33:元彼からの招待状
それから真帆はおよそ一ヶ月かけて、夫への恋心を押さえ込もうと努力した。
こっそり隠し撮りした穂高の写真と睨めっこして、ときめかないように特訓した。うっかりときめいてしまったときにも、顔には出さないように努力した。もともと、ポーカーフェイスは得意なのだ。
穂高の方もあまり真帆に触れてこなくなったので、不意打ちの言動に動揺させられる回数は格段に減った。真帆の方が「もうちょっと触ってくれてもいいのに」とヤキモキすることもあったが、口にする勇気はなかった。自分から踏み込む覚悟もないくせに、そんなことを言うべきではない。
二人の努力の甲斐もあり、五十嵐夫婦の関係は――ほんの少しのぎこちなさを孕みつつも――晴れて元通りになった。
パンプスの踵がアスファルトを叩いて、コツコツと軽い音を立てる。頰を撫でる空気はひやりと冷たく、すっかり気候が秋めいてきた。昼間はまだ暖かいけれど、日が暮れると気温が格段に下がる。十月も半ばになり、真帆はようやく段ボールから秋冬ものの衣類を引っ張り出してきた。
最寄り駅から自宅へと向かう道には、金木犀の芳しい香りが漂っている。実家の近くにも金木犀が咲いていたことを思い出して、真帆は懐かしい気持ちになった。
(そういえば、お父さんがこの匂い好きだったなあ)
かつて父と手を繋いで歩いた帰り道を思い出して、鼻の奥がツンとした。
しまった。穂高に泣かされたあの日から、ずいぶんと涙腺が弱くなった気がする。
真帆は慌てて上を向いて、こみ上げてくる涙を飲み込んだ。
マンションのオートロックを解除すると、いつものように郵便受けを確認する。DMやチラシに混じって、封筒が入っていた。紺地に金の箔押しが美しい、やたらと豪華な封筒だ。
宛先は〝大汐 真帆様〟となっていた。住所も、真帆が以前住んでいたところになっている。転送届を出しているため、ここに届けられたのだろう。親しい友人には結婚したことも新住所も伝えたはずだが、一体誰だろう。
封筒を裏返し、差出人を確認した真帆は息を飲んだ。
〝武塚 慎太郎・美月(旧姓・沢田)〟
忘れもしない。五年間交際していた元彼と、かつての友人である浮気相手の名前だった。
おそらく間違いなく、結婚式の招待状である。とうとう結婚したのか、という妙な感慨のあと、ムカムカと腹立たしさが襲ってきた。
部屋に帰るなり、真帆は招待状を破り捨てようとした。しかし硬質な紙は意外と頑丈で、両手で力いっぱい頑張っても、皺が入っただけで破ることはできなかった。渋々、リビングのゴミ箱へと放り込む。
夕飯の支度をする気にもなれず、真帆はそのままソファへと倒れ込んだ。
(……一体どういうつもりで、こんなものを送りつけてきたんだろう)
真帆は慎太郎と別れてから、一度も連絡を取っていない。登録していた連絡先は削除し、着信拒否をした。美月に対しても同様だ。正直なところ、顔も見たくない、という心境だった。
そのとき、テーブルの上に置いているスマートフォンが鳴り響いた。手に取って見ると、大学時代の友人からの着信だった。受話ボタンをタップして、「はい」と電話に出る。
「あ、真帆ちゃん? 亜佑美です。突然ごめんね」
「ううん。どうしたの?」
中川亜佑美とは大学時代にゼミとサークルが同じで、もっとも親しい友人だった。卒業後は就職して地元に帰ってしまったが、今でも仲良くしている。大学の友人たちとは、慎太郎と別れてからなんとなく疎遠になってしまったが、亜佑美との縁は切れなかった。穂高と結婚したことも、亜佑美だけには報告していたのだ。
亜佑美は慎太郎と美月のことも、よく知っている。慎太郎の浮気が発覚したときには、おとなしい亜佑美が鬼のように怒り狂っていたことを覚えている。亜佑美に限らず、共通の知り合いは皆真帆に同情的だった。
