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35:一番安心できる場所

 穂高が向かったのは、駅前にある昔ながらの喫茶店だった。古めかしい雰囲気はあるが、レトロを気取るには少々お洒落さがちょっと足りない。

 店内に客はまったく入っておらず、カウンターでは店主が暇そうに突っ立っている。真帆たちにとっては都合がよかった。

 穂高は奥にあるボックス席に慎太郎と美月を座らせてから、自分はその正面に腰を下ろした。真帆は穂高の隣に座る。

 穂高は誰の希望を聞くこともなく、アイスコーヒーをよっつ注文した。愛想のない店主はコーヒーを持って来ると、さっさとカウンターの向こうへ戻ってしまう。


「あんたらとお茶をしに来たわけじゃないんだ。ゆっくり話し合うつもりはない。さっさと本題に入ろう」


 穂高はそう言って、革のビジネスバッグから一枚の紙を取り出した。縮こまっている慎太郎と美月に向かって、すっとそれを突きつける。


「今後一切真帆に近づかないという誓約書だ」


 穂高の行動に驚いたのは真帆の方だった。いつのまに、こんなものを用意していたのだろうか。やはり夫は用意周到な段取りの鬼だ、と感心してしまった。


「署名しろ。もし応じないなら、警察に行ってあんたらに警告を出すよう申し立てをする」


 警察、という言葉に、二人の顔色がさっと変わった。


「そんな。あたしたち、真帆に危害を加えようとしたわけじゃありません」

「大袈裟な。警察って、そこまでのことじゃ」


 二人の反論を遮るように、ゴン、と鈍い音が響く。穂高が拳をテーブルに叩きつけたのだ。グラスに入ったアイスコーヒーが、振動でゆらゆらと揺れる。

 驚いて見つめた夫の横顔は、驚くほどの剣幕だった。


「下手に出てりゃ許されるとでも思ってんのか?」


 穂高の声は地を這うように低く、周囲にビリビリと緊張した空気が漂う。正面から、ひっと息を飲む声が聞こえた。


「そこまで、ってなんだよ。あんたらがやったことは、それだけのことだろうが。もしも笑って許してもらえると思ってたなら、真帆の痛みを安く見積りすぎだ」

「……で、でも真帆は。俺たちのこと、一度も責めたりしなかった」

「真帆が怒らなかったから? 何も言わずに別れたから? 泣いて喚かなかったから、傷ついてないとでも思ってるのか。ふざけんなよ。馬鹿にするのもいい加減にしろ」


 穂高は鞄の中から、紺色の封筒を取り出した。二人が送りつけてきた、結婚式の招待状だ。それを見せつけるように、二人の眼前でひらひら振ってみせる。


「ご丁寧に、こんなもん送りつけてきやがって。ここにはあんたらの住所も名前も書いてある。本気で調べようと思えば、実家も勤務先もすぐにわかる。真帆が受けた仕打ちを、あんたらの家族や職場に言って回ることだってできるんだ」


 穂高の言葉に、二人の顔がみるみるうちに青ざめる。美月は瞳に涙を浮かべて、縋るように言った。


「そ、そんなひどいこと……や、やめてください」

「あんたらがしたことの方がよっぽど非道だろうが。そういうことを少しも想像しない時点で、真帆のことを軽んじすぎなんだよ。言っとくけど、俺は真帆ほど優しくないぞ」


 上手に怒れない真帆のために、穂高はいつも憤ってくれる。ずっと見て見ぬふりをしてきた、彼らに傷つけられてずたぼろになっていた自分に、穂高は優しく手を伸ばしてくれる。自分の感情に素直になって、怒ったり泣いたりしてもいいんだって、言ってくれる。


(ここに穂高がいてくれて、よかった)


 真帆はテーブルの上にあるアイスコーヒーに手を伸ばし、ごくごくと飲み干した。勢いよくグラスをテーブルに叩きつけると、慎太郎と美月は揃ってビクッと肩を揺らす。短く息を吸ってから、口を開いた。


「……私、あなたたちのこと一生許さない。絶対に祝福なんてしてやらない。私を裏切ったこと、ずっと悔やみ続けてほしい。永遠に呪い続けてやる」

「ま、真帆……」


 慎太郎の唇は青ざめ、驚くほどに情けない表情を浮かべていた。こんな男のことを一時でも好きだったなんて、今となっては信じられないことだ。

 それでも、好きだった。慎太郎のことも美月のことも、大事な人だと思っていたし、信頼もしていた。それを手酷く裏切ったのは向こうなのだから――許さないことぐらいは、許されるはずだ。


