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34:残酷な贖罪

 元彼が職場にやって来たらしいことを、真帆は穂高に話すべきか悩んだ。夫に余計な心配をかけるだけなのでは、と思ったのだ。

 しかし考えた結果、念のために伝えておいた方がよいだろうと判断した。まさか家の住所は割れていないとは思うが、ここまで押しかけて来る可能性だってゼロではない。そうなれば、穂高にも迷惑がかかるかもしれない。


 夕飯を食べながら、真帆は「ちょっと相談なんだけど」と切り出した。深刻そうな空気を察したのか、穂高は手を止めてこちらを向く。


「どうした」

「……今日、元彼が私の職場まで来てたみたいなの。顔は合わせてないんだけど、私のこと探してたらしくて」


 穂高の顔が、みるみるうちに険しくなっていく。こういったストレートに怒りを露わにする表情は、中学時代によく見たものだな、と場違いに懐かしい気持ちになった。


「たぶん大丈夫だと思うけど、一応伝えとく」

「大丈夫じゃない。充分異常事態だろ。別れた相手の職場まで押しかけてくるなんて、どう考えてもおかしい」


 穂高は眉間に皺を寄せながら、腕組みをして何事か考え込む。ややあってから、口を開いた。


「向こうは真帆の職場を知ってるんだな。ここの住所は教えてないよな?」

「たぶん……どこかから漏れてない限りは、バレてないと思う」

「一応、俺の方も気をつけておく。他にも何か変わったことがあったら、すぐに連絡してくれ」

「……うん、わかった」


 特に事態が好転したわけではないけれど、穂高に相談しただけで、胸のつかえが取れたような気がした。何かあったときに、頼れる人がいるのは幸せなことだ。もしも真帆一人だったら、もっと不安になっていただろう。

 真帆以上に真剣な表情で考え込んでいる夫を見つめながら、やっぱり穂高と結婚してよかったな、としみじみと噛み締めた。




 翌日、真帆は戦々恐々としながら出社したものの、始業時間が始まると、元彼のことを考えるどころではなくなった。

 どうやら自社商品と連携しているアプリに深刻な不具合が発生したらしく、朝から問い合わせが殺到していた。真帆はメールやチャットの対応に奔走しつつ、オペレーターだけでは捌ききれない電話のフォローも行い、目も回る忙しさだった。目の前に未決案件が積み上がっていくたびに、気が遠くなる。いつもはのらりくらりとサボっている會澤課長でさえ、慌ただしく仕事に追われているようだった。


 本日中に終わらせなければいけない仕事をどうにか片付けて、とりあえず帰れる状態になったのは二十時前だった。隣の席の高瀬も、ぐったりと疲れた様子で机に突っ伏している。


「あー、つっかれた……早く帰って娘に会いたい……」

「……高瀬主任にとって、娘さんって癒しなんですねえ」

「まあね。どんなに疲れてても、娘の顔見たら元気出てくるんだよ。不思議だよなあ……」


 高瀬は立ち上がると、よろめきつつも「じゃあ、おつかれさん」と足早に帰っていく。辛いときに家族の顔が見たくなる気持ちは、今の真帆にはよくわかる。


 疲弊しきって魂の抜けている課長に挨拶をしたあと、真帆もフラフラとエレベーターへと向かう。今日の帰宅時間は穂高と同じぐらいになるかもしれない。時間が合えばどこかで外食でもしようかと考え、穂高にLINEを送った。


『今仕事終わりました』


 まだ仕事中なのか、既読はつかない。スマホをバッグの中にしまいこんで、エントランスを抜けて出口へと向かう。いつもの守衛の姿はなく、年配の男性がぼんやりと突っ立っているのが見えた。「お疲れ様です」と声をかけたが、チラリと視線を向けられただけで返事はなかった。

 駅に向かおうと歩き出したそのとき、背後から声をられる。


「真帆」


 それはかつては何度も真帆に愛を囁いていた、聞き間違えるはずもない人の声だった。真帆の足はその場に縫い止められたように動かなくなる。

 黒髪を揺らしてゆっくり振り向くと、そこに立っていたのはかつての恋人と――その浮気相手の姿だった。


「慎太郎……美月……」


 一体いつから、ここで待ち伏せしていたのだろうか。今日の守衛は追い返してくれなかったのか。いつもの守衛はきちんと自分の仕事をしてくれていたのだなと、いまさらのようにありがたく感じた。


「真帆、久しぶりだね……会いたかった」


 ふわふわのロングヘアを揺らし、美月は瞳に涙を滲ませながら言った。相変わらず、誰もが守りたくなるような、華奢で儚げで健気な容姿をしている。真帆を裏切ったそのときも、まるで悲劇のヒロインのような顔で美しい涙を流していた。

 二人は悲しげに表情を歪めたまま、互いを支え合うように寄り添っている。よくもまあ、仲良く揃って真帆の前に顔を出せたものだ。真帆は掠れた声で「何しに来たの」と吐き捨てた。