「あんまり楽しい話じゃないんだけど、言っておいた方がいいと思って。……このあいだ、美月から真帆ちゃんの連絡先聞かれたの」
「え」
「もちろん、教えなかったよ。でも、なんだか連絡取りたそうにしてたから……気をつけた方がいいと思って」
「……そういえば、結婚式の招待状届いてた。あの二人、結婚するんだね」
真帆が言うと、亜佑美は「は!? なにそれ、信じられない」と語気を強める。
「真帆ちゃんにそんなもの送りつけるなんて、どのツラ下げて、って感じだよね。わたしにも届いてたけど、絶対行かないって言ってやった。たぶん、真帆ちゃんのこと知ってる子は全員出席しないと思うよ」
亜佑美の話を聞きながら、真帆は溜飲が下がるのを感じた。披露宴での空っぽの友人席を想像すると、なんだか胸のすくような思いがする。どうかあの二人の結婚ができるだけ祝福されませんように、なんてことを考えるのは、ちょっと性格が悪いかもしれないけれど。
それから真帆と亜佑美は雑談を交わし、「そのうち真帆ちゃんの旦那さんにも会わせてね」なんてことを言われながら、電話を切った。思いのほか長電話になってしまったので、慌てて夕食の支度に取り掛かる。
凝ったおかずを作る時間も気力もなかったため、夕飯は手抜き丸出しの焼きうどんになった。それでも穂高は、美味しいと言って食べてくれた。
夕飯のあとにソファで読書をしていると、風呂上がりの穂高がバスタオルを肩にかけたままリビングへとやって来た。右手には、紺色の封筒を持っている。
「これ、ゴミ箱に捨ててあったけど。返信しなくてもいいのか? 結婚式の招待状だろ」
どうやら、真帆が捨てたものをご丁寧に拾ってきてくれたらしい。真帆は唇の片側を歪に上げると、「いいの」と答える。
「捨てておいて。元彼と、その浮気相手からの招待状だから」
「……どういうこと?」
穂高は露骨に不愉快そうに、表情を歪める。真帆の隣に腰を下ろしたので、真帆は栞を挟んで読んでいた本を閉じた。
「つまらない話だよ。大学時代から五年近く付き合ってた彼氏が、私の友達と三年以上浮気してたんだ」
「……はあ?」
「私が仕事終わって帰ってきたら、恋人と友達が私の部屋をホテル代わりにして、私のベッドでセックスしてたの」
今でも鮮明に思い出せる。いつも真帆が眠っているベッドが軋む音も、友人の聞いたことがないような甘ったるい声も。真帆と目が合った瞬間の、二人の愕然とした表情も。こんなにも地獄のような光景がこの世にあるのだなと、当時の真帆は思ったものだ。
「すっぱり別れて、連絡も取ってなかったんだけど……いきなりそんなもの、送りつけられた」
「なんだよ、それ。酷い話だな。吐き気がする」
真帆の話を聞いた穂高は、まるで自分ごとのように憤ってくれる。亜佑美もそうだが、真帆の代わりに怒ってくれる人がいるのはありがたいことだ。
豪華絢爛な封筒をじっと見つめていた穂高は、「一応、中身確認してもいいか」と尋ねてきた。
「構わないけど、どうして」
「……変なものが入ってないとも限らないだろ。盗聴器とか、GPSとか」
夫の言葉に、真帆は目を丸くした。そんな物騒なこと、考えもしなかった。恨みこそすれ、こちらが恨まれる筋合いはまったくない。
「ど、どうして。あの二人にそんなことするメリットないよ」
「念の為だよ。訳の分からない理由で逆恨みされることなんて、いくらでもあるだろ」
穂高はそう言って、カッターで封筒を切って、中身を取り出す。結婚式の招待状と式場までの交通案内、返信用のハガキ。それと一緒に、びっしりと文字の書かれた便箋が二枚入っていた。それ以外に、妙なものは入っていない。
「読んでもいいか」
便箋を手に取った穂高の問いに、真帆は頷いた。
