36:手作りケーキとほっぺにキス
父の誕生日に、ケーキを焼いたことがある。
初めてのお菓子作りがデコレーションケーキ、というのは小学生の真帆にとってハードルが高かったらしく、完成したスポンジは生焼けだった。生クリームやフルーツを盛りつけ、見た目はそれなりになったものの、美味しい美味しいと完食した父は翌日腹を壊して寝込んだ。
それ以来、真帆はお菓子作りに対して腰が引けるようになり、毎年誕生日にはケーキ屋でショートケーキをふたつ購入するようになった。「また真帆の手作りケーキ食べたいなあ」なんてことを言う父を、真帆はのらりくらりとはぐらかしていた。
「ちゃんと練習して上手にできるようになったら、食べさせてあげるよ」
そんな約束は、ついぞ果たされないままだった。
「はい、じゃあ穂高くんお誕生日おめでとー! かんぱーい!」
千明は至極ご機嫌な様子で、高々とグラスを掲げた。この日のために用意したという年代もののワインを飲めるのが、よほど嬉しいらしい。
本日の主役であるはずの穂高は、膝の上に姪っ子を乗せたまま、無表情で「ありがとう」と答える。これが彼のデフォルトなだけで、本当につまらないと思っているわけではない。実際、これは楽しいときの顔だな、となんとなく察することができた。
今日、十一月二十二日は、穂高の誕生日だ。たまたま日曜日だったこともあり、「よかったらみんなでお祝いしよう」という千明の言葉に甘え、義兄夫婦の家にお呼ばれすることになった。
穂高への誕生日プレゼントも、ちゃんと用意した。真帆が使っているのと同じスマートウォッチが欲しいと言うので、自社製品の最新機種を購入した。「手前味噌だけど、結構いい製品だよ」と言うと、穂高は嬉しそうに受け取ってくれた。
テーブルの上にずらりと並んだご馳走は、すべて伊織が作ったものだ。千明はあっというまにグラスを空にして、手酌で二杯目を注いでいる。一口飲んでから、満足げにうんうんと頷いた。
「いやー、穂高くんに初めて会ったときはまだ大学生だったのにねえ……あれ? いくつになったんだっけ」
「二十七だよ」
「え!? 穂高くんまだ二十七なの!? 二十七歳にしてはちょっと仕上がりすぎじゃない!?」
素っ頓狂な声を上げた千明に、真帆は思わず吹き出した。
たしかに穂高は、真帆の同期たちと比べても大人っぽく、しっかりしていて頼り甲斐があると思う。真帆も三ヶ月後には二十七歳になるが、穂高のような落ち着きは身につけられていない気がする。でも、彼には意外と子どもっぽくて可愛いところもあるのだ。
「社会人五年目なんてまだヨチヨチ歩きでしょ! どこでその貫禄身につけてきたの?」
「そうかな。普通だよ」
「私が二十七の頃はもっといっぱいいっぱいだったけどなあ」
「それは義姉さんの落ち着きがないだけだろ」
「うわーん! ひどい! 伊織くん、義弟が可愛くない!」
千明は大袈裟に泣き真似をすると、隣の伊織に抱きついた。伊織は呆れた顔でされるがままになっている。
伊織は穂高の三歳上、千明は伊織のさらに二歳上とのことなので、今年で三十二歳のはずだ。仕事に子育てに遊びに精を出している彼女は、たしかに落ち着きはないけれど、謎の生命エネルギーに満ち溢れている。
「穂高くんも大学生の頃はまだ可愛げが……多少は……ううん……やっぱりあのときから可愛くなかったかも」
「穂高が可愛かったことなんて、俺の記憶には一度もないぞ」
「そんなことないですよ。穂高はたまに可愛いです」
「真帆ちゃん、さらっとノロケるねー」
フォローを入れたつもりが千明から冷やかされて、真帆は誤魔化すようにスパークリングワインを流し込んだ。きつい炭酸がしゅわしゅわと喉を通り過ぎていく。「可愛い」と称された穂高は、なんだか微妙な顔をしている。
「ねえ、ふゆは? ふゆもかわいい?」
穂高の膝の上で、芙柚が瞳を輝かせて尋ねる。芙柚は「かっこいいおじさん」である穂高のことが大好きで、かなり懐いている。保育園の先生が本命らしいし、もしかしたら歳上好きなのかもしれない。
「芙柚はいつでも可愛いよ」
「パパにはきいてない」
穂高の代わりに答えた伊織を、芙柚はばっさりと切り捨てる。伊織はがっくりと肩を落とし、千明はケラケラと明るい笑い声をたてた。穂高は優しい笑みを浮かべて、芙柚の髪を撫でる。
「うん。兄貴の言う通り、芙柚は可愛い」
「やったー!」