「ごめんなさい……あたしたち、真帆に謝るためにここに来たの」


 慎太郎に肩を抱かれながら、美月が言う。

 謝罪の言葉なら、もううんざりするほどに聞いた。これ以上、何を言うことがあるというのか。訝しげな表情を浮かべる真帆に構わず、美月は続けた。


「慎ちゃんと結婚して、さあこれから幸せになろうってときに……どうしても、真帆への申し訳なさだけは拭えなかった」

「二人で将来の話してるときも、ふっと真帆のことが頭をよぎるんだ。俺たちの幸せは、真帆をどうしようもなく傷つけたうえで成り立ってるんだよなって」

「亜佑美とか……他の子たちも、あたしたちの事情を知ってる人たちは、祝福なんてしてくれない。わたしたちは一生、真帆を傷つけた罪を抱えて生きていかなきゃいけないんだって、思い知らされた」


 美月の頰から、ぽろりと涙が溢れる。それを拭うこともなく、彼女ははらはらと涙を流しながら首を垂れる。メイクは少しも崩れない。どこのマスカラ使ってるんだろう、なんてことをぼんやり考える。


「ごめんね。酷いことしたってわかってるけど、許してほしい。あたしは今でも真帆のこと大事な友達だと思ってるの」

「真帆に許してもらえたら、一言おめでとうって言ってもらえたら……そしたら俺たち、そのときようやく幸せになってもいいって、思える気がする」


 あまりにも身勝手な言い分に、真帆は絶句した。

 要するに彼らは――自分たちが気持ちよく幸せになるために、真帆に会いに来たのだ。たとえ形だけのものであっても、真帆に〝許された〟という免罪符が欲しくて、ここにやって来た。

 真帆が呆然としていると、慎太郎は両膝をついて、額を地面に擦りつけんばかりに頭を下げた。


「真帆、ほんとにごめん! 俺のことはいい。でも、美月のことだけでも許してやってくれないか。美月は本当に悪くないんだ。俺が、弱かっただけで……」

「慎ちゃん、やめて。悪いのはあたしだよ」


 土下座をする慎太郎の傍で、美月は両手で顔を覆う。一体何の茶番なんだ、と真帆は庇い合う二人を冷めた目つきで眺めていた。

 行き交う人たちが、真帆たちに好奇の視線を向けては立ち去っていく。何も知らない人から見ると、真帆の方が悪人に見えるかもしれない。ここは職場の目の前だし、きっと知り合いも通りかかるだろう。早急に事態を収めなければならない。

 口先だけでも、一言真帆が許すと言えば、この二人は満足するだろう。今まで抱えてきた罪悪感を払拭して、幸せな結婚生活への第一歩を踏み出せるのだ。


(……私、この人たちのこと許さなきゃいけないの?)


 ぐっと拳を握りしめる。改めて二人を目の当たりにすると、これまで押さえつけていた怒りがふつふつと湧き上がってきた。


(馬鹿にしないでよ。私があのとき、どんな思いをしたと思ってるの)


 よっぽど怒鳴りつけてやろうかと思ったけれど、罵声は喉にひっかかったまま、ひゅうっと細い息が漏れただけだった。言いたいことはたくさんあるはずなのに、やっぱり上手に怒れない。

 真帆は握りしめた拳を、ゆっくりと解いた。

 もう諦めよう。心にもない言葉であっても――おめでとう、と言うだけだ。

 そんなに難しいことじゃない。所詮は口先だけのことだ。それでこの場が丸く収まるなら、それでいい。今までもそうやって、自分の感情を押し殺してきた。それは楽な生き方なのかもしれない、けれど。


(でも、それじゃああんまりにも、私が可哀想だ)


 怒りや悲しみを自分の内側に飲み込んだところで、消えてなくなるわけじゃない。彼らに裏切られてからずっと、自分の一部分が怒り狂って泣き叫んでいた。それを見て見ぬ振りしてきただけだ。

 ゆっくりと息を吸い込む。さっさと終わらせて穂高と美味しいものでも食べよう、と思いながら、口を開いた。そのときだった。


「真帆!」


 ぐい、と背後から肩を掴まれた。えっと思った瞬間には、背広の背中が目の前に現れる。真帆を庇うように彼らの目の前に立ち塞がったのは、紛れもない夫の姿だった。


「穂高……」


 真帆が唖然と名前を呼ぶと、穂高は目線をこちらに向けて、大丈夫だとばかりに力強く頷いてくれる。


「はじめまして。真帆の夫です」


 穂高は仮面のような笑みを貼りつけると、慎太郎の腕を掴んで立たせる。表情に似つかわしくなく、かなり乱暴な手つきだった。

 慎太郎は穂高をまじまじと観察したあと、真帆に向かって尋ねた。


「ま、真帆……結婚してたのか」

「今はそんな話どうだっていいだろ。うちの妻の職場の前で、何やってんだ」


 途端に怖い顔になった穂高は、ぴしゃりと言い放つ。鋭い眼光でギロリと睨まれて、慎太郎は青ざめ、美月は怯えたようにびくっと肩を揺らした。


「真帆、大丈夫か」

「う、うん」

「場所を変えよう。悪いけど、ちょっとついて来てくれ」


(……穂高が、来てくれた)


 穂高の顔を見た途端に、ほっと身体中の力が抜けて、温かな安心感が湧き上がってくる。おそるおそる手を伸ばして、彼のジャケットの袖をぎゅっと握りしめた。

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