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今すぐ結婚してください!〜交際期間0日で始める結婚生活のすすめ〜  作者: 織島かのこ
第8章【あなたと手を繋いで、歩いていく】
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38:伝えたいことがあるの

 翌朝、真帆は穂高と顔を合わせるのが気まずくて、彼がジョギングをしているあいだに素早く家を出た。

 会社の近くのカフェでコーヒーを飲んで、穂高に「片付けないといけない仕事があるので早めに出社してます」とLINEを送った。「わかった」と短いメッセージが返ってきたけれど、きっと見え透いた嘘に気付かれているだろう。


「おはようございます」

「おはよう。今日はずいぶん早いね」


 七時に出社すると、既に會澤課長は自席に座っていた。挨拶をした真帆を見て、目を丸くする。真帆は「まあ、はい」と力なく答えて、端末のスイッチを入れた。

 溜まっていた仕事を片付けていると、高瀬主任がやってきた。「おはよう……」と言って、眠たげに瞼を擦っている。寝不足なのは真帆も同じだったので、なんだか妙な親近感を覚える。


「五十嵐さん、えらく早いなあ……」

「おはようございます。高瀬主任、眠そうですね」

「ゆうべは娘の夜泣きがひどくてさあ……でも嫁も毎日大変そうだし、ちょっとくらい寝かせてやんないと……」


 ふああ、と大きな欠伸をした高瀬は、コンビニで買って来たらしいホットコーヒーを飲んでいる。意外と熱かったのか、「あづっ」と言って噎せていた。


「五十嵐さんはどうしたの。旦那さんと喧嘩でもした?」

「うっ。いえ、まあ」

「へー、珍しいね。なんで?」


 セックスを断られたのが恥ずかしくて夫を避けているなんて、恥ずかしくてとても言えない。高瀬と違って、くだらない理由で寝不足になっている自分が情けない。

 オロオロと口籠った真帆を見て、高瀬はケラケラ笑っている。


「まあ、夫婦なんてとことんくだらねー理由で喧嘩するもんだよ。うちも毎日喧嘩ばっかりだし」

「そ、そうなんですか」

「うちの嫁は俺の話最後まで聞かねーからさあ。勘違いして一人で怒ったり落ち込んだり、めんどくせえの。……まあ、そこが可愛いんだけど」


 照れたようにぼそりと付け加えた高瀬の表情は、妻への愛情に満ちていた。なんだかんだで良い関係なんだろうな、と真帆の気持ちがほっと温かくなる。


(……ゆうべは、やっぱり突然すぎたかな)


 職場に来て穂高と離れてみると、のぼせていた頭がようやく冷静になってきた。

 昨日は舞い上がっていたけれど、よくよく考えると「夫婦だから、とりあえずしてみよう」だなんて言い方は、あまりにも投げやりだし失礼だった。穂高が気分を害するのも無理はない。

 本当はもっと先に、伝えるべきことがあったはずだ。真摯に気持ちを伝えて、彼の返事を聞くべきだった。ほっぺたにキスだけでは我慢できなくなっていたのは、真帆の方なのだから。


(家に帰ったら、穂高とちゃんと話そう。……受け入れてもらえるかは、わからないけど)


 そう決意した真帆は、気合いを入れるべく両頬をぱちんと叩く。襲いくる眠気を追い払い、仕事に取り掛かり始めた。




 その日は入電数も少なく、驚くほどのんびりとした昼下がりだった。変な横槍が入らないため、積み上がっていた事務仕事がさくさく片付いていく。

 窓から降り注ぐ太陽の光もぽかぽかと温かく、昼食を食べたばかりの真帆は欠伸を何度も噛み殺していた。庶務の中川さんが「いただきものだけど、よかったらどうぞ」と持ってきた大判焼きを、温かいお茶とともに食べる。


「平和だなあ」

「平和ですねえ」


 高瀬と二人、しみじみとそう言い合う。大判焼きは甘くて美味しくて、ほうじ茶は温かくてほっとする。毎日がこのぐらいの忙しさだったらいいのに。


 しかし、そんな平穏なひとときを切り裂いたのは、一本の電話だった。

 突如として鳴り響いたのは、會澤課長の席にある代表電話だ。心底嫌そうな顔で受話器を持ち上げた會澤の表情が、みるみるうちに緊張で強張る。


「五十嵐さん、五十嵐さん。ちょっと」

「はい、なんでしょうか」


 大判焼きをお茶で流し込んでから、真帆は呑気な返事をした。會澤は深刻そうに眉を寄せて、言った。


「……太陽ヶ丘(たいようがおか)病院から、電話がかかってきてる。そっちに回すよ」


 病院、という単語を聞いた瞬間、真帆の心臓はドクンと嫌な音をたてた。

 真帆の脳裏に蘇ったのは、父が死んだ日のことだった。あのときも病院から職場に電話がかかってきて、父の死を知らされたのだ。

 おそるおそる受話器を持ち上げると耳に押し当て、乾いた唇を素早く湿らせてから、口を開く。


「はい、五十嵐です」

『太陽ヶ丘病院の千崎(せんざき)と申します。五十嵐穂高さんの配偶者の、真帆さんでしょうか?』

「……そうです」


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた女性の声だった。穂高の名前を聞いた瞬間に、ひやりと背中に冷たい汗が流れる。受話器を握る手がぶるぶると震え出す。


『実は今、穂高さんが交通事故に遭われて、当院に運ばれています。お電話ができる状態ではないとのことなので、私の方からご連絡させていただきました』

「穂高、が……」


 目の前が真っ暗になった。全身からすうっと血の気が引いていって、受話器を持った指先からどんどん体温が失われていく。薬指にはまった指輪の存在を確かめるかのように、左手を強く握りしめた。


