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番外編:五十嵐穂高の長い夜

本編20話と21話のあいだぐらいの話

 金曜日の夜。二人掛けのソファに腰掛けて、心底寛いだ表情でグラスに口をつけている妻を眺める。化粧を落としたオフモードの横顔を見つめながら、穂高はこの上ない幸せを噛み締めていた。


(ああ、結婚してよかった)


 戸惑う彼女の手を取って、半ば強引に籍を入れたあの日から。あのとき振り向いて引き返してよかったと、何度も繰り返し思っている。今隣にいる人は紛れもなく自分の妻なのだ、と思うと、じわじわと喜びがこみ上げてくる。


 たまには家で飲もうよ、と言う真帆の提案を受け、自宅で二人で飲むことにした。

 真帆は伊織から教わったというつまみを作り、穂高は酒屋でウイスキーを購入した。穂高はロックで飲んでいるが、真帆は炭酸水で割ってハイボールにしている。義姉の千明ほど酒が好きなわけではないが、妻と二人でゆっくり飲むのは楽しかった。彼女と過ごす金曜日の夜が、一週間の中で一番幸せだ。

 風呂上がりの真帆の横顔は、いつもより幼い。化粧を落としてしまうと、中学時代の面影が強く出るのだ。彼女と並んで歩いた帰り道が思い起こされて、懐かしさに胸が締めつけられる。ややクールな印象も与える涼しげな垂れ目は、今は眠そうにとろんとしていた。

 穂高の視線に気付いたのか、真帆がこちらを向いた。ふにゃりと目を細めて、嬉しそうに口元を綻ばせる。


「穂高が買ってきてくれたウィスキー、おいしいね」


(……可愛い)


 少し酔いが回っているのか、いつもより表情や喋り方がふわふわしている。黙っていると冷たい印象が強いぶん、油断して隙だらけの姿にはグッとくるものがある。最近気がついたが、真帆は人の顔をじいっと凝視するくせがあるらしい。潤んだ瞳でまじまじと見つめられると、あらぬ勘違いをしてしまいそうだ。

 妻が可愛ければ可愛いほど、こんな姿を他の男にも見せてはいないだろうかと、にわかに心配になってくる。見た目以上にぼんやりしている真帆は、口八丁で簡単に言いくるめられて、容易くホテルに連れ込まれるのではないだろうか。なにせ、押し切られてその日のうちに結婚してしまうような女だ。

 同期には真帆を狙っている不届きな奴もいるというし、一度しっかり釘を刺しておいた方がいいかもしれない。真帆は「私、穂高と違って全然モテないよ」なんてことを言っているが、穂高は妻の言うことを信用しないことにしている。


「安物のウィスキーだよ。もうちょっと、いいやつ買ってもよかったかな。今度義姉さんにおすすめ聞いておこう」

「ううん。私、味の違いよくわからないし。それに」

「それに?」

「穂高と一緒にいると、なんでもおいしい」


 そう言って、真帆がはにかんだように微笑む。力いっぱい抱きしめたい衝動が押し寄せてきて、穂高は奥歯を噛み締めて耐えた。途端に仏頂面になった穂高を見て、真帆は不思議そうに瞬きをしている。


 まだ真帆と再会して三ヶ月ほどしか経っていない穂高は、彼女の酒の強さを正確に把握していなかった。

 意外とぐいぐい飲むので、わりと強い方なのかと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。一番身近にいる女性がザルの義姉ということもあり、真帆の限界を測りかねていたのだ。ふにゃふにゃの笑顔を振り撒きながら、あれこれ話しかけてくる真帆が可愛くて、止める気にならなかったというのもある。

 調子よくハイボールを飲んでいた真帆だったが、やがて糸が切れたように、ぱたんとソファに倒れ込んだ。突然のことに、穂高はぎょっとする。


「真帆?」


 ソファに横たわる妻の顔を覗き込むと、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。どうやら、許容量を超えるとすぐに寝てしまうタイプらしい。

 狭いだろうと思い、穂高はソファから床の上へと移動する。顔にかかった髪をすくって、耳にかけてやる。「ん……」と吐息混じりの声を漏らして身じろぎをした真帆に、ぎくりとした。

