうにかする」
「私、手伝おうか? 右手も捻挫してるし……」
「…………せっかくの覚悟が揺らぎそうになることを言うのはやめてくれ」
穂高は苦々しい表情でそう言うと、最後に真帆をぎゅっと抱きしめる。そのまま「来週だ」と言って、寝室へと引っ込んでしまった。
クリスマスイブまでの日々を、真帆はソワソワと落ち着かない気持ちで過ごした。
Xデーがわかっていると諸々の準備と心構えができていいのだが、この日にセックスをするぞ、と予告されるのはそれはそれで恥ずかしい。心なしか夫が自分を見る目にも、いつもより熱がこもっている気がする。
急におなかの弛みが気になりだして、風呂上がりに腹筋をしていると、穂高から「何をしているんだ」と訝しげに問われた。適当に誤魔化したが、もしかすると真帆の思惑に気付かれているかもしれない。
穂高は相変わらず、触れるだけのキスしかしてこない。穏やかに髪を撫でられ、そっと抱き寄せられて、愛おしむように口づけられる。嬉しいけれど物足りないような気もして、胸の奥がうずうずする。真帆はなんだか、長い時間をかけて焦らされているような気分になってきた。
いっそ今すぐ抱いてくれないだろうか、と思い始めた頃――ようやく、十二月二十四日の夜がやってきた。
ふたつ並んだグラスに、しゅわしゅわと泡の立つシャンパンが注がれていく。「メリークリスマス」と言ってグラスを合わせると、カチンと軽い音が鳴った。
テーブルの上には穂高が買ってきたフライドチキンと、真帆が作ったサラダとローストビーフが並んでいる。冷蔵庫にはクリスマスケーキも入っているから、ちょっとカロリーオーバーかもしれない。
「二人とも残業せずに済んでよかった」
「まあ、大量に仕事は残してきたけど。来週の俺が頑張るから別にいい」
穂高はそう言って、グラスに口をつける。予約したチキンとケーキを取りに行くために定時ダッシュを決める穂高を想像して、真帆はこっそり笑った。
普段はあまりジャンクフードを食べないけれど、久しぶりに食べるフライドチキンは美味しい。伊織に教えてもらったローストビーフも上手にできた。小さめサイズのブッシュドノエルを仲良く分けて、リビングのソファに並んでシャンパンを飲む。
ふわふわと心地良い酔いが回ってきて、真帆の瞳が次第にとろんとしてきた。こてんと穂高の肩に寄りかかる。
「おい真帆。寝るなよ」
「うん、まだ大丈夫。眠くないから」
真帆の様子に気付いたのか、穂高がやや慌てた声を出す。真帆は酔ったらすぐ寝てしまうタイプだが、今日はまだそこまでではない。
しかし穂高の手によって、シャンパングラスを取り上げられてしまった。テーブルに置かれたグラスに向かって伸ばした手を、穂高は掴む。
「まだ飲みたいのに」
「もうダメだ。寝落ちされるのは御免だからな」
穂高の言葉に、忘れかけていた今夜の予定を思い出して酔いが醒めた。真帆の手を握る夫の力は強くて、かっと体温が上がる。
「ほ、ほんとに……するんだよね」
「ああ。真帆が嫌ならやめるけど。これが最後通告だ」
「ううん……い、嫌じゃない」
ふるふると首を振った真帆に、穂高は「よかった」とほんの少し頰を緩める。不意打ちの笑顔に、きゅんと胸が高鳴る。
(穂高は、本当に私としたいと思ってくれてるんだ)
嬉しい反面、果たしてその期待に応えられるのだろうかという不安がよぎる。真帆は穂高の袖を掴んで、軽く引いた。
「あの、でも……私実は、そんなに経験豊富なわけじゃなくて。穂高にがっかりされないか、すごく心配なんだけど」
真帆の経験人数は元彼である慎太郎一人だけだし、彼とだってそんなにたくさん身体を重ねたわけではない。真帆はセックスに積極的ではなかったし、慎太郎は真帆よりも浮気相手である美月の身体に夢中だった。
おそらく穂高は――義父の話を信じるならば――今までいろんな女性と交際してきたのだろう。穂高にそんなつもりはなくても、無意識のうちに過去の女性と比べてしまうかもしれない。
「それは余計な心配だな」
真帆の不安を、穂高はきっぱりと跳ね除ける。自信満々なのは結構だけれど、できればあまりハードルを上げずに臨んでほしいところだ。
「風呂、先に入ってこれば」
「……そうする」
真帆は頷くと立ち上がり、バスルームへと向かった。
真帆が一足先に風呂から出ると、穂高は「俺の部屋で待ってろ」と言って足早にバスルームへと消えていった。
