39:誓いのキスから始めましょう
真帆は受付の女性の指示のもと、エレベーターに乗って七階の病室までやって来た。真帆が駆けつけたときには既に冷たくなっていた父の姿が脳裏をよぎって、心臓がぎゅっと痛くなる。
扉を引いて中に入ると、奥のベッドに穂高が座っているのが見えた。
「穂高!」
名前を呼ぶと、穂高は首を回してこちらを向く。ジャケットを脱いだだけのスーツ姿で、右手首に軽く包帯を巻いている程度だ。
「ああ、真帆。わざわざ来てくれたのか。悪いな」
真帆の方を向いた穂高は、少し目を細めて片手を上げる。彼の顔を見た瞬間、ほっと力が抜けて――胸にさまざまな感情がどっと押し寄せてきた。
(穂高がそこにいる。動いてる。喋ってる。無事でよかった。会いたかった。ものすごく心配した。…………好き)
真帆は穂高に駆け寄り、勢いよく抱きついた。彼は座っているために、ぎゅう、っと胸に抱え込むような体勢になる。腕の中に穂高の体温を感じて、心底安堵する。
穂高は「どうしたんだよ」とやや戸惑った声を出しつつも、真帆を突き放すことはせず、背中を撫でてくれた。
「……よかった……穂高が生きてる……」
「そりゃ生きてるよ。オートバイと接触して転倒して、ちょっと右手捻ったぐらいだ」
「だ、だって! いきなり病院から電話かかってきて、電話もできない状態だなんて言われたら、心配するよ!」
身体を離して真帆が反論すると、穂高は苦笑した。
「悪い、うまく話が伝わってなかったみたいだな……無事じゃないのはコレだけだ」
穂高はそう言って、ベッドのサイドテーブルに置かれた黒のスマートフォンを持ち上げた。真っ暗な液晶は無惨に割れ、まるでインド象に踏み潰されたかのような有様である。……たしかにこれは、電話をかけられる状態ではなさそうだ。
「頭打ってたから、一応検査もあったし。大したことないけど、真帆に連絡しておいた方がいいと思って……病院の人に頼んだんだよ。早退までさせて悪かったな」
「……そ、そうなんだ……びっくりしたよ。でも、よく会社の電話番号わかったね」
「ああ。なんかあったときのために控えてた」
穂高はビジネスバッグから社員証の入ったカードケースを取り出すと、中から一枚の紙を取り出す。氏名や生年月日、住所や血液型などが書かれた防災カードだ。緊急連絡先の欄には、真帆の携帯番号と職場の電話番号が書いてある。
(……私。穂高に何かあったとき、一番最初に連絡してもらえる存在なんだ)
枠いっぱいに書かれた「五十嵐 真帆(妻)」は、決して綺麗な字ではないけれど、真帆の名前を大切に丁寧に書こうとしてくれたことが伝わってくる。そのことに気付いた途端に、みるみるうちに涙が溢れてきて、視界が滲んだ。
「お、おい。なんで泣くんだ」
突然泣き出した真帆に、穂高は慌てたように顔を覗き込んでくる。次から次へと流れ出す涙を、親指でそっと拭ってくれた。
「……ほ、穂高が、死んだら、ど、どうしようかと、思った」
「なんでだよ」
「会社に、で、電話かかってきたとき、お、お父さんがし、し、死んだときのこと思い出して……」
しゃくりあげながら真帆が言うと、穂高は悲痛そうに表情を歪めて「ごめん」と言った。真帆はぶんぶんと首を横に振る。
「今朝は、穂高に、お、おはようも、いってらっしゃいも言えなかったから……ご、ごめんなさい……」
「全然気にしてない」
「ほ、穂高とっ、このままお別れなんて、絶対に嫌だった……」
「大丈夫だよ。俺はピンピンしてる」
穂高の腕が、真帆の背中に回される。ぎゅっと強く抱きしめられると、彼の匂いと温度を感じて、ほっと心が安らぐ。それと同じぐらいに、ドキドキと胸が高鳴る。
「約束しただろ。俺は絶対、真帆を一人にしない」
ひとりぼっちだった真帆の手を取って、家族になってくれた人。忘れかけていた家族のあたたかさを、思い出させてくれた人。自分の気持ちを押し殺していた真帆を、泣かせて怒らせてくれた人。
この人に、どうしても伝えたいことがある。これから何があっても、後悔しないように。
「……穂高、あのね。私……」
胸が詰まって声にならない真帆を、穂高は急かしたりしない。優しい瞳でこちらを見つめたまま、辛抱強く待ってくれる。
「……私っ、穂高のことが、好きなの……」
ぐずぐずと泣きじゃくりながら、やっと云えた。臆病さから無理やり押さえ込んでいた恋心が、ようやく彼に届いた。
「……やっと、言ってくれた」
真帆の告白を聞いた穂高は、こちらが驚くぐらいに嬉しそうに笑った。穂高のこんなにも屈託のない笑顔は珍しい。思わずぽうっと見惚れてしまう。
(穂高のこんな顔、他の誰にも見せたくない)
そのとき真帆の心に芽生えたのは、ドロドロと醜い独占欲だった。家族として、だけじゃ嫌だ。真帆が穂高を好きなのと同じように、穂高にも真帆のことを好きになってもらいたい。