芙柚はそう言ってバンザイをすると、穂高の首に抱きついて頰にキスをした。
「ああっ!」
真帆の口から、うっかり大人げない声が漏れる。そんな、ひどい。私もまだしたことないのに。
慌てて口元を押さえて、誤魔化すように咳払いをした。穂高はおませな姪の行動に呆れた顔をしている。
「ったく……どこで覚えてきたんだか」
「ママがいつもパパにしてるもん」
「それはあんまり聞きたくなかったな」
「……芙柚。そういうことは、家族以外にはしたらダメだぞ」
伊織はさすがに気まずそうにしている。芙柚は澄ました顔で、「はあい」と良い子の返事をした。
芙柚はかなりの美少女だし、五歳にしてこんな小悪魔仕草を身につけてしまっては、将来が少し心配になる。星の数ほどの男の子を泣かせる羽目になるんじゃないだろうか。
「芙柚ちゃん、モテるでしょうね」
「そうなのよー! ご覧の通り、私に似て可愛いでしょ? こないだ保育園の……えーと、ナントカくんにプロポーズされたのよね」
「カイトくんだよ。でもカイトくん、あすなちゃんにもプロポーズしてたの」
それは酷い話だ。二股男は死すべきである。
真帆はなんだか身につまされて、「ひどいね」と自分ごとのように憤ってしまった。穂高も眉間に皺を寄せている。
「最低だな。プロポーズは本当に好きな人以外にはしたらダメなんだぞ」
(それは、一体どの口が言ってるんですかねえ)
正論だけれど、親への反抗心のために、好きでもない女にプロポーズして結婚した男が言うべきセリフではない。真帆は無言のまま、夫をじろりと横目で睨みつけた。
プロ顔負けの料理に舌鼓を打って、千明が三本目のボトルを空けたところで、伊織が立ち上がった。
「そろそろケーキ食べるか。……真帆さん、ちょっと手伝ってくれる?」
「はい」
伊織と真帆は意味ありげに目配せを交わし合い、キッチンへと向かう。冷蔵庫を開けて、中から生クリームといちごがたっぷりの乗ったデコレーションケーキを取り出した。
(……大丈夫。ちゃんと火は通ってるはずだし、見た目だって悪くない)
これは正真正銘、真帆が穂高のために作ったケーキである。
真帆は伊織に頼み込んで、少し前からケーキ作りを教えてもらっていた。伊織はなかなかにスパルタで、適当に分量を測る真帆に対して「菓子作りは計量が命なんだから、目分量で測るな!」と怒鳴りつけた。あのときの伊織には元ヤンの片鱗があったな、と思い出して身震いをする。
特訓の甲斐もあり、ケーキはなかなか上手にできたと思う。食べた夫が腹を壊すなんてことは、おそらくないはずだ。それでも過去のトラウマが頭をよぎって、真帆の背中には冷や汗が流れた。
不安げな真帆の様子に気付いたのか、伊織が励ますように声をかけてくれる。
「大丈夫、ちゃんとできてるよ。初めてにしては上出来だ」
「実は二回目なんですけどね……一回目は失敗したんです」
誕生日ケーキを手作りしようと思ったきっかけは、ささやかなことだ。
ふとした雑談の際に、穂高が「真帆は料理上手だけど、菓子とかはあんまり作らないよな」と言った。そのとき真帆は、かつての失敗エピソードを彼に話したのだ。
「俺も食べてみたいな。真帆の手作りケーキ」
穂高がそう言うので、軽く「いつかね」と流そうとして――はっとした。
(その「いつか」が絶対に来る保証なんて、ないんだ)
真帆は結局、二度と父に手作りケーキを食べさせてあげることはできなかった。今だったらきっと、もう少しまともなものを作ってあげられただろうに。
そのとき真帆は、穂高の誕生日には絶対にケーキを作ってあげよう、と心に決めたのだ。
ケーキをお皿に乗せて、イチゴの隙間に蝋燭を立てる。長いものが二本、短いのが七本。蝋燭に火をつけると、伊織がリビングの照明を消した。
「……誕生日おめでとう。穂高」
落とさないように気をつけながら、真帆は穂高の目の前におっかなびっくりケーキを置く。ゆらめく炎に照らされた夫の顔は、やっぱりものすごくかっこいい。
「ねえねえ! ふゆもふーってしていい?」
「わかった。じゃあ一緒に消そう」
穂高は芙柚と一緒に、ふーっと息を吹きかけて蝋燭を消した。部屋が真っ暗になって、千明が「おめでとうー!」と大きな拍手をする。伊織が再び、リビングの電気を点けた。
「豪華なケーキだな。美味そう」
「それ、真帆さんが作ったんだぞ」
「やっぱり? 最近兄貴とコソコソしてるみたいだから、そうじゃないかなと思ってた」
