エピローグ:「病めるときも、健やかなるときも」
新たな年の始まりである一月一日の空は、清々しいほどに晴れ渡っていた。澄み切った空気はきんと音が鳴るほど冷たく、吐く息は真っ白だ。
大手家電メーカーイガラシの社長の邸宅――つまり穂高の実家は、真帆の記憶よりも豪邸だった。真帆の半歩後ろに控えたイケメンは、不機嫌そうに唇を「へ」の字に曲げている。
ごくりと唾を飲み込んでから、インターホンを押す。ほどなくして、中から品の良いニットを着た壮年のイケオジが現れた。
「……」
「……」
新年早々、顔の良い男二人が玄関先で睨み合っている。気まずい沈黙に耐えかねた真帆は、父子のあいだに割って入り、「お義父さん、あけましておめでとうございます」と頭を下げた。
「あけましておめでとう。真帆さん、わざわざ来てくれてありがとう」
ようやく破顔した耕助は、ニコリと魅力的な笑い皺を浮かべる。「どうぞ入って」と言いながら、うやうやしく真帆の手を取る。扉を開ける仕草もずいぶんと手慣れており、非常に紳士的だ。
「おい、真帆に気安く触るなよ」
すかさず穂高が真帆の腕を掴むと、鋭い目つきで父を威嚇する。耕助はチラリと穂高の方を見ると、呆れたように溜息をついた。
「まったく。いい歳して何を子どもじみたことを言っているんだ。真帆さんはうちの義娘なんだから、何の問題もないだろう」
「身内ヅラすんなよ。真帆は俺と結婚したけど、五十嵐の家に嫁いだわけじゃない。言っとくけど、今日だって真帆がどうしてもって言うからわざわざ来てやったんだからな」
「正月だっていうのに、おまえは喧嘩腰でしか話ができないのか。いい加減に大人になれ」
「あの。私を挟んで喧嘩しないでください」
真帆がぴしゃりと言うと、二人はおとなしく口を噤んだ。パンプスを脱いで揃えると、「お邪魔します」と中に入っていく。穂高の実家に足を踏み入れるのは、初めてのことだ。
慌ただしい十二月はあっというまに過ぎ去っていき、新しい年を迎えた。互いの気持ちを確かめ合った五十嵐夫婦は、相変わらず――いや、以前よりもずっと甘さを増して――仲睦まじく過ごしている。
真帆も穂高も、年末年始は休みである。どうやって過ごそうかと相談しているところに、千明から連絡が入った。
「お正月、一緒に五十嵐の実家に行かない? お義父さんが大吟醸用意してくれるって! 伊織くんはおせち作ってくれるよ!」
穂高は難色を示したが、真帆が行きたがったので、渋々折れてくれた。聞けば彼は、もう何年も実家に帰っていないらしい。
こうして穂高は全力でふてくされながらも、真帆と一緒に久方ぶりの実家を訪れたのである。
これまで外観しか見たことのなかった五十嵐邸は、中身も相応に豪華だった。こんなに広くては掃除が大変そうだが、床や家具にも埃ひとつなくピカピカだ。耕助は多忙そうだし、もしかするとハウスキーパーなどに依頼しているのかもしれない。
(……こんなに広い家に一人でいるのは、寂しいだろうな)
ここはかつては穂高が一人きりで過ごした場所なのかもしれない。広々とした綺麗な家を眺めながら、彼の孤独に想いを馳せる。過去に戻って小さな穂高をギュッと抱きしめてあげたいような気持ちになった。
伊織と千明と芙柚は先に到着しているらしい。このままリビングに直行するのかと思いきや、耕助は足を止めて、やや遠慮がちに切り出した。
「真帆さんさえよかったら、妻に……穂高の母に、線香をあげてくれないか。そこに仏間があるんだ」
「! はい、もちろん」
一も二もなく、真帆は頷いた。穂高も当然、反対しなかった。黙って真帆の後ろをついてくる気配がする。
耕助が襖を開けると、ひやりと冷たい空気がこもった和室の奥に、仏壇があった。すでに煙の立ちのぼる線香が立てられている。おそらく、伊織たちの手によるものだろう。
仏壇には、儚げな美女の写真が飾られていた。思えば、穂高の母の顔を見るのは初めてだ。女優だといっても遜色ないほどの美しさだ。真帆はこれまで穂高のことを父親似だと思っていたけれど、こうして見ると母親にもよく似ている。涼しげな目元がそっくりだ。