彼はしばらく黙って文字を追っていたが、どんどん表情が険しくなっていく。やがて大きな溜息をついて、「気分が悪い」と呻いた。読む気はなかったけれど、多少中身が気になった。
「……事情はだいたいわかった。ろくでもない奴らだな」
「何て書いてあったの」
「真帆は読まなくてもいい。二割は謝罪、八割は言い訳だ」
そう言いながら、穂高はぐしゃぐしゃと乱暴に便箋を丸めた。
「こいつら、真帆に許してほしいって言ってるぞ。酷いことをしたから謝りたい、できれば真帆にも祝福してほしいってさ」
「……」
真帆は下唇を噛み締めた。
絶対に許したくなんかない。自分を手酷く裏切った二人を、祝福なんてできるはずがない。あのときのことを思い出すと、じりじりと腹の底が焦げつくような気持ちになる。
黙りこくった真帆の顔を、穂高は心配そうに覗き込んでくる。「大丈夫か?」と尋ねる声は優しい。夫に心配をかけぬよう、真帆は笑顔を取り繕った。
「うん、大丈夫。一年も前の話だし、全然気にしてない」
「ならいいけど……でも、腹立つな」
「あんな奴、もうどうだっていいよ。今の私には、素敵な夫もいるし」
真帆の言葉に、穂高は珍しくやや照れたように頰を赤らめた。滅多に表情を変えない夫の照れ顔は、なかなかレアだ。写真でも撮って保存しておきたかったけれど、すぐにいつもの仏頂面に戻ってしまった。
一週間も経つ頃には、真帆の頭からは元彼からの招待状のことなど、すっかり抜け落ちていた。
端末の電源を落として、本日も無事退勤。帰り際に會澤課長が何か言いたげにしていたが、「明日でもいいことなら、明日にしてください」と言うと引き下がってくれた。なにかと仕事を押し付けてくる上司だが、こちらが毅然と断ると無理強いはしてこない。半年かけてようやく、課長のあしらい方がわかってきた。
エレベーターで一階まで降りて、エントランスを通って出口へ向かう。守衛に「お疲れさまです」と挨拶をすると、彼は「あっ」と声をあげた。
「五十嵐さあん! ちょっといいですか」
二度にも渡るトラブルにより、どうやら守衛に顔と名前を覚えられてしまったようだ。呼び止められた真帆はぴたりと足を止める。
「五十嵐さんの旧姓って、たしか大汐でしたよね」
「そうですが」
突然何を、と思いつつ真帆が頷く。守衛は「やっぱり」と小さく肩を竦めた。
「今日来てた男性が、大汐さんって方を探してたんですよ。もしかして、またあなたの知り合いじゃないかと思って」
「え?」
「ここで待つのはやめてください、と注意したら、あっさり帰って行きましたが……ほんとに次から次へと、あなたに会いに来る人が後を絶ちませんねえ」
ざわり、と嫌な予感で胸が騒いだ。今日ここに来ていたのは、夫でもなければ義父でもない。大汐真帆を探す人間は、おそらくそう多くはないはずだ。
「……もしかしてそれって、私と同世代ぐらいの……茶髪で、人の良さそうな男性ですか」
「そうそう! そうですよ! なかなか感じの良い人でしたね。なんだ、やっぱりお知り合いだったんですか」
守衛は明るく肯定したが、真帆の表情は強張った。おそらく真帆を探していたのは、元恋人である慎太郎だ。彼は真帆の職場を知っている。それにしたって、どうしてここまで押しかけてきたのだろうか。
「……あの。その人には会いたくないので、もし次また来たら、追い返していただけたらありがたいです」
「あっ、そうなんですね! 承知しました! すぐに追い返してやりますよ! 僕、明日休みですけど!」
お任せあれとばかりに、守衛が胸をドンと叩く。真帆は守衛に礼を言ってから、その場から立ち去る。
(もしかすると、まだこの近くにいるかもしれない)
そう考えると、背筋がぞくりと冷たくなる。目的がわからないだけに、余計に怖い。なんだか無性に穂高の顔が見たくなって、真帆は足早に駅へと向かった。