30:初めて二人で過ごす夜
カラカラと音を立てて扉を開くと、石造りの露天風呂から白い湯気が立ち上っていた。真帆は風呂に向かうと、つま先からゆっくりとお湯に浸かる。少しぬるめだったが、夏なのでこのぐらいの温度がちょうどいい。
「はあ……気持ちいい」
思い切り足を伸ばして、大きな息をつく。こじんまりとしたサイズだったが、浴場には真帆しかいないので貸切状態だ。果たして自分たち以外に宿泊客がいるのか、余計な心配をしてしまう。
そのとき竹製の仕切り壁の向こうから、カラカラと扉が開く音がした。壁のあちら側は男湯だ。もしかすると穂高だろうか。あちらからは見えないとわかっていても、壁一枚隔てたところに夫がいるかと思うと、妙に落ち着かなくなる。真帆は思わず、裸の身体を両腕で抱きしめた。
それと同時に、つい先ほど穂高に抱きしめられた感覚が蘇ってきて――みるみるうちに、真帆の体温は上昇した。このままだと、あっというまにのぼせてしまいそうだ。
真帆は穂高の胸でみっともなく泣き喚いたあと、弁当を平らげて、穂高と手を繋いで石段を下り、バスに乗って温泉宿へと移動してきた。
穂高が予約してくれた温泉宿はそれなりに歴史があるらしく古めかしかったけれど、あちこちリフォームの手が入っており、綺麗で清潔だ。
字が苦手な穂高が記帳したがらなかったので、真帆が二人の名前と住所を書いて、チェックインを済ませた。愛想のいい若女将に「ご夫婦で旅行ですか? いいですねえ」などと言われながら案内されたのは、広い和室だった。
「……もしかして、同じ部屋に泊まるの?」
「そうだけど?」
それが何か問題でも? と言わんばかりに穂高が答えた。そんな当たり前のような顔をされてしまうと、こちらが変なことを言っているみたいだ。実際、真帆の方がおかしいのかもしれない。
改めて言うまでもないことだが、真帆と穂高は結婚している。ひとつ屋根の下で暮らす、れっきとした夫婦だ。それでも夜はそれぞれの私室で眠るし、同じ部屋で寝起きを共にしているわけではない。
(夫婦なんだから、同じ部屋に泊まるのが普通なのかもしれない。けど、でも、私たちは)
展開を飲み込めずにいる真帆に、ふいに穂高が手を伸ばしてきた。少しかさついた指が頰に触れて、ぎくりとする。彼はそのまま、頰に残る涙の跡を親指で拭った。
「もう平気か?」
「う、うん」
「まだちょっと目赤いな」
「……大丈夫だよ」
吐息を感じるほどの至近距離に穂高の顔があって、心臓が高鳴る。涼しげな黒の瞳に映る自分の表情は、やけに狼狽しているように見える。
耐えきれなくなった真帆が「メイク落ちてるから、あんまり見ないで」と言って視線を逸らすと、穂高はようやく頰から手を離してくれた。彼が触れていた場所だけが、燃えるように熱い。
「そろそろ夕飯の時間だな。先にメシ食って、そのあと風呂入るか」
穂高の言葉に、真帆はこくこくと無言で首を縦に振る。そして夕飯を食べたあと、気持ちを落ち着ける暇もないままに、大浴場へとやって来たのである。
透明なお湯に沈む自分の身体を、真帆はまじまじと見つめていた。夕食を食べすぎたせいか、少しおなかが出ている気がする。
夕食は地元の山の幸がふんだんに使われた懐石料理で、とても美味しかった。真帆はお湯に浸かったまま、おなかの余計な肉をむにっと摘んでみる。ただでさえ最近は運動不足だし、穂高と結婚してからは外食の回数も増えて、結婚前よりも体重が増えた。
(……一緒の部屋に泊まるっていっても、何もない、よね。きっと)
結婚してから四ヶ月間ひとつ屋根の下で生活していても、真帆と穂高のあいだには何も起こらなかった。だから、余計な心配をする必要はないと思うのだけれど――どうしても、意識してしまう。
昨日までの真帆だったら、それほど気にはしなかったかもしれない。同じ部屋で眠るぐらいどうってことないだろうと、うまくやり過ごせたかもしれない。
しかし今の真帆は違った。彼に抱きしめられたときの腕の強さが、温度が、胸の鼓動が、体に染みついて消えない。どうしようもなく、ドキドキしている。
