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31:私、今日は帰りません

 二人の夏休みが終わり、九月になっても、暑さはまだまだ止まなかった。真帆もまた、未だに夏の熱に浮かされたままでいる。


 朝起きて自分の部屋から出る前に、真帆はまず父の写真に「おはよう」と挨拶をする。それから、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けた。扉の向こうに穂高がいると思うと、それだけで心臓の鼓動が早くなるのだ。

 寝起きの腫れぼったいすっぴんや、ボサボサの頭を見られるのは嫌だけれど仕方ない。どうせ今まで、さんざん見られているのだ。

 意を決した真帆は、えいっとばかりに勢いよく扉を開いた。


「……お、おはよう」

「おはよう、真帆」


 ダイニングチェアに腰を下ろした穂高が、優しい声で真帆の名を呼ぶ。キラキラの朝の陽射しを浴びながら、優雅にコーヒーを飲んでいる。

 あまりの眩しさに、真帆はいったん扉を閉めた。扉の向こうから「おい!」という声が聞こえる。息を整えてから、おそるおそる扉から顔を出した。穂高は呆れた顔でこちらを見ている。


「朝から何やってるんだよ。遅刻するぞ」

「……そ、そうだね。準備する」

「真帆、最近ちょっとおかしくないか?」


 夫の問いに、真帆はぎこちない笑みを返した。自分がおかしいことぐらい、よくわかっている。旅行から帰ってきてから、ずっとこの調子だ。

 穂高に抱きしめられたあの日以来、真帆は妙に穂高のことを意識している。先日は、洗面所で風呂上がりの穂高と鉢合わせして、ゴキブリにでも遭遇したかのような悲鳴をあげてしまった。彼もさすがにまずいと思ったのか、「配慮が足りなかった」と平謝りしていた。

 しかし、悪いのは穂高ではない。夫の半裸ごときをまともに直視できない真帆の方なのだ。なにせ自分たちは、れっきとした夫婦なのだから。


 真帆はキッチンへと向かうと、コップ一杯の水をごくごくと飲んだ。飲みながら、ダイニングにいる穂高の横顔を、気付かれないようにこっそり眺める。

 穂高がバターを塗ったトーストを齧り、咀嚼し、飲み込んでいる。ただそれだけのことで、なんだか神様に感謝したいような気持ちになる。穂高が今日も元気に健康でいることは、素晴らしいことだ。


「この食パン、美味いな」

「そ、そうでしょ。奮発して、パン屋さんでちょっといいやつ買ったの」

「へえ。意外と違うもんだな」


 穂高が嬉しそうにしていると、真帆も嬉しくなる。多少値は張るけれど、穂高が喜ぶならリピートしよう、と考えた。

 今日は比較的涼しいので、ホットの紅茶を飲もうと思い、買い置きしていたティーパックを探す。流しの上の棚を開いたところに入っていた。夫が片付けたのか、ちょっと真帆の手が届きづらいところにある。

 踏み台を持ってくるのも面倒で、なんとか届かないかと爪先立ちになる。背中が攣りそうな思いをしていると、後ろから伸びてきた手が紅茶の箱を掴んだ。


「これ?」


 背中に男の体温を感じる。いつのまにか背後に立っていた穂高が、耳元で囁いてきた。低い声に混じった吐息が耳をくすぐる。

 一瞬で腰砕けになった真帆は、へなへなとその場にへたり込んだ。


「真帆?」


 キッチンの床に座り込んだ真帆を、穂高は心配そうに見下ろしている。助け起こそうと伸ばされた手を、真帆は反射的に振り払っていた。ただでさえ心臓が壊れそうな音をたてているのに、今触れられると爆発でもしてしまいそうだ。

 突如として拒絶された穂高は、ほんの少し傷ついたような表情を浮かべたけれど、真帆にはそれを慮る余裕はなかった。頭の中がミキサーにかけられたようにぐちゃぐちゃで、まともな思考ができなくなる。


(ああもう、限界だ。こんなところで普通の生活なんてしていられない)


 真帆は勢いよく立ち上がると、慌てて彼から距離をとって、言った。


「……わ、私っ! きょ、今日は帰らないから!」




 夫から逃げるように出社した真帆は、風花を捕まえて「一晩泊めてほしい」と頼み込んだ。風花は驚きつつも、ふたつ返事で了承してくれた。

 風花は会社近くのアパートで一人暮らしをしている。勤務先まで徒歩十分、という驚きの近さだ。場所柄家賃も高そうだが、お金を払ってでも朝はギリギリまで寝ていたい、というのが彼女の信条らしい。

 猫の額ほどのワンルームの部屋はあまり片付いているとは言えず、風花の「推し」であるアイドルのCDやポスターが至るところに飾られていた。

 泊めてもらうお礼にと、夕飯は真帆が作った。メニューはカレイの煮付けと野菜たっぷりの味噌汁だ。風花は「久しぶりにこんなマトモなもの食べた……」と涙ぐみながら完食してくれた。こんなに喜んでもらえるなんて、日頃はどんな食生活をしているのか心配になる。


