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今すぐ結婚してください!〜交際期間0日で始める結婚生活のすすめ〜  作者: 織島かのこ
第8章【あなたと手を繋いで、歩いていく】
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37:夫婦なのに片想い

 十二月になるとぐっと冷え込みが厳しくなり、朝起きるのがうんと辛くなった。毎朝恒例である父の写真への挨拶も、布団の中から顔を出して「おはよう」と済ませてしまう。

 のっそりとベッドから這い出すと、モコモコの靴下にスリッパを履いて、ガウンを羽織って寝室の扉を開ける。リビングに夫の姿がなかった。玄関に人の気配を感じたので、真帆はパジャマ姿のままそちらに向かう。


「ああ、真帆。起きたのか」


 スーツ姿の穂高が、靴を履いているところだった。時刻はまだ六時過ぎだ。不思議に思った真帆は「どうしたの?」と尋ねる。


「今日は早めに出なきゃいけないんだよ。帰る時間は普通だと思う」

「わかった。晩ごはん食べるよね?」

「うん」


 玄関の床に置いてあったビジネスバッグを取ると、真帆はそれを「はい」と手渡した。受け取った穂高は、何かを待つようにじっとその場に留まっている。

 早く出なければならないのに、モタモタしていていいのだろうか。真帆が不思議に思っていると、彼は腰を軽く屈めて顔を近づけてきた。


「どうしたの?」

「いってらっしゃいのキスは?」

「え」


 真帆は赤面した。朝から真顔でとんでもないことを言う男だ。寝起きの頭には少々刺激が強い。飼い主のご褒美を待つ忠犬のような顔をしている夫は可愛い。

 穂高が頑として動かないので、真帆はネクタイを掴んで背伸びをすると、頰に素早く唇を押し当てた。一瞬触れるだけの短いキスだったけれど、穂高はそれで満足したらしい。


「じゃあ、いってきます」

「……いってらっしゃい」


 心なしかご機嫌な様子で玄関を出て行く夫の背中を、ひらひらと手を振って見送る。バタンと扉が閉まったのを確認してから、両手で頰を押さえて壁にもたれかかった。


(だめだ。今日も好きすぎる)


 穂高の誕生日から、彼はときおり真帆にキスをねだるようになっていた。何がそんなにお気に召したのかはわからないが、真帆にしても文句はないので内心喜んでほっぺにキスをしている。


(こんなの、まるで新婚夫婦みたいだ……)


 先ほどのキスを反芻しながら、真帆はほうっと甘い溜息をついた。

 入籍しておよそ七ヶ月、まだまだ正真正銘の新婚夫婦であることは、完全に真帆の頭から抜け落ちている。




「いや、何言ってんの? ほっぺにチューって、子どものおままごとじゃあるまいし」


 くるくるとフォークにクリームパスタを巻きつけながら、風花がばっさりと言い放った。すっかり浮かれていた真帆は、その一言であっというまに現実に引き戻される。


 昼休み。真帆は風花と連れ立って、会社近くにあるイタリアンでランチをしていた。いつも金欠の風花にとって、千六百円のランチコース(デザートつき)は信じられないほどの贅沢らしい。今日は「推しのライブのチケット戦争に敗れた」という彼女の憂さ晴らしである。

 うちの社員は社内にある食堂を利用することが多いため、会社の近くといえど知り合いに会う確率は低い。もちろんゼロではないけれど、真帆と風花はいつもより羽を伸ばしてランチを満喫していた。たまには息抜きは大事だ。 

 風花からチケット転売屋に対する恨みつらみをさんざん聞かされたあと、話題は真帆たち夫婦のことになった。「最近はかなり夫婦らしくなった」と報告した真帆を、風花は「甘い」と切り捨てる。


「真帆、穂高さんのこと好きなんでしょ?」

「う、うん……す、好き……」

「そこで照れるのがまず意味わかんない! 夫婦なんだから、堂々と好きでいいんだよ!」


 そんなことを言われても、照れるものは照れる。家族としての信頼を築いたあとで芽生えた恋心は、どうにも置き所がなくて持て余してしまう。


(もしも私が穂高を好きだと言ったら、彼はどんな顔をするだろう)


