38:伝えたいことがあるの
翌朝、真帆は穂高と顔を合わせるのが気まずくて、彼がジョギングをしているあいだに素早く家を出た。
会社の近くのカフェでコーヒーを飲んで、穂高に「片付けないといけない仕事があるので早めに出社してます」とLINEを送った。「わかった」と短いメッセージが返ってきたけれど、きっと見え透いた嘘に気付かれているだろう。
「おはようございます」
「おはよう。今日はずいぶん早いね」
七時に出社すると、既に會澤課長は自席に座っていた。挨拶をした真帆を見て、目を丸くする。真帆は「まあ、はい」と力なく答えて、端末のスイッチを入れた。
溜まっていた仕事を片付けていると、高瀬主任がやってきた。「おはよう……」と言って、眠たげに瞼を擦っている。寝不足なのは真帆も同じだったので、なんだか妙な親近感を覚える。
「五十嵐さん、えらく早いなあ……」
「おはようございます。高瀬主任、眠そうですね」
「ゆうべは娘の夜泣きがひどくてさあ……でも嫁も毎日大変そうだし、ちょっとくらい寝かせてやんないと……」
ふああ、と大きな欠伸をした高瀬は、コンビニで買って来たらしいホットコーヒーを飲んでいる。意外と熱かったのか、「あづっ」と言って噎せていた。
「五十嵐さんはどうしたの。旦那さんと喧嘩でもした?」
「うっ。いえ、まあ」
「へー、珍しいね。なんで?」
セックスを断られたのが恥ずかしくて夫を避けているなんて、恥ずかしくてとても言えない。高瀬と違って、くだらない理由で寝不足になっている自分が情けない。
オロオロと口籠った真帆を見て、高瀬はケラケラ笑っている。
「まあ、夫婦なんてとことんくだらねー理由で喧嘩するもんだよ。うちも毎日喧嘩ばっかりだし」
「そ、そうなんですか」
「うちの嫁は俺の話最後まで聞かねーからさあ。勘違いして一人で怒ったり落ち込んだり、めんどくせえの。……まあ、そこが可愛いんだけど」
照れたようにぼそりと付け加えた高瀬の表情は、妻への愛情に満ちていた。なんだかんだで良い関係なんだろうな、と真帆の気持ちがほっと温かくなる。
(……ゆうべは、やっぱり突然すぎたかな)
職場に来て穂高と離れてみると、のぼせていた頭がようやく冷静になってきた。
昨日は舞い上がっていたけれど、よくよく考えると「夫婦だから、とりあえずしてみよう」だなんて言い方は、あまりにも投げやりだし失礼だった。穂高が気分を害するのも無理はない。
本当はもっと先に、伝えるべきことがあったはずだ。真摯に気持ちを伝えて、彼の返事を聞くべきだった。ほっぺたにキスだけでは我慢できなくなっていたのは、真帆の方なのだから。
(家に帰ったら、穂高とちゃんと話そう。……受け入れてもらえるかは、わからないけど)
そう決意した真帆は、気合いを入れるべく両頬をぱちんと叩く。襲いくる眠気を追い払い、仕事に取り掛かり始めた。
その日は入電数も少なく、驚くほどのんびりとした昼下がりだった。変な横槍が入らないため、積み上がっていた事務仕事がさくさく片付いていく。
窓から降り注ぐ太陽の光もぽかぽかと温かく、昼食を食べたばかりの真帆は欠伸を何度も噛み殺していた。庶務の中川さんが「いただきものだけど、よかったらどうぞ」と持ってきた大判焼きを、温かいお茶とともに食べる。
「平和だなあ」
「平和ですねえ」
高瀬と二人、しみじみとそう言い合う。大判焼きは甘くて美味しくて、ほうじ茶は温かくてほっとする。毎日がこのぐらいの忙しさだったらいいのに。
しかし、そんな平穏なひとときを切り裂いたのは、一本の電話だった。
突如として鳴り響いたのは、會澤課長の席にある代表電話だ。心底嫌そうな顔で受話器を持ち上げた會澤の表情が、みるみるうちに緊張で強張る。
「五十嵐さん、五十嵐さん。ちょっと」
「はい、なんでしょうか」
大判焼きをお茶で流し込んでから、真帆は呑気な返事をした。會澤は深刻そうに眉を寄せて、言った。
「……太陽ヶ丘病院から、電話がかかってきてる。そっちに回すよ」
病院、という単語を聞いた瞬間、真帆の心臓はドクンと嫌な音をたてた。
真帆の脳裏に蘇ったのは、父が死んだ日のことだった。あのときも病院から職場に電話がかかってきて、父の死を知らされたのだ。
おそるおそる受話器を持ち上げると耳に押し当て、乾いた唇を素早く湿らせてから、口を開く。
「はい、五十嵐です」
『太陽ヶ丘病院の千崎と申します。五十嵐穂高さんの配偶者の、真帆さんでしょうか?』
「……そうです」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた女性の声だった。穂高の名前を聞いた瞬間に、ひやりと背中に冷たい汗が流れる。受話器を握る手がぶるぶると震え出す。
『実は今、穂高さんが交通事故に遭われて、当院に運ばれています。お電話ができる状態ではないとのことなので、私の方からご連絡させていただきました』
「穂高、が……」
目の前が真っ暗になった。全身からすうっと血の気が引いていって、受話器を持った指先からどんどん体温が失われていく。薬指にはまった指輪の存在を確かめるかのように、左手を強く握りしめた。