ドキドキと高鳴る胸を押さえつつ、穂高の寝室へと続く扉を開ける。思えば、ここに足を踏み入れたことはほとんどなかった。
広さは真帆の寝室とほぼ変わらない。物は少なく、小さな棚とクローゼット、ベッドがあるぐらいだ。綺麗に片付いており、掃除も行き届いている。ベッドサイドに未開封の避妊具の箱が置かれていることに気付いて、なんとも言えない気持ちになった。
どういう状況で待つのが正解なのかわからず、電気は点けずにベッドに潜り込んでみる。穂高の匂いに包まれて、心臓の鼓動が早くなった。
(……私は今から、穂高に抱かれるんだ)
覚悟はとっくにできている。下着は新しいものを用意したし、ムダ毛の処理だってぬかりはない。経験が少ないとはいえ処女ではないのだから、そんなに緊張することはない。満足させられる自信はないが、夫に迷惑をかけずにやり遂げられると思う。
――しかし、こんなときに真帆の頭に浮かんだのは、自分のベッドの上で絡み合う元恋人と浮気相手の姿だった。
あのときの真帆は確かに、あの二人のことを「汚らわしい」と感じた。今からあれと同じことを夫とするのかと思うと、なんだか憂鬱な気さえしてくる。
目を閉じて物思いに耽っていると、寝室の扉が開く音がした。勢いよく布団を引っぺがされて、「ぎゃっ」と声が漏れる。
「……びっ……くりした」
「……寝てるのかと思った……」
真帆の顔を覗き込んだ穂高が、心底安堵したように深い息をつく。
「お、起きてるよ……さすがにこの状況で寝れないよ」
「いや、真帆ならやりかねない」
仰向けになっている真帆の上に、穂高がのしかかってくる。ぎし、とベッドのスプリングが軽く軋む音がする。あっと思う暇もなく、額に、頰に、キスが降ってくる。肌に触れる唇の温度は、いつもより高いような気がする。
天井を背にした夫の顔は相変わらずかっこよくて、なんだかやけに余裕がない。ギラギラと欲のこもった瞳に射抜かれて、覚悟はとっくにできていたはずなのに、真帆は突然怖気づいてしまった。
「あの、穂高……ちょ、ちょっとま、まって」
「もう待たない」
穂高はそう言って、真帆の反論を封じるように唇を塞ぐ。噛みつくような激しい口づけに翻弄されているうちに、真帆の脳内はどんどん甘く蕩けていった。
朝まで離してやれない、という穂高の言葉に嘘はなかった。
枕元でアラームが鳴り響いている。ウトウトと浅い眠りについていた真帆の意識は、ゆるやかに覚醒していく。
鳴っているのは真帆のものではなく、夫のスマートフォンだ。指先ひとつすら動かすのも億劫な真帆は、ぼんやりと霞がかかったような頭でそれを聞いている。しばらくして、隣にいる夫が手を伸ばし、スマホのアラームを止めた。
「ほだ、か……いま、なんじ?」
そう問いかけた自分の声が掠れていて驚く。どれだけ激しく喘いでしまったのかと、己の痴態を思い出して恥ずかしくなる。
「朝の五時だよ。ジョギング用のアラームだ。まだ寝ててもいい」
穂高はそう言って、真帆の身体を優しく抱き寄せた。遮るもののない肌と肌がぴたりと触れ合うと、ただそれだけのことで体の奥底にある熱が呼び覚まされてしまう。
まだ半ば夢の中にいるような状態で、気持ち良かったな、とぼんやりと思い返す。セックスを気持ち良いと感じたのは初めてのことだった。好きな人に求められることが、こんなに幸せなことだなんて知らなかった。
元彼と浮気相手のおぞましい記憶なんて、容易く頭から吹き飛んでしまった。それほどまでに濃厚で、衝撃的な一夜だった。
間近にある穂高の顔を、まじまじと見つめる。涼しげな瞳からは、もう先ほどまでの熱は失せている。しかし真帆はもう二度と、夫のことをクールで落ち着いていて淡白だなんて思わないだろう。
(この人、めちゃめちゃすけべだ。どすけべだ)
まさか本当に夜通し抱き潰されるなんて、思わなかった。恥ずかしくなって、彼に背中を向けようともぞもぞしていると、後ろから強く抱きすくめられる。
穂高は起きる様子もなく、真帆の髪に顔を埋めている。ふと疑問に思った真帆は、首を回して彼に問いかけた。
「……そういえば、穂高。今日は走らなくてもいいの?」
「ああ。もう必要ない」
彼の言葉の意味が理解できず、真帆はキョトンと瞬きをする。穂高は薄く笑みを浮かべて、真帆の髪を撫でる。あんなに自分を翻弄した意地悪な手と同じものとは思えないくらいに、優しい手つきだった。