28:お墓参り
抜けるような青い空、ぽっかりと浮かぶ白い雲、ゆるやかに流れる川のせせらぎ、太陽に照らされて輝く緑色の田んぼ。
窓の外の景色を見ていると、なんだか謎のノスタルジーに襲われる。ここは真帆とは縁のない土地だけれど、母が生まれて育った場所だ。真帆の中にある母のDNAが、懐かしさを想起させているのだろうか。
田舎道をひた走るローカル線の車両は一両編成だ。車内にいるのは真帆と穂高の二人だけだった。ガタゴトと音を立てて揺れる電車は、毎朝乗っている満員電車とはまったく違う居心地の良さがある。
隣に座る夫は、ぼうっと遠い目をして窓の外を眺めていた。何を考えているのだろうか。何も考えていないのだろうか。今日は早起きだったから、もしかすると少し眠いのかもしれない。
「穂高、朝早くからありがとう」
「いや、俺も来たかったから」
「眠い? まだもう少しかかるから、寝ててもいいよ」
「じゃあちょっとだけ」
穂高はそう言って目を閉じると、真帆の方に寄りかかってきた。空いてるんだからそんなにくっつかなくてもいいのに、と思ったが、左側に感じる彼の重みが心地良かったので、口には出さなかった。
真帆の会社は、八月のお盆期間は休みになる。穂高の勤務先も同様だ。土日と祝日を合わせて連続六日間。結婚してから初めて、まとまった休みが重なった二人は、「せっかくだから、どこかに行こうか」ということになった。
「新婚旅行も行ってないし」
「そういえば、考えもしなかったな。でも私、パスポート持ってないよ」
「国内でもいいだろ。どこか行きたいところ、あるか?」
穂高の提案に、真帆は少し考えた。行きたいところならあるけれど、新婚旅行にはそぐわない。言い淀んだ真帆に、穂高は「どうした?」と首を傾げた。
「あ……行こうと思ってたところはあるんだけど。でも、穂高を付き合わせるのはちょっと」
「なんでだよ。真帆が行きたいならそこに行こう。どこ?」
「……お父さんとお母さんの、お墓」
真帆がぽつりと呟くと、穂高はほんの一瞬、痛ましそうな表情を浮かべて目を伏せた。しかしすぐに顔を上げて、「俺も行きたい」と言ってくれる。
「真帆の父さんと母さんに、ちゃんと挨拶しなきゃなって思ってた」
「でも、ちょっと遠いところにあるの」
真帆が地名を伝えると、穂高はスマートフォンを取り出して検索を始めた。両親の墓があるのは母の故郷で、特急電車とローカル線を乗り継いで、片道三時間かかる。なかなか気軽に行ける場所ではない。
「だいたいわかった。車借りてもいいけど、電車で行くか。朝出たら、昼前には着くだろ」
「うん」
「わりと近くに温泉街があるな。そこに一泊しよう。宿は俺が予約しとく」
「わ、わかった」
「他にも行きたいところがあったら教えてくれ」
さすが段取りの鬼らしく、穂高はテキパキと予定を立てていく。籍を入れたときにも思ったけれど、彼のこういうところは本当に頼りになる。
かくして二人の夏休みが始まり、真帆と穂高は、新婚旅行――というにはやや地味な、初めての二人旅に行くことになったのだった。
「穂高、次降りるよ」
真帆は車掌のアナウンスを聞いて、隣で眠る夫の身体を軽く揺すった。すぐに目を開けた穂高は、大きめのボストンバックを掴んで立ち上がる。寂れた無人駅だけれど、きちんとICカードに対応しているのがなんだかミスマッチだ。ピッと音を立てて改札を抜ける。
電車を降りると、そこからバスに乗り換えなければならない。本数が少ないので、タイミングを間違えると一時間以上待ちぼうけを食らうことになる。穂高がきっちりと調べておいてくれたおかげで、ちょうどよくバスがやって来た。
乗客のほとんどいないバスに二十分ほど揺られたあと、降