 優しい彼は、真帆の気持ちを受け入れてくれるだろうと思う。でも万が一、「そんなものはいらない」と拒絶されてしまったら――きっともう二度と立ち直れない。それならずっとこのままでいいではないか、と尻込みしてしまう。


「観念して、さっさと抱かれてきなよ」

「そ、そんな簡単に言わないでよ……」

「なにカマトトぶってんの! 初めて彼氏ができた中学生でもあるまいし! 配偶者相手にもったいぶってる場合じゃないよ!」

「べ、別にもったいぶってるわけじゃない、けど」


 真帆はパスタについてきたバゲットを引きちぎりながら、もごもごと口ごもる。


「真帆の方から誘えばいいじゃん。向こうだって、いろいろ我慢してるんじゃないの」

「……うーん。そんな風には見えないなあ」

「それに穂高さん、絶対モテるでしょ?」

「そりゃあもう。あんな人、モテないわけがないよ」

「だったら余計に、ちゃんと捕まえといた方がいいんじゃない? ……まさか元カレみたいなことには、ならないと思うけど」


 風花の言葉で慎太郎のことを思い出して、真帆はぞっとした。

 思えば真帆は元彼と身体を重ねることにあまり積極的ではなく、誘われてもやんわり拒絶することが多かった。正直、あまり気持ちが良いことだとも思えなかったのだ。慎太郎が美月と浮気をしたのも、そういった要因があったのかもしれない。

 穂高がそんな人ではないと、信じてはいるけれど――それでも真帆だって、このままではいけないことぐらいわかる。形から始まった関係だとしても、真帆と穂高は紛れもない夫婦なのだ。


 それから真帆と風花はデザートと食後のコーヒーを楽しんで、慌ただしく会社に戻った。午後からの業務を乗り切るためには、一時間のランチタイムはあまりに短すぎる。昼休みが三時間ぐらいあればいいのに。




 その日の夜のこと。ソファに座った真帆は、ブランケットを膝に掛けてテレビを見ていた。

 火曜二十二時からのラブコメドラマは、ヒーローが穂高似の俳優で、毎週楽しみに追いかけているのだ。穂高によく似た顔で、彼が絶対に言わないような甘ったるい台詞を吐くので、うっかりときめいてしまう。妄想するだけならタダだ。

 ドラマチックな大雨が降り頻る中でヒーローがヒロインを抱きしめ、エンディングが流れた頃に、穂高がバスルームから出てきた。真帆の隣に座って、テレビ画面をぼんやり眺めている。


「ハマってるな、このドラマ」

「うん、面白いよ。もうすぐ最終回なの」


 そのときテレビの向こうで、ヒーローがヒロインにキスをした。思いのほか濃厚で長い口づけに、さっきまで平和だったリビングに緊張が走る。家族と見るラブシーンは、何故こうも居た堪れない気持ちになるのだろうか。

 穂高は舌を絡める男女を見つめたまま何も言わない。気まずい空気を吹き飛ばすように、真帆は「そ、そういえば」と切り出す。


「今年のクリスマスイブ、金曜日だね」

「そうだな。ホテルのクリスマスディナーでも予約しようか」

「わあ、すごい。ベタベタのやつだ」

「こういうのはベタに越したことはない」


 真面目くさった顔で穂高が言うので、真帆はなんだかおかしくなった。それと同時に、過去の彼女にもこういう「ベタ」を繰り返してきたのだろうか、などとつまらないことを考えてしまう。こんなことで、モヤモヤしたくないのに。


「……ホテルのディナーもいいけど、クリスマスは家でのんびりしようよ」

「わかった。じゃあ、チキンとケーキを予約しておく。シャンパン買ってくるよ」

「やっぱりベタに走るんだね」


 そのとき、テーブルに置いていた穂高のスマホが鳴った。反射的にディスプレイを見ると、LINEの通知が届いている。穂高はスマホをロックした状態でも、差出人とメッセージが表示される設定にしているらしい。「新木 さつき」という名前が見えた。