「……だから、あのね」
「うん」
「ほ、穂高にも……私のこと好きになってもらえるように、頑張る」
「……は?」
真帆が言うと、穂高は露骨に眉をしかめた。顎に手を当てて、釈然としない表情を浮かべている
「意味が、よくわからない……悪いけど、もう一回言ってくれるか」
「私、穂高のことが好き」
「いや、そこじゃなくて……いやでも、そこももう一回言ってくれ」
「穂高が好き」
「よし。じゃあ、その次」
「穂高に好きになってもらえるように頑張る」
「待て。そこだ。なんでそうなる」
穂高は目尻をつり上げて、なんだか怒ったような顔をしている。真帆はぱちぱちと瞬きをして、首を捻った。
「だって、穂高は……私のことを恋愛的な意味で、好きなわけじゃないでしょう?」
「はあ? なんでだよ」
穂高は大きな溜息をつくと、真帆の両腕をがしりと掴み、鋭い眼光で睨みつけてくる。結婚して半年以上が経っても、この圧にはいつまで経っても慣れない。
たじろぐ真帆に向かって、穂高は言った。
「とりあえず、何でそういう結論に至ったのか説明してもらおうか」
「……だって。そもそも、お見合いを反故にしたいから結婚したいって。私じゃなくても……誰でもよかったんでしょう」
「……ここまで伝わってないとは思わなかった……」
穂高は呆れたように目を細めると、ぽかんとしている真帆に向かって、きっぱりと言い放った。
「いいか。俺は相手が真帆じゃなかったら、あの場でプロポーズなんてしてない」
「え」
「誰でもよかったわけじゃない。どうしても真帆と結婚したかったんだ」
(それって、つまり、穂高は私のことを……?)
彼の言葉を咀嚼し飲み込んで、ようやくその可能性に思い至る。ふわふわと心が浮き上がるのを感じたけれど、それでも釈然としないことは他にもあった。
「でも……その、一緒に住んでても、何もしてこなかったし……」
「いや、そりゃしたかったけど。ずっと」
「そうなの!?」
思わずぎょっと目を見開いた。穂高は小さく肩を竦める。
「当たり前だろ。俺のことをなんだと思ってるんだ」
「で、でも、そんな素振り全然」
「全然ってことはないだろ。結構ジャブ打ってたぞ」
「家族愛の範疇だったよ……」
「……まあいろいろ言いたいことはあるが、とにかく。俺のワガママで強引に入籍したんだから、真帆の気持ちが追いつかないうちは我慢しようと思ってた」
穂高がそんなことを考えていたなんて、夢にも思わなかった。余計な気を遣わせていたのかと思うと、申し訳なさでその場に埋まりたくなる。
たしかに穂高の言う通り、最初から「そういうこと」ありきで結婚生活が始まっていたならば、恋に臆病になっていた真帆の気持ちは置いてけぼりになっていただろう。辛抱強い夫に感謝しなければならない。
「じゃ、じゃあ……ゆうべはどうして」
昨日の夜は、真帆の方から「しよう」と誘ったはずだ。それを断ったのは穂高だった。
真帆の疑問に、穂高は拗ねたように唇を尖らせる。
「……本当にしてもいいのか、まだよくわからなかった。正直、真帆が俺のことちゃんと好きなのか、自信持てなかったし。なんか義務感から言ってるみたいにも見えた」
「……そ、そんなつもりは……ごめんなさい……」
「欲に流されて最後までヤッて、やっぱり無理だから別れるとか言われたら立ち直れない。それならいくらでも待とうと思ってたよ。これからもずっと、真帆と一緒にいたいから」
まっすぐ目を見つめられながら言われて、頬の熱がぶわっと上がる。茹で蛸のごとく真っ赤になった真帆を見て「可愛いな」と笑った夫に、余計に恥ずかしさが増した。なんなんだ、一体。今になって急にデレるのはやめてほしい。
「……でもまあ、正直。かっこつけたけど、事故った瞬間は〝死ぬ前に真帆のこと抱いておけばよかった〟ってすげえ後悔した」
「縁起でもないこと言わないで……」
「もう後悔したくないから、ちゃんと言うよ。俺が言葉足らずなのも悪かったな」
穂高はそう言って、真帆の両手を取った。二人の左手薬指には、婚姻契約の証であるプラチナのリングが嵌っている。かつてはアンドロイドと呼ばれていた彼の手の温度は驚くほど高くて、その心の内もとても温かくて優しいことを真帆は知っている。
穂高はまっすぐに真帆の目を見つめて――結婚してくれ、と言ったときと同じ顔で、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、真帆のことが好きだ。……ずっと、好きだった」
(夢みたいだ。穂高が……世界で一番大好きな人が、私のことを好きでいてくれるなんて)
歓喜に震える声で「私も」と答えると、穂高がふいに真帆の頭を引き寄せた。彼の顔が近づいてきて、どちらからともなく目を閉じた瞬間に、そっと唇が重なる。
まるで何かの誓いを立てるかのような、静かで優しい口づけだった。