「でも、それにサインして、二度と私に関わらないって約束してくれるなら、あなたたちの仕打ちを言いふらしたりしない」


 真帆が言うと、美月が恐る恐るボールペンに手を伸ばし、震える手で署名をする。「慎ちゃんも」と手渡されたボールペンを慎太郎が受け取り、項垂れたままサインをした。

 穂高は二人から誓約書を奪い取ると、ざっと内容を確認する。ビジネスバッグにそれを突っ込むと、真帆の手を取って立ち上がった。


「帰ろう、真帆」

「うん。……待って。あと、ひとつだけ」


 真帆は足を止めると、呆然と座ったままの二人にくるりと向き合う。


「私、ひとつだけ二人に感謝してることがあるの」


 二人が揃って顔を上げる。何かを期待するように、瞳の奥に僅かな光がともる。


「私、あなたたちに裏切られたおかげで、最低の男と別れられて、世界一素敵な人と結婚できた。ありがとう」


 できるだけ冷たく、残酷な声の響きになるように意識しながら、真帆は言った。


「最低な者同士、どうぞおしあわせに」


 慎太郎が項垂れる。美月は上目遣いにこちらを睨みつける。その目つきには、決してか弱いだけではない色が浮かんでいる。真帆はそれを真正面から受け止めた。

 真帆は背筋を伸ばして、一度も振り返ることなく店を出る。何かに耐えるようにぐっと下唇を噛み締めている真帆の手を、穂高は何も言わずに握りしめていてくれた。




 地下鉄に乗って自宅マンションに帰った頃には、もう二十二時近かった。

 こんなにも疲弊しきっているのに、まだ今日は木曜日だ。明日も仕事に行かなければいけないなんて信じられない。

 いろんなことがありすぎて、完全にキャパオーバーだ。へなへなとリビングの床にへたり込んだ真帆に、穂高が慌てて駆け寄ってきた。両手で優しく頰を包み込まれて、心配そうに顔を覗き込まれる。


「……泣いてる?」


(ああ、やっぱり穂高にはバレてた)


 穂高の前では虚勢なんて通用しない。本当は、泣きたいのを我慢していたのだ。彼らに裏切られた、一年前からずっと。

 ぐっと下唇を噛み締めると、ぽろっと涙が一粒こぼれる。それをきっかけにして、ダムが決壊したように涙がボロボロ溢れ出した。穂高はぎょっとしたように目を見開く。


「真帆……」

「……く、くやしい」

「え?」

「や、やっぱり、あの二人のこと一発ぐらい殴ってやればよかったあ……!」


 あんな程度じゃ、到底腹の虫が治らない。全部許して祝福してほしいだなんて、どの口が言うの。二人の雁首を並べて、五往復ぐらい横っ面を張ってやりたかった。もっともっと、持ちうるボキャブラリーを駆使して口汚く罵ってやりたかった。

 わあわあと子どものように泣き出した真帆の頭を、穂高は子どもをあやすように撫でてくれる。


「……それって悔し泣き? 怒り泣き?」

「……どっちも!」

「じゃあ、悲しくて泣いてるわけではないんだな?」

「うん……」


 穂高の問いに真帆は頷く。涙と鼻水でメイクが落ちて、ぐちゃぐちゃになっている真帆の顔を見て、穂高はほっと息をつく。


「……ちょっと安心した」

「な、なんでえ」

「ずっと泣きそうな顔してるから、俺はてっきり、真帆がまだあいつに未練があるのかと」

「ないよ、そんなの! あるわけない! ろくでもない最低の男だし、別れてよかったって心の底から思ってる!」


 大声で言い返し、キッと穂高を睨みつけると、「わかったわかった」と宥めるような口調で言われた。


「真帆、そんなに大きな声出たんだな」

「……うん……自分でもびっくりした……」

「相当怒ってたんだな。もしそれでスッキリするなら、代わりに俺のこと好きなだけ殴ってもいいぞ」


 そう言って穂高は、無抵抗の意を示すように両手を上げてみせた。

 穂高のことを殴るなんて、そんなことできるはずがないし、したくもない。真帆はそのまま、彼の胸の中に勢いよく飛び込む。


「……ま、真帆?」


 頭の上から戸惑った声が聞こえたけれど、構いやしない。背中に腕を回して、ぎゅうっと力いっぱい抱きつく。彼のシャツに涙で落ちたメイクがついてしまうかもしれないけれど、今度クリーニングに出すことにしよう。

 がっしりとした胸板に頬擦りをする。穂高の体温は真帆のそれよりも高くて心地良い。彼の温度も、匂いも、感触も、すべてが真帆の心を癒してくれる。


(……本当はずっと、こうしてほしかった)


 元彼への未練なんて、あるはずがない。真帆にとって誰よりも大切な、大好きな人は、今目の前にいる夫なのだ。他の人が入る余地なんて、あるはずもない。

 穂高はしばらく両手を上げたまま、うろうろと視線を彷徨わせていた。しかしやがて真帆の耳元に唇を寄せて、低く囁いてくる。


「こないだ俺、不用意に触らないって言ったよな」

「……言った」

「今から、約束破るけど……もう避けたりすんなよ」


 真帆がこくりと頷くが早いが、きつく抱きしめられた。

 思っていたよりも力が強くて苦しいけれど、離してほしくない。甘い手つきで髪を撫でられて、真帆は心地良さに目を閉じた。


(……やっぱり、好き。穂高のことが大好き)


 必死で押さえ込んでいたはずの恋心が、再び殻を破って飛び出してしまう。彼への想いはほんのささいなきっかけですぐに溢れ出して、どんどん大きく膨らんでいく。もう、手がつけられないくらいに。


 それから穂高は真帆が泣き止むまで、ずっと抱きしめていてくれた。逞しい彼の腕の中は温かくて安全で、真帆にとって一番安心できる場所なのだ。

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