「……穂高って、サプライズのしがいがないよね。嘘でもいいから驚いたふりしてよ」
真帆が拗ねたように唇を尖らせると、穂高は「悪い」と口元に笑みを浮かべる。伊織が切り分けてくれたケーキを、「いただきます」と言って口に運んだ。
生クリームの乗ったスポンジが夫の口に入るのを、真帆は固唾を飲んで見守っていた。穂高はすぐにこちらを向いて、「美味い」と言ってくれる。
「ほ、ほんと? 生焼けじゃない?」
「全然。スポンジがフワフワで美味しい。生クリームの甘さもちょうどいい」
「よかった……」
穂高は優しいが、お世辞は言わないタイプだ。きっと本当に美味しいと思ってくれているのだろう。真帆はほっと胸を撫で下ろした。
真帆もフォークを手に取り、スポンジと生クリームをすくってぱくりと頬張る。うん、ちゃんと美味しい。これならお腹を壊さずに済みそうだった。
「真帆。今日、ケーキ作ってくれてありがとう」
二人で帰宅し、真帆がソファでのんびりくつろいでいると、風呂から出てきた穂高が言った。まだ少し濡れた髪のまま、真帆の隣によいしょと腰を下ろす。
「ううん。伊織さんが作った方がきっと美味しかったんだろうけど」
「そんなことないよ。俺が今まで食ったケーキの中で一番美味かった」
穂高はそう言って、真帆の頰にそっと手を伸ばしてくる。耳を撫でるように動く指がくすぐったくて、真帆は軽く身じろぎをした。
最近の彼はまた、こうして真帆に触れてくるようになった。真帆も多少は耐性がついたのか、ドキドキはするけれど、心臓が壊れそうな思いはせずに済んでいる。
「……こんな風に、家族に誕生日を祝ってもらえる日がくるなんて思わなかったな」
「え?」
「ガキの頃から、誕生日パーティーなんてしたことなかった。今までは誕生日なんて、どうでもいいと思ってたよ」
穂高の指が、真帆の頰に埋まる。彼の左手の薬指に嵌まったプラチナの感触が硬くて、ほんの少し冷たい。
「真帆と結婚してから、いいことづくめだ」
「そんなの、こっちのセリフだよ」
穂高と結婚してから、毎日が楽しくて幸せだ。父が死ぬ前みたいに、笑ったり泣いたり怒ったりできるようになった。全部、穂高のおかげだ。
(私、ちょっとでも穂高にお返しできてる?)
一方的に励まされて、助けられてばかりで。真帆は少しでも、穂高の力になれているだろうか。どうにも自信がない。
真帆はリビングの壁にかかった時計をチラリと横目で見る。二十三時を少し回ったところだ。穂高の誕生日が終わるまで、あと一時間もない。
「あの、穂高」
「ん?」
「その、妻として……私、穂高にもっと何かしてあげたいんだけど……何がいいかな?」
真帆の唐突な申し出に、穂高は「え」と目を丸くした。真帆は膝の上でぐっと拳を握り締め、続ける。
「私、いつも穂高にもらってばっかりだから。誕生日ぐらいは、もっと何かしてあげたい」
「いや、俺も充分すぎるぐらいもらってるけど……」
「そんなことない」
食い下がる真帆に、穂高はうーんと腕組みをして考え込む様子を見せた。何事も即断即決な彼にしては珍しく、結構悩んでいるようだ。真帆が焦れ始めた頃、ようやく口を開く。
「じゃあ、キス」
「へ!?」
予想外のおねだりに、真帆はソファからずり落ちそうになった。真帆の反応を気にした様子もなく、穂高はしれっと続ける。
「今日、芙柚がしてただろ」
「え? あ、ああ……ほっぺたにね」
「家族なんだから、俺と真帆はしていいと思う」
真面目くさった顔で言われると、それもそうだな、という気持ちになってきた。穂高の言葉には不思議な魔力がある。やはり営業向きなのかもしれない。
(そうだよ。家族なんだから……夫婦なんだから、別に何もおかしいことなんてない)
そう自分に言い聞かせながら、穂高の肩に手を置いた。そのまま、そっと頰に唇を押し当てる。ちゅ、という軽いリップ音が鳴って、なんだか羞恥心を掻き立てられた。
真帆は真っ赤になっているというのに、キスをされた穂高は平然としている。なんだか悔しい。
もじもじと俯いたままでいると、穂高が甘えたような声でねだってきた。
「もっかい」
(……仕方ない。誕生日の人には逆らえまい)
心の中でそんな言い訳をして、本当は自分がしたいだけでしょう、なんて内なる反論に耳を塞ぐ。もう一度夫の頰に短いキスをして、最後に「誕生日おめでとう」と囁いた。