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32:飼い慣らせない恋心

 きっと今、恋をしている。

 恋とはふわふわと天に浮き上がるようなものではなくて、奈落の底にまっさかさまに落ちていくようなものなのだと、真帆は初めて知ったのだ。


 ゆっくりと瞼を開けた瞬間、アイドルの笑顔が視界に飛び込んできて、ビクッとする。数秒ののち、風花の部屋に泊めてもらったのだった、と思い出した。

 朝が弱いらしい風花は、けたたましいアラームが何度鳴っても目覚める気配がなく、本当に大丈夫なのかと心配になった。どうして耳元でこんなに爆音が鳴り響いているのに、呑気に寝ていられるのだろう。結局遅刻ギリギリの時間に起きた風花を急き立てながら、真帆は出社した。


 木曜日ということもあってか、問い合わせの電話やメールの量も落ち着いており、比較的平和な一日だった。真帆は仕事に没頭し、きっかり定時に業務を終えた。

 喜ばしいことではあるのだが、今から家に帰るのかと思うと、ちょっと緊張する。こんなときに限って、課長に面倒な案件を押し付けられることもなかった。

 帰り際、課長に「最近頑張ってるねえ。鬼気迫る雰囲気を感じるよ」と褒められ、真帆は曖昧に微笑んだ。

 突然仕事に目覚めたわけではなく、穂高のことを考えないために、日々の業務に打ち込んでいるだけだ。仕事に集中していると、余計な感情と向き合わずに済むのでよかった。


 地下鉄に揺られながら、真帆はぼんやりと過去の恋愛を思い出していた。

 とはいえ恋愛遍歴、というほどの大層なものはない。今までに異性と付き合ったのは、一年前に別れた元彼だけだ。大学のサークルが同じで、飲み会のあとの帰り道がたまたま同じで、「俺たち付き合おうか」と言われた。真帆は特別彼に惹かれていたわけではなかったけれど――ほんの少しだけ、父親に雰囲気が似ているという理由もあり――穏やかに交際が始まった。

 男友達の延長線上のような関係で、燃え上がるような大恋愛ではなかった。初めてのキスも、セックスも、驚くほど淡々と済ませた。

 元彼のことは(少なくとも、浮気が発覚するまでは)ちゃんと好きなつもりだったけれど、こんな風に前後不覚になることは一度もなかった。自分は恋愛に振り回されるタイプではないのだと、そう思っていたのに。


(……こんなに胸が痛くて苦しくなるような感情なんて、知らなかった。知らないままでいれば、今でも普通に……家族として、一緒にいられたのに)


 コツン、と車窓に額をぶつけて溜息をつく。ガラスに映った自分の顔は、今までに見たことがないような表情を浮かべていた。




 駅前のスーパーで夕飯の買い物をしてから、およそ一日ぶりの我が家へ帰宅する。駅から帰る道すがら、どこからともなくカレーの匂いが漂ってきた。今日は青椒肉絲を作ろうと思っていたのだけれど、突如としてカレーの舌になってしまう。明日は絶対カレーにしよう。

 見慣れた風景を横目に、自宅マンションに向かって歩いて行くと、なんだか不思議と心が安らぐ。旅行に行ったときも思ったけれど、なんだかんだで「我が家が一番だなあ」と感じるのは不思議なことだ。たかだか四ヶ月ほどしか住んでいない場所なのに。

 オートロックを解除して、エレベーターで七階に上がる。鍵を開けて中に入ったところで、再びカレーの匂いが漂ってくる。予想外に人の気配があって、ギョッとした。


「あ、真帆。おかえり」


 キッチンに穂高が立っていた。まだ帰宅していないだろうと高を括っていたのに、まさかもう家にいるとは。「ただいま」と答える声が裏返る。


「ほ、穂高、帰ってたんだ。早いね」

「今日は午後半休」

「晩ごはん作ってくれたの? ありがとう」

「悪い、伝えるの忘れてたな。もしかして買い物してきた?」

「大丈夫。明日にするよ」

「カレーだけどいいか?」

「うん。ちょうどカレーの口になってたところ」

「まじか。以心伝心だな」


 穂高が嬉しそうに口角を上げたので、真帆もなんだか嬉しくなる。

 彼は真帆のエプロンをつけて、カレー鍋をぐるぐると掻き回している。なんの変哲もないエプロンなのに、穂高が身につけるだけで途端にお洒落に見えるのがすごい。こんなカレー屋さんがあったら毎週通ってしまうだろう。


(困った……カレー作ってるだけなのにかっこいい……カレールーのCMに出ればいいのに……)