 シャワーを浴びてバスルームから出ると、風花が「化粧水とか勝手に使ってくれていいよー」と言ってくれた。お言葉に甘えて借りることにする。パタパタとコットンを肌に当てながら、真帆は言った。


「今日、いきなりごめんね」

「わたしは全然いーよ! むしろ、真帆の作ったごはん食べれてラッキー。明日もいてくれていいからね!」


 冗談めかして言った風花に、真帆は「それはさすがに」と苦笑する。泊めてもらえるのはありがたいけれど、そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。

 長い髪をドライヤーで乾かす真帆に向かって、風花はやや言いにくそうに口を開いた。


「……その。もしかして、穂高さんと喧嘩でもしたの?」

「え?」

「喧嘩とかしても、真帆は帰る実家もないし大変だよね……わたしはいつでも真帆の味方だし、こんなところでよかったら、いつでも逃げ場にしてくれていいから!」

「風花……」


 本気で真帆のことを案じている風花の言葉に、胸がじんと熱くなる。それと同時に、穂高から逃げて風花にまで迷惑をかけている自分が恥ずかしく、申し訳ない気持ちになった。


「……ごめん。ほんとに、喧嘩とかじゃないの」

「そうなの? だったらいいんだけど……じゃあ一体どうしたの?」


 真帆はドライヤーのスイッチを切ると、居住まいを正して「あのね」と切り出した。膝の上でぎゅっと拳を握り締める。やけに切羽詰まった真帆の様子に、風花も真剣な顔つきになる。


「その……夫が、かっこよすぎてつらい」

「はあ?」


 真帆の告白に、風花はぽかんと口を開けて素っ頓狂な声をあげた。「どういうこと?」と宇宙人でも見るような目で真帆を見ている。


「……だって、朝起きたらそこに夫がいるんだよ。それで夜になったらまた夫が帰ってきて、私の作ったごはんを食べて、一つ屋根の下で寝てるの……」

「なに当たり前のこと言ってんの?」

「あんな素敵な人と四六時中一緒にいるなんて無理だよ……心臓が持たない。ただそこにいるだけで、息を吸って吐いてるだけでかっこいいんだよ。おまけに優しくて誠実で気配りもできるんだから、もう手のつけようがないよ。どうしたらいいの」

「……やばい。またノロケられてる」

「の、ノロケてない」

「ノロケだよ! 素敵な私の夫自慢にしか聞こえないんだけど!」

「穂高が素敵なことには間違いないよ」

「もう帰っていい? わたしの部屋だけど」

「と、とにかく。穂高と一緒にいるのが苦しくて……それで逃げてきちゃったの。心配かけてごめん」


 真帆が深々と頭を下げると、風花はやや呆れたように肩をすくめた。


「それって要するに……真帆が穂高さんのこと、好きになっちゃったってことだよね? それって何かまずいの?」


 風花の指摘に、真帆は黙り込んだ。

 自分が夫に対して抱いている感情に、真帆はなんとなく気付いていた。認めてしまうのが怖かっただけだ。


(恋愛なんてもうしたくないって、思ってたはずなのに)


 穂高への恋心を募らせるたび、真帆の頭に浮かぶのは、手酷く自分を裏切った元恋人の顔だった。あんな思いをするのは、もうごめんだ。

 そのとき真帆のスマホが震えて、LINEの通知が届いた。アプリを立ち上げて見ると、穂高からだ。


『無事?』


 しまった。会社から出たきり、穂高に何の連絡もしていなかった。真帆は慌てて、『無事です』と返信する。すぐに既読がついて、メッセージが表示される。


『明日は帰ってくる?』


「わっ……あ、明日は帰ってくるかって……ど、どうしよう……まだ心の準備が」

「バカ、ちゃんと帰りなよ! そんな理由で避けるのは、さすがに穂高さんが気の毒すぎる!」

「……そ、そうか」


 たしかに風花の言う通り、こんな身勝手な理由でいつまでも逃げ続けるわけにはいかない。

 それに、正直なところ――たった一晩のことだというのに、真帆はもう穂高に会いたくなっていた。夫におやすみと言ってもらわないと、一日を締め括った気がしない。顔を見るのがつらくて逃げ出したのに、顔が見れないのが寂しいと思うなんて、我ながら訳がわからない。


『明日は帰ります』

『わかった。じゃあおやすみ』

『おやすみなさい』


 二人とも長々とLINEを続けるタイプではないので、簡素なやりとりだけで終わった。寂しいと思っているのは、きっと真帆だけなのだろう。

 風花は「明日も仕事だし、早く寝よ」と言ってベッドに入った。この部屋に布団を敷くスペースはないため、真帆も彼女と同じベッドに潜り込む。天井に貼られた美少女のポスターに見つめられて、なんだか落ち着かない気持ちになった。

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