「……わかり、ました。はい。今すぐに行きます」


 やっとのことでそう絞り出した真帆は、受話器を置いた。その拍子に、デスクに置いていたペン立てをひっくり返す。散乱したボールペンやマーカーを拾うこともなく、顔面蒼白になっている真帆を見て、高瀬が心配そうに言った。


「どうかした? 旦那さんになんかあった?」

「穂高が、夫が……じ、事故に遭ったって。びょ、病院に運ばれたって」


 頭の中がミキサーで掻き回されたようにぐちゃぐちゃで、まともな思考ができない。先ほど聞いた女性の言葉が、ぐるぐると頭の中で巡っている。


(交通事故って、一体どんな。電話もできないって、どれだけひどい状態なの)


 とにかくすぐに、夫の元に向かわなければ。真帆は立ち上がると、ふらふらと會澤の元へと歩いて行った。


「あの、私……早退を、してもよろしいでしょうか」

「当たり前だよ、家族のことなんだから。太陽ヶ丘病院だったら、結構遠いな。タクシー使う?」

「あ……は、はい」

「高瀬主任、下にタクシー呼んであげて」

「はい、わかりました。五十嵐さん、ちょっと待ってて」


 真帆がオロオロしているうちに、高瀬がタクシーを呼んでくれた。いつのまにか、真帆のバッグとコートも用意してくれている。

「失礼します」と頭を下げて、エレベーターに乗って階下に降りる。エントランスを通って外に出ると、眉をハの字に下げた守衛が立っていた。


「あっ、五十嵐さあん! タクシー来てますよ!」

「は、はい……」

「大丈夫ですか? お気をつけてくださいね!」

「あ……あ、ありがとうございます」


 守衛に礼を言ってから後部座席に乗り込んだ真帆は、上手く回らない舌で、運転手に「太陽ヶ丘病院まで」と告げる。


 走り出したタクシーの中で、真帆はまるでお守りのように、左手薬指の結婚指輪を握りしめていた。窓の外の景色とともに、まるで走馬灯のように、穂高との思い出が頭の中を駆け巡っていく。

 猛ダッシュで婚姻届を提出したこと。結婚指輪を交換して、大事にするよと誓い合ったこと。仕事で落ち込んだ真帆を慰めてくれたこと。手を繋いでアイスを買いに行ったこと。ソファに並んで座って映画を見たこと。真帆の作った料理を、美味しいと言って食べてくれたこと。抱きしめられて、彼の胸で泣いた日のこと。いってらっしゃいと言って、頬にキスをしたこと。

 どれもこれも、当たり前でありふれていて――それでも、このうえなく大切な幸せだった。

 今朝の真帆は穂高の顔すら見ずに家を出て、おはようも、いってきますも言えなかった。くだらない理由で彼を避けた自分自身を殴りたくなる。朝起きたら家族がそこにいてくれることが、当たり前ではないとわかっていたはずなのに。


(もう二度と、穂高に会えなかったらどうしよう……)


 想像しただけで寒気がしてきて、がくがくと身体が震える。運転手が「寒いですか? 暖房、強めますか?」と尋ねてきたが、真帆は無言で首を振った。


 二十分ほど走っただろうか。目的の病院が近付いてきたところで、ハンドルを握った運転手が眉を顰めた。


「あちゃー、混んでますね」

「えっ」

「この道、いつも混むんですけど……今日は近くで事故があったせいで、余計に混雑してるみたいです」


 もしかすると、穂高が遭遇したという交通事故だろうか。ざわざわと胸が騒ぎ出す。真帆はバッグから財布を取り出すと、運転手に向かって告げた。


「あの、ここで降ろしてください」

「そうですね、降りた方が早いかもしれないです」


 支払いを済ませた真帆は、タクシーから降りる。病院までは、歩いて十分ほどで着くだろう。それでも居ても立っても居られなかった真帆は、全力で走り出した。


(もう、間に合わないのは絶対に嫌だ。ねえ穂高。私、あなたに伝えたいことがたくさんあるんだよ)


 高いヒールでアスファルトを蹴る。こんなにも必死で走ったのは、穂高と入籍したあの夜以来だろうか。婚姻届を胸に抱えて、彼は真帆の手を引いて一緒に走ってくれた。


 ――結婚してくれ、今すぐに。


 彼にプロポーズをされたあの瞬間から、真帆は一人ぼっちではなくなった。

 大事な大事な、世界でたった一人の真帆の家族。今度はもう、伝えておけばよかったって後悔したくない。

 辛いときや悲しいときに、いつも励まして慰めてくれてありがとう。ピンチのときに、助けてくれてありがとう。私の作ったごはんを、美味しいって食べてくれてありがとう。私の家族になってくれて、ありがとう。それから。

 吸い込んだ空気が冷たくて、胸が苦しい。パンプスが擦れて踵が痛い。足がもつれて、思い切り転倒した。黒のタイツの膝が破れて、血が滲んでいる。それでも立ち上がって、走って走って、走って。

 どうしても、今すぐ伝えなきゃいけない言葉がある。


(私、穂高のことが好き)


 肺が千切れそうになりつつも、真帆はようやく病院に到着した。自動ドアが開く速度ももどかしいほどに、勢いよく中に飛び込んで、一目散に受付に走る。

 長い髪を振り乱して、はあはあと息を荒げながら――真帆は言った。


「あのっ……私、五十嵐穂高の、妻ですっ」

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