 彼女の格好はTシャツにハーフパンツで、それほど色気のあるものではない。少し前まではもっと露出の高い部屋着を着ていたのだが、穂高が苦言を呈してやめさせたのだ。キャミソールから覗く谷間やショートパンツから伸びる太腿は目の保養ではあったけれど、飢えた獣にとってはあまりにも魅力的すぎた。食べてはいけない御馳走が目の前に並べられているようなものだ。裸エプロンで出迎えられたときは、心臓が止まるかと思った(いやまあ、実際にはちゃんと服を着ていたのだが)。その場で押し倒さなかった自分の理性を誉めてやりたい。

 すやすやと眠る顔は小さな子どものようで、本当に安心しきっていることがわかる。「自分の家以上に安全な場所なんてない」という真帆の言葉を思い出す。妻からの信頼を嬉しく思う反面、腹立たしくも感じてしまう。


(俺が日頃、どれだけ我慢してるかも知らないで)


 目の前で眠っている、自分のことを信頼して無防備な姿を曝け出してくれる女に、どうしようもなく欲情している。

 きっと、手を出してしまうことは簡単だ。真帆は戸籍上は穂高の妻なのだから、倫理的には何の問題もない。真帆もおそらく、拒みはしないだろうと思う。


(……でも。真帆は別に、俺のことが好きで結婚したわけじゃない)


 真帆と結婚したことは、少しも後悔していない。それでも、彼女の意志を半ば無視して強引に押し切った罪悪感はずっとある。

 真帆の気持ちを無視して、無理強いをするのは絶対に嫌だった。できることなら真帆にも、自分のことを心の底から求めてほしい。


「……真帆、真帆。こんなところで寝るなよ」


 軽く身体を揺すってみたが、真帆は「ううん……」と悩ましげな声を出すばかりで、起きる気配がない。穂高は溜息をついた。夏だから風邪をひくことはないと思うが、このままリビングに放っておく気にはなれない。


「部屋まで運ぶぞ」

「んん……」


 おそらく唸っただけだろうが、とりあえず了承ということにしておこう。穂高は真帆の背中と脚の下に腕を差し込んで、ソファから持ち上げた。


(……軽っ)


 見た目から重くはないだろうと思っていたが、想定よりも軽くて驚く。あまり筋肉のついていない身体は柔らかく、少し力をこめたら折れてしまいそうだ。さらさらの黒髪からは、穂高のものとは違うシャンプーの香りがする。さまざまな欲をぐっと堪えて、真帆の寝室へと向かう。扉を開けた瞬間に、柑橘系の香りがふわりと漂ってきた。ルームフレグランスでも置いているのだろうか。

 一緒に住んでいるとはいえ、妻の部屋に入ることはほとんどない。同居を始めた当初、「互いの寝室へは勝手に入らない」という取り決めをしたのだ。扉一枚隔てただけの場所だというのに、なんだか妙な緊張感がある。

 真帆を起こさないように、身体をそっとベッドの上に下ろした。彼女が持ち込んだパイプベッドはやや年季が入っているらしく、ギシッと嫌な音を立てて軋む。今度買い替えるときはダブルベッドにしよう、だなんて不埒なことを考えてしまう。同衾をしたことなどないくせに。

 無事に任務は達成したのだから、早々にここから立ち去らなければ。こんな場所にずっと居ては、一秒ごとに理性がどんどん削られてしまう。

 最後に寝顔を見ようと顔を覗き込んだところで、真帆がゆっくりと瞼を持ち上げた。未だ夢見心地のとろんとした瞳に見つめられて、理性の箍が緩む。寝起きの妻は何かを掴もうとするように、左手を伸ばしてくる。


「? どうした」


 反射的にその手を取ると、真帆は「それが欲しかった」とばかりに微笑んで、穂高の手をきゅっと握りしめてきた。細くて華奢な指が絡まってくる。


(あ、まずい)


 ぐるぐると全身の血液が巡って、体温が上がる。彼女への愛おしさが爆発しそうになって、穂高は強くその手を握り返す。

 穂高にとって、真帆の手は特別で神聖なものだった。自分が辛くて心細いときに拠り所にしてきた、小さくて温かい手。その手には今、穂高との婚姻契約の証である結婚指輪が輝いている。


(今の真帆は、俺の妻だ。妻なんだから……本当は手を出したって、何の問題もないはずだ)


 穂高は思わず、ベッドの上に膝を乗り上げていた。ぎしり、とさっきよりも大きな音を立ててパイプが軋む。ここでするのはベッドがうるさそうだな、なんてことを考えてしまった時点で、もう手遅れだった。

 ダメだとわかっていながらも、想像してしまう。普段はほとんど表情を変えないおっとりした妻が、自分の手によって乱れて、あられもなく喘ぐところを。しんと静まり返った部屋の中で、ごく、と喉が鳴る音がやたらと大きく聞こえる。