 新木という名前に覚えがあるなと記憶をたどって、すぐに思い出した。たしか、穂高の後輩の女の子だ。「私も含めてですけど、なんてね」と言っていた愛らしい顔が浮かんで、真帆の胸に不安がよぎる。


「仕事の連絡だよ」


 真帆の視線に気がついたのか、穂高はスマホを取ってLINEのメッセージ画面を見せてくれる。彼の言う通り、内容は他愛もない仕事のやりとりばかりだ。たまに新木の方から雑談を振ってくる気配はあったが、穂高はそれをスルーしていた。今度飲みに連れてってください、なんて誘いも完全無視だ。

 やはり穂高は誠実で高潔だ。慎太郎とは違う。真帆は夫のことを心の底から信じている、けれど。


(……あんなに可愛い後輩に慕われてたら、穂高だって悪い気はしないんだろうな)


 もしも穂高が他の女性と関係を持ったとして、真帆にそれを責める資格があるのだろうか。妻という立場ではあるものの、真帆と穂高のあいだに肉体関係はない。

 もういっそ、風花の言う通り――抱いてもらった方が楽になるのかもしれない。形だけではなく、名実ともに夫婦になってしまえば、こんなに不安な想いをせずに済むのだろうか。


 いつのまにかドラマは終わり、バラエティ番組が始まっていた。真帆がテレビを消すと、穂高がふいに肩を抱き寄せてくる。


「部屋、戻る前に」


 低く甘い声で囁かれて、キスをねだられているのだと気付く。

 真帆はおそるおそる彼の首に腕を回して、頰に唇を押しつける。いつもならば照れてすぐ離れるところだけれど、真帆は彼に抱きついたまま動かなかった。


「真帆……?」


 穂高は真帆の背中を撫でながら、不思議そうな声を出す。

 風呂上がりの彼の体温は高い。ゴツゴツとした筋肉質な身体は自分のものとはまったく違っていて、否が応でも性別の違いを思い知らされる。心臓の音がバクバクとうるさい。きっと、彼にも聞こえているに違いない。


「……ほ、穂高。そろそろ、し、しようか……」


 震える声で、絞り出すように真帆は言った。夜のお誘いにしては、あまりにも色気がない。

 主語はなかったけれど、穂高には伝わったらしい。背中を撫でていた手がぴたりと止まって、ごくりと唾を飲み込む音がした。


「……子ども、欲しくなった?」


 ややあって返ってきた穂高の問いに、すうっと背中が冷えた。もしかすると自分は、のぼせあがってとんでもない勘違いをしていたのではないかと気付く。


「……そうじゃ、ない」


 真帆は首を横に振る。

 正直なところ、今すぐに子どもが欲しいわけではない。真帆が彼に望んでいるのは、子作りの手段としてのセックスではないのだ。それでも、穂高にとっては違うのかもしれない。


「どうしたんだよ、急に」

「……だって、私たち夫婦なんだし。しておいた方が、いいでしょ」


 言い訳めいた真帆の言葉に、穂高は眉間に皺を寄せて、困ったような怒ったような顔をした。真剣な表情で、しばらく考え込んでいるようだ。じりじりと不安がせり上がってくる。


「……いや。別に、無理にすることないだろ。今日はやめておこう」


 相変わらず温度のない平坦な声に、真帆は心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。身体はどんどん冷たくなっていくのに、頰だけは燃えるように熱い。


「そ、そうだね。変なこと言ってごめん」


 真帆は慌てて穂高の身体を押し退けると、逃げるように寝室へと飛び込んだ。勢いよく扉を閉めてから、ベッドの上にぼすっと倒れ込む。


(恥ずかしい。一体私は、何を勘違いしてたんだろう。そもそも、穂高は私のことが好きで結婚したわけでもないのに)


 彼が自分を求めているのではないかと勘違いして、一人で舞い上がっていた。羞恥のあまり、枕に顔を埋めてジタバタと暴れ回る。

 今扉の向こうで夫が何を思っているのかを想像すると、とても眠れそうになかった。

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