 一日ぶりの夫をひっそりと堪能する。穂高はじっと真帆を見つめたあと、しっしっと片手を振った。


「早く手洗って着替えてこい。話がある」

「わ、わかった」


 真帆は頷くと、自室に引っ込んで部屋着に着替えた。

 リビングに戻ると、穂高がラグのうえで胡座をかいて座っている。彼はなんだか怒ったような顔で、眉間に皺を寄せていた。真帆は少し距離を取って、テーブルを挟んだ向かい側にそろそろと腰を下ろす。

 穂高はまっすぐにこちらを見据えたまま、口を開いた。


「真帆。最近、俺のこと避けてるだろ」

「う……」


 図星を突かれて、真帆は俯いた。やはりバレていたのか。いや、バレるに決まっている。それほどまでに、真帆の態度は露骨だった。穂高が気分を害するのも、無理もないだろう。

 きちんと謝らなければ。でもどうやって説明しよう。ぐるぐると巡る思考がまとまらない。

 穂高はガシガシと乱暴な仕草で髪を掻くと、小さな声でボソリと呟いた。


「悪かった」

「え?」


 謝るつもりが謝られた真帆は、弾かれたように顔を上げる。


「……いきなり抱きしめたりして、悪かった」


 穂高の言葉に、抱きしめられたときのことを思い出して、ぶわっと頰が熱くなる。恥ずかしいからできるだけ話題にしないようにしていたのに、まさかここまで直球で謝罪されるとは。


「う、ううん。穂高は悪くない。わ、私が……えっと……」


 真帆は真っ赤な顔で、かぶりを振った。あのときの穂高は、真帆を慰めようとしてくれただけだ。それを勝手に意識して、夫を避けた真帆の方に問題がある。


「もし真帆が嫌なら、もう不用意に触らないって約束する」

「い、嫌なわけじゃ……」

「だから……避けるのはやめてくれ。まあまあ落ち込む」


 そう言った穂高は、本当にちょっと落ち込んでいるように見えた。もしかするとずっと、真帆は彼のことを傷つけていたのだろうか。最近はまっすぐに彼の顔を見ることがなかったから、気がつかなかった。


「ごめんなさい……」

「……あと、いきなり〝帰らない〟とか言われると、不安になるだろ。やっぱり俺との結婚が嫌になって、出て行ったのかなとか」

「そ、そんなこと」

「帰って来なかったら、どうしようかと思った」

「そんなわけない! それだけは、絶対ないよ」


 予想外の言葉に、真帆は慌てて否定した。穂高は置いてけぼりにされた子どものような顔で、こちらを見ている。

 まさか彼にそんな不安を与えていたなんて、思いもしなかった。真帆は申し訳なさのあまり、その場に埋まりたくなった。考えなしの自分の行動に嫌気がさす。


(なんてバカなことをしてしまったんだろう。穂高は私のこと、家族として大事にしてくれてるのに)


 真帆は立ち上がると、穂高の隣にすとんと腰を下ろした。膝の上に置かれた彼の手を、そっと握り締める。真帆の方から彼に触れるのは、久しぶりのことだった。穂高が驚いたように目を見開く。


「……出て行ったりしないよ。何があっても、絶対帰って来る。私の帰る場所、ここにしかないから」


 たった一人の家族がいる、ただひとつの帰る場所。真帆はもう、それを失いたくはないのだ。

 彼と触れ合った箇所から、じわじわと熱がともっていく。心臓が壊れそうに高鳴っている。夫婦なんだからちゃんと慣れなきゃ、と思うのに、真帆の恋心はどうにも聞き分けが悪いらしい。どれだけ押さえつけようとしたところで、胸の奥で激しく暴れ回っている。


「ほ、穂高に、さ、触られるのも、嫌とかじゃないんだけど、その……」

「うん」

「……ちゃ、ちゃんと慣れるので……も、もうちょっとだけ待ってもらえたら、嬉しい、です」


 真っ赤になってつっかえながら、ようやく言えた。もういい大人なのに、こんな体たらくで恥ずかしい。しかし穂高は怒ったり馬鹿にしたりせずに、真剣な顔で頷いてくれた。


「大丈夫だよ。俺はいくらでも待つから」

「……ありがとう。避けたりして、ごめんね」


 真帆はそう言って、そっと穂高の唇に人差し指を押し当てた。指先にぶつかった唇の感触は、見た目よりも柔らかい。千明直伝の「仲直りのチュー」は、まだまだ実践できそうにない。いつかは彼と直接唇を重ねる日が来るのだろうか。


「……仲直りしよ?」


 小首を傾げた真帆に、穂高はやや困ったように、怒ったように眉間の皺を深くする。何かに耐えるように唇をぐっと引き結んだあと、はーっと深い溜息をついた。


「……もしかして俺、試されてる?」

「え?」

「なんでもない。俺はやればできる男だ」


 穂高はぶんぶんと首を振って、「カレー食うぞ」と立ち上がる。真帆は首を捻りながらも、夫の作ったカレーを食べるべく、ダイニングチェアに腰を落ち着けた。

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