「お義母さん、綺麗ですね」
「そうだろうそうだろう。私の人生でもっとも誇れることは、最高の妻を選んだことだよ」
耕助は満足げにそう言った。穂高は黙って、苦虫を潰したような顔をしている。
真帆は線香をあげ、りんを鳴らして仏壇に手を合わせた。十二年前はついぞ会うことができなかった、穂高の大事な大事なお母さん。
――母さん、俺に友達いないんじゃないかって心配してるみたいだから。大汐のこと連れて行ったら安心するかも。
あのときの穂高の言葉を思い出して、鼻の奥がツンとする。
(本当は、お会いしてご挨拶したかった)
ようやく、ここに来ることができてよかった。果たして真帆は、お義母さんに安心してもらえるような、息子を任せてもいいと思ってもらえるような、立派な妻だろうか。正直自信はない、けれど。
(お義母さん。穂高さんのことは、絶対幸せにします)
目を閉じたまま、義母にそう語りかける。瞼を上げて振り向くと、耕助が涙ぐんでいてギョッとした。
「お、お義父さん……」
「……いや、すまないね。歳を取ると涙脆くていけない。幸も……妻も、真帆さんに会いたかっただろうと思って」
「……私も、お会いしたかったです。穂高さんを産んでくれてありがとうって、伝えたかった。もちろんお義父さんにも、感謝してます」
真帆は鞄からハンカチを出すと、耕助に向かって差し出した。それを受け取った耕助は、感極まったように目尻を押さえる。
「……穂高。俺に似て、女性の趣味が良いな」
「……あんたに似てるのは不本意だけど、それは認めざるを得ないな」
父子の不器用なやりとりを、真帆は微笑ましく見守る。そのときリビングの方から、「お義父さーん!」という千明の声が響いてきた。しんみりとした空気を吹き飛ばすような、明るい声だ。
「ねえねえこの獺祭のボトル、開けちゃっていいの!? 開けちゃいますよー! 飲みまーす!」
「……しまった。千明さんに見つからないように、とっておきを隠しておいたのに。いったいどんな嗅覚をしてるんだ。早く戻らないと、五分と経たずに飲み干されるぞ」
慌てたように言った耕助がおかしくて、真帆は思わず吹き出した。そんな真帆を見て、穂高も薄く笑みを浮かべている。
耕助は心底嬉しそうに「伊織も穂高も、いい嫁さんを貰ったなあ」と笑った。
すっかり日も暮れた十八時半。穂高と真帆は地下鉄に揺られて、自宅マンションへと向かっていた。
千明につられて少々飲み過ぎたのか、やや頭がふわふわしている。伊織が作った料理は相変わらず美味しく、真帆はお雑煮のレシピを教えてもらった。耕助は初孫である芙柚にメロメロで、膝の上に乗せてご満悦だった。祖父からたっぷりお年玉をせしめていた芙柚は、やっぱり小悪魔の素質がある。デレデレしている耕助を見て、穂高は「親父のあんな顔見たくなかったな……」と複雑な表情を浮かべていた。
「……楽しかったな」
真帆はぽつりと呟いた。正月はいつも父と二人きりで、もちろんそれも楽しかったけれど、こんなに賑やかに過ごしたことは一度もなかった。
「穂高、無理言ってごめんね。連れてきてくれてありがとう」
「……いや、俺の方こそありがとう。久しぶりに、親父とまともに喋った気がする」
穂高はそう言って、何かを思い出すように遠い目をした。その横顔は驚くほどに穏やかで、真帆はほっと息をつく。
(もしかすると穂高は、ずっとお父さんのことを許すタイミングを探していたのかもしれない)
不器用な父子の雪解けにはまだ時間がかかるだろうけど、穂高のタイミングで折り合いをつければいいのだ。できれば穂高が――父を喪ったときの真帆のように――後悔することがなければいいな、と思う。
「おせちもお雑煮も、美味しかったなあ」
「ああ。兄貴が作ったお雑煮、昔母さんが作ってくれた味と同じでびっくりした」
「そうなの? レシピ教えてもらったから、また作るね」
「できれば、真帆の家の味も知りたい」
「うちは……お母さんの実家の味を、お父さんが見よう見まねで真似してたみたいだけど。でも作り方も何も聞いてないから、作るとしてもほぼオリジナルになっちゃいそう」