 そのとき真帆の唇が動いて、何かを呟いた。不思議に思った穂高は、耳を寄せてそれを聞き取ろうとする。


「……さ、ん……」

「ん?」

「……おとう、さん……」


 お父さん、と。縋るように手を伸ばしてきた妻はきっと、今はもうこの世にはいない人の手を握ろうとしている。彼女は今でも、大切な父親を失った悲しみに一人で耐えている。

 その瞬間、昂っていた熱がすーっと引いていくのがわかった。さっきまでとは別の理由で、真帆のことを抱きしめたくなる。


(そうだ。そもそも俺は――真帆の〝家族〟になりたかったんだ)


 夫という立場を盾にして身体だけを手に入れたとしても、なんの意味もない。穂高は真帆を抱くために結婚したわけではないのだ。真帆が本当に心の底から安心して、甘えられる場所を作ってやりたい。そのためなら、いくらでも待ってやる。


「……真帆、大丈夫だ。俺がいる」


 そう囁いて真帆の手を握りしめると、彼女は心底安堵したように頰を緩める。ゆっくりと瞼を下ろした真帆は、すうすうと再び寝息を立て始めた。


 それから夜が明けるまで、穂高はずっと真帆の手を握っていた。朝の五時になった頃、ぐっすり寝入っているのを確認して、名残惜しく思いながらも、そっと手を解いた。

 

(……真帆がそうしてくれたみたいに、俺の手が真帆の拠り所になれたらいいのに)


 柔らかな頰に軽く触れたあと、穂高は妻を起こさぬように立ち上がる。ベッド脇の棚には、幼い真帆と父親の写真が飾られていた。小さな真帆の無邪気な笑顔を見ていると、くだらない欲に流されなくてよかった、と心底思う。自分の性欲なんかよりも、優先すべきものがここにある。

 穂高は真帆の部屋から出ると、はーっと大きな息をついた。一睡もしていないため正直寝不足だが、それを妻に勘づかれるわけにはいかない。余計な気を遣わせるのは本意ではないのだ。


「……よし、走るか」

 





 目が覚めた瞬間、なんだかすごく良い夢を見ていた気がする、と思った。

 真帆はベッドに横たわったまま、左手に視線を向ける。さっきまですごく温かい手が、ここにあった気がするのに。空っぽの左手には、プラチナの結婚指輪が朝日を浴びて輝いているだけだ。

 起き上がると、そばにある父の写真に向かって「おはよう」と挨拶をする。父は何も答えてはくれないけれど、いつものように明るい笑顔を返してくれる。

 普段は枕元にあるスマートフォンがない。どうやらリビングに置いてきたらしい。ゆうべは穂高とお酒を飲んでいて、それからの記憶がない。おそらく寝落ちしてしまったのだろうが、どうやって部屋まで戻ってきたのだろうか。そういえば歯磨きし損ねた気がする、とテンションが下がった。

 壁にかかった時計を見ると、時刻は朝の六時半だ。休日に起きるには少し早いが、とりあえず歯磨きをしたい。そう思った真帆は、寝室からリビングに出る。


「おはよう。真帆」


 ダイニングチェアに腰掛けた夫が、コーヒーを飲んでいた。既に走ってシャワーを浴びたのか、ずいぶんとこざっぱりとしている。どうしてこの人は朝からこんなに爽やかなんだろうか。酔い潰れて寝てしまった自分が恥ずかしくなる。


「おはよう穂高……昨日ごめんね。いつのまにか寝ちゃった」

「いいよ。気にしてない」

「私、部屋に戻った記憶全然ないんだけど……ちゃんとベッドで寝たんだね。帰巣本能かなあ」


 真帆が言うと、穂高はぶすっとした顔で「そうかもな」と答える。なんだか不機嫌そうだけれど、彼はデフォルトでこういう顔をしているので、本心はよくわからない。

 真帆はうーんと伸びをしながら、窓の外を見た。夏の空は清々しく晴れ渡っており、太陽の光がさんさんと降り注いでいる。今日もきっと暑くなるだろう。


「穂高、今朝も走ってきたの?」

「ああ」

「毎日えらいね」


 休日の朝からジョギングをする夫のことを、真帆は心底尊敬している。穂高はブラックコーヒーを飲みながら、やけにしみじみとした口調で「ああ。俺はえらい。ものすごくえらい」と呟いた。

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