「……わかり、ました。はい。今すぐに行きます」
やっとのことでそう絞り出した真帆は、受話器を置いた。その拍子に、デスクに置いていたペン立てをひっくり返す。散乱したボールペンやマーカーを拾うこともなく、顔面蒼白になっている真帆を見て、高瀬が心配そうに言った。
「どうかした? 旦那さんになんかあった?」
「穂高が、夫が……じ、事故に遭ったって。びょ、病院に運ばれたって」
頭の中がミキサーで掻き回されたようにぐちゃぐちゃで、まともな思考ができない。先ほど聞いた女性の言葉が、ぐるぐると頭の中で巡っている。
(交通事故って、一体どんな。電話もできないって、どれだけひどい状態なの)
とにかくすぐに、夫の元に向かわなければ。真帆は立ち上がると、ふらふらと會澤の元へと歩いて行った。
「あの、私……早退を、してもよろしいでしょうか」
「当たり前だよ、家族のことなんだから。太陽ヶ丘病院だったら、結構遠いな。タクシー使う?」
「あ……は、はい」
「高瀬主任、下にタクシー呼んであげて」
「はい、わかりました。五十嵐さん、ちょっと待ってて」
真帆がオロオロしているうちに、高瀬がタクシーを呼んでくれた。いつのまにか、真帆のバッグとコートも用意してくれている。
「失礼します」と頭を下げて、エレベーターに乗って階下に降りる。エントランスを通って外に出ると、眉をハの字に下げた守衛が立っていた。
「あっ、五十嵐さあん! タクシー来てますよ!」
「は、はい……」
「大丈夫ですか? お気をつけてくださいね!」
「あ……あ、ありがとうございます」
守衛に礼を言ってから後部座席に乗り込んだ真帆は、上手く回らない舌で、運転手に「太陽ヶ丘病院まで」と告げる。
走り出したタクシーの中で、真帆はまるでお守りのように、左手薬指の結婚指輪を握りしめていた。窓の外の景色とともに、まるで走馬灯のように、穂高との思い出が頭の中を駆け巡っていく。
猛ダッシュで婚姻届を提出したこと。結婚指輪を交換して、大事にするよと誓い合ったこと。仕事で落ち込んだ真帆を慰めてくれたこと。手を繋いでアイスを買いに行ったこと。ソファに並んで座って映画を見たこと。真帆の作った料理を、美味しいと言って食べてくれたこと。抱きしめられて、彼の胸で泣いた日のこと。いってらっしゃいと言って、頬にキスをしたこと。
どれもこれも、当たり前でありふれていて――それでも、このうえなく大切な幸せだった。
今朝の真帆は穂高の顔すら見ずに家を出て、おはようも、いってきますも言えなかった。くだらない理由で彼を避けた自分自身を殴りたくなる。朝起きたら家族がそこにいてくれることが、当たり前ではないとわかっていたはずなのに。
(もう二度と、穂高に会えなかったらどうしよう……)
想像しただけで寒気がしてきて、がくがくと身体が震える。運転手が「寒いですか? 暖房、強めますか?」と尋ねてきたが、真帆は無言で首を振った。
二十分ほど走っただろうか。目的の病院が近付いてきたところで、ハンドルを握った運転手が眉を顰めた。
「あちゃー、混んでますね」
「えっ」
「この道、いつも混むんですけど……今日は近くで事故があったせいで、余計に混雑してるみたいです」
もしかすると、穂高が遭遇したという交通事故だろうか。ざわざわと胸が騒ぎ出す。真帆はバッグから財布を取り出すと、運転手に向かって告げた。
「あの、ここで降ろしてください」
「そうですね、降りた方が早いかもしれないです」
支払いを済ませた真帆は、タクシーから降りる。病院までは、歩いて十分ほどで着くだろう。それでも居ても立っても居られなかった真帆は、全力で走り出した。
(もう、間に合わないのは絶対に嫌だ。ねえ穂高。私、あなたに伝えたいことがたくさんあるんだよ)
高いヒールでアスファルトを蹴る。こんなにも必死で走ったのは、穂高と入籍したあの夜以来だろうか。婚姻届を胸に抱えて、彼は真帆の手を引いて一緒に走ってくれた。
――結婚してくれ、今すぐに。
彼にプロポーズをされたあの瞬間から、真帆は一人ぼっちではなくなった。
大事な大事な、世界でたった一人の真帆の家族。今度はもう、伝えておけばよかったって後悔したくない。
辛いときや悲しいときに、いつも励まして慰めてくれてありがとう。ピンチのときに、助けてくれてありがとう。私の作ったごはんを、美味しいって食べてくれてありがとう。私の家族になってくれて、ありがとう。それから。
吸い込んだ空気が冷たくて、胸が苦しい。パンプスが擦れて踵が痛い。足がもつれて、思い切り転倒した。黒のタイツの膝が破れて、血が滲んでいる。それでも立ち上がって、走って走って、走って。
どうしても、今すぐ伝えなきゃいけない言葉がある。
(私、穂高のことが好き)
肺が千切れそうになりつつも、真帆はようやく病院に到着した。自動ドアが開く速度ももどかしいほどに、勢いよく中に飛び込んで、一目散に受付に走る。
長い髪を振り乱して、はあはあと息を荒げながら――真帆は言った。
「あのっ……私、五十嵐穂高の、妻ですっ」