「それが我が家の味になるなら、それもいいな」
穂高がごく自然に、二人のことを「我が家」と言ってくれたので、真帆はなんだか嬉しくなった。自分たちは紛れもない家族なのだと思うと、胸の奥がじんと温かくなる。
自宅の最寄駅に到着して、電車から降りた。改札へと向かう階段を上るときに、穂高は自然と真帆の手を取る。彼は左手で真帆の手を握り、胸には巨大な大吟醸のボトルを抱えている。帰り際、耕助から持たされたものだ。
「お正月だし、なんだかまだ飲み足りない気分だなあ。家に帰ったらそれ、二人で飲もうか」
大吟醸を指差して、真帆は言った。しかし夫は、真顔のまま「ダメだ」と真帆の提案を跳ね除ける。
「どうして」
「真帆は酔ったらすぐ寝るから」
「家にいるんだから、寝てもいいじゃない」
「真帆が先に寝たら何もできないだろ。せっかく明日も休みなのに」
しれっと答えた穂高の言葉の意味を考えて――ようやく理解すると同時に、真帆の頰はかっと熱くなる。周囲をやや気にしながら、声をひそめて囁く。
「……ゆうべあんなにしたのに、まだするつもりなの?」
昨日は年を越す前にベッドに連れて行かれて、そのまま夢中になっているうちに、気が付いたら年が明けていた。淡白だと思っていた夫はそれなりに性欲旺盛だったらしく、そこそこの頻度で求められている。真帆の方も、正直やぶさかではない。
「真帆がいいなら今日もしたい」
耳元で響く低い声に、ぞくぞくと官能がくすぐられる。夫の瞳の奥に覗く、普段は隠されているぎらぎらとした欲を感じて、昨夜の熱を思い出す。じわじわと体温が上がっていく。
「……わ、私は別にいいけど……穂高って、実はまあまあすけべだよね」
「そうだよ。そんな男が半年以上我慢したんだから、多少はがっついても許されるはずだ」
穂高の言い分に、たしかにそれもそうだな、とまたしても納得してしまう。相変わらず、彼の言葉には不思議な魔力がある。真帆はいつだって彼に容易く流されてしまうし、そういう自分が嫌いではないのだ。
夫からの熱のこもった視線に居た堪れなくなり、真帆はふいと目を逸らす。もじもじと下を向いたまま言った。
「……穂高って、ほんとに私のこと好きなんだ」
「この期に及んで何を言ってるんだ」
穂高は呆れた目で、じろりと睨みつけてくる。そんなことを言われても、こんなに完璧を具現化したような素敵な人が、真帆のどこを見初めたのかさっぱりわからない。三億円の宝くじでも当たったような気分だ。
「まだあんまり実感なくて」
「いいよ。帰ったら嫌ってほど思い知らせるから」
「……なんだかすけべなこと考えてない?」
「なんでそういうことはわかるんだよ」
赤信号の手前で、二人は並んでぴたりと足を止める。お正月の街は賑やかで、初詣帰りらしい家族連れの姿が見えた。子どもの両手を繋いだ父と母の姿に、少し未来の自分たちを重ねてみる。穂高との子どもはさぞかし可愛いのだろうな、と思う。
「ね、穂高」
「うん?」
「……私、穂高との子ども欲しいな。すぐじゃなくても、いいけど」
ほんのり頰を染めて、囁くように言った真帆に、穂高は目を丸くする。やがて真面目くさった表情で、「そうだな」と頷く。
「俺も真帆との子どもが欲しい。大事なことだから、二人できちんと考えよう」
「うん、わかった」
真帆の夫は頼り甲斐のある段取りの鬼だから、きっとたくさん考えてくれるだろう。そして、いつかもし家族が増えたときは一緒に悩んで、優しい答えを二人で出して。笑って泣いて、たまにはぶつかり合って仲直りして、お互いを敬って大事にして。幸せを分け合いながら、共に歳を重ねていければいい。
(この人となら、これからもずっと並んで歩いていける)
目の前の信号が青に変わる。今隣にいる人は、決して真帆を置いて行ったりしない。歩幅を合わせて歩き出した二人は、しっかりと手を繋いだまま、同じ場所に帰るのだ。
終
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また番外編とか後日談書きたいです!