――俺は絶対に真帆のこと、一人にしないから。
囁かれた声が頭に響いて、真帆はその場で悶えてしまう。なんなんだ、あの男は。ちょっとかっこよすぎやしないだろうか。あんな素敵な人が自分の夫だなんて、信じられない。
穂高のことを考えるだけで頭がぼうっとしてきて、真帆は思い切りお湯を顔面にぶっかけた。このままだと、変なことばかり考えてしまいそうだ。真帆は勢いよく風呂から上がると、足早に脱衣所へと向かった。
バスタオルで身体を拭くと、持ってきた下着を身につける。旅行だからと比較的新しいものを持ってきたのだけれど、もう少しちゃんとしたものを買った方がよかったかも、といまさらのように悔やむ。思えば、ここしばらく下着を買った記憶がない。
(いやいや、誰に見せるわけでもないんだから。見せる予定は、ない、けど……一応、旅行終わったら新しい下着買いに行こう)
真帆は手早く浴衣に着替え、黒髪を頭の上でひとつにまとめた。女湯ののれんをくぐって出ると、夫が休憩所のマッサージチェアに座っているのが見えた。くつろいだ様子で目を閉じている。眠っているのかもしれない。
真帆は穂高に気付かれないように、おそるおそる近づく。古めかしいマッサージチェアは、ゴウンゴウンと大きな音をたてている。長い睫毛が、閉じた瞼に影をつくっている。信じられないぐらいにかっこいい。まるでギリシャの彫刻みたいだ。もしも穂高が美術品だったら、さぞかし高く売れるだろう。言い値で買いたいぐらいだ。
(……さわってみたい)
そうっと頰に手を伸ばしてみると、穂高は目を閉じたまま真帆の手首を掴んだ。突然のことに、真帆の口から「ひゃっ」と素っ頓狂な声が漏れる。ようやく目を開けた穂高は、ジト目でこちらを睨みつけている。
「出たなら声かけろよ」
「ご、ごめん。寝顔見てた」
「……まあいいか。部屋戻る前に散歩でもしよう」
穂高は起き上がると、掴んでいた真帆の手首を離して、そのまま手を繋ぎ直した。手を繋いだことは何度もあるはずなのに、全身の血液が凄まじい勢いで巡り出す。突如として、自分の手汗が気になり始めた。
旅館の周りはささやかな温泉街があったが、どうやらかなり寂れているようで、ほとんどの店はシャッターが下りていた。真帆たち以外に観光客の姿もない。しかし昔ながらの風景には不思議な趣があり、いかにも鄙びた温泉街、という雰囲気だ。
「お母さんのお墓の近くに、こんなところがあるなんて知らなかった」
「このあたり、あんまり来たことないのか」
「うん、毎回日帰りだった。……お父さん、お母さんの故郷にあんまり寄りつきたくなかったのかも」
父と母が結婚した経緯を、真帆は詳しくは聞いていない。かつての父は、母の両親に対して「合わせる顔がない」と言っていた。きっと結婚するまでに、いろんなことがあったのだろう。
もしかすると意外と近くに、真帆の祖父や祖母がいるのかもしれない。顔も名前も知らないけれど、紛れもない真帆の家族だ。それでも今は、祖父母に会いたいとは思わなかった。
(今私の隣にいる人が、私の家族だ)
これからもずっとそばにいると、約束してくれた人。ふいに強く手を握り締めると、穂高は優しい目で「なに?」と真帆の顔を覗き込んできた。途端に体温が上がって、慌てて目を逸らす。
「なんでもない。ほ、ほら、あそこのお土産屋さん、やってるみたいだよ」
シャッター街の中で唯一開いていた小さな土産物屋に、二人は足を踏み入れる。
「いらっしゃい」
レジの前に座っているのは、小柄な白髪の老婆だ。若い夫婦の客が珍しいのか、じろじろと真帆たちを眺めてくる。穂高の顔面のあたりで視線を止めると、ほうっと感嘆の息をついた。
「いやあ、お兄さん。びっくりするくらい男前だねえ」
「よく言われます」
真顔のまましれっと答えた穂高に、老婆は顔をしわくちゃにして笑う。
「死ぬ前にいいもん見せてもらったよ。サービスしてあげよう」
老婆はそう言って、真帆たちに温泉饅頭をひとつずつ手渡す。しかも、冷たい麦茶まで用意してくれた。持つべきものは顔の良い夫だ。
頬張った温泉饅頭は素朴で優しい味がした。会社へのお土産に買おうかな、と真帆は考える。
「穂高、お土産買う?」
「考えてなかった。兄貴になんか買うか」
「あ、千明さんに地酒買って帰ろう」
真帆はそう言って、地酒のボトルがずらりと並んだガラスケースを眺める。悩んでいると、穂高が横から「義姉さんは繊細な味の違いなんてわからないんだから、どれでもいい」と口出ししてきた。義姉との関係は良好なのだろうが、なかなか失礼な男だ。
結局真帆は、会社への土産として温泉饅頭を、風花のために卵プリンを、それから地酒のボトルを二本購入した。
「何で二本?」
「千明さんのぶんと、もうひとつは……お義父さんのぶん」
真帆が言うと、穂高は顔を顰めてチッと舌打ちをした。
「いらねえだろ、あいつに土産なんて……」
「でも、こないだご馳走になっちゃったし」
不服そうにしつつも、穂高はそれ以上反対してこなかった。彼なりに、いろいろ譲歩しようとしているのかもしれない。大きな溜息をついて、「俺が持つ」と土産の入った紙袋を奪い取った。
二人はそれから温泉街をぐるりと一回りして、旅館へと戻ってきた。部屋の扉を開けるなり、目に飛び込んできた光景に、真帆はその場で固まってしまった。
大浴場に行く前までは、なかったものがそこにある。畳の上に敷かれた、二組の布団だ。ご丁寧に、隙間なくぴったりと並べられている。
真帆は酸欠の金魚のように、口をぱくぱくさせた。
「ほ、穂高。ふ、布団が」
「あー、旅館の人が敷いてくれたんだろ」
「ち、ち、近くない?」
「……そうかな。こんなもんだろ」
「近いよ。近すぎる。こんなのもうほぼ同衾じゃない」
(こんなところで、穂高と並んで眠れるはずがない)
慌てふためいた真帆は、布団の端っこを掴んで、ずるずると引っ張った。あまりに焦っていたので、勢い余って後ろに倒れ込む。部屋の隅に寄せられていた机に、ごつん、としたたかに頭をぶつけてしまった。
「ぎゃっ!」
「おい真帆! 大丈夫か」
「いたたた……」
後頭部を押さえて痛みに耐える真帆を、穂高は抱き起こす。逞しい腕に肩を支えられて、真帆はパニックに陥ってしまった。近い。どうしよう。穂高の匂いがする。
「……だ、大丈夫だから……は、離れて……おねがい」
顔も耳も首も真っ赤に染めて、瞳に涙を滲ませながら真帆は言う。穂高はぱっと両手をあげて、すぐに距離をとってくれた。
胸のドキドキはまだ止まないが、多少は気持ちが落ち着いた。穂高はホールドアップの姿勢のまま、真帆の様子を窺っている。
「……そんな顔しなくても、何もしない」
「そ、それはわかってるよ」
「…………」
「その、穂高が何もしないって、わかってるんだけど……ご、ごめんなさい」
「真帆が謝ることじゃない」
穂高はそう言って、もう一組の布団を反対側へと移動させた。広い部屋の端っこと端っこだと、かなりの距離がある。これならなんとか眠れそうだ。真帆はほっと胸を撫で下ろした。
そのあとも二人はぎくしゃくとした空気のまま、電気を消して布団に潜り込んだ。今までだって毎日ひとつ屋根の下で眠っていたのに、互いを隔てる壁がないだけで、どうしてこんなに落ち着かない気持ちになるのだろう。
真帆はごろりと寝返りをうつ。穂高の方からは寝息さえも聞こえない。彼はこちらに背中を向けているようで、黒い後頭部が暗がりの中でぼんやりと見えた。
穂高にその気は少しもないのに、妙に意識しているのは真帆の方だ。申し訳ない気持ちが溢れてきて、真帆は下唇を緩く噛み締める。唾を飲み込んで、ごくりと喉が鳴る音すら、夫に聞こえているのではないかと恥ずかしくなる。
(どうしよう。私、おかしくなっちゃった……)
穂高のそばにいるだけで冷静さを失って、自分が自分でいられなくなる。こんな気持ちを真帆は知らない。知りたくなかった。
布団の中で無理やり目を閉じていると、次第に睡魔が襲ってきた。一日中歩き回ったせいで身体は疲れていたらしく、真帆はゆるやかに眠りに落ちていく。
初めて二人で過ごす夜は、こうして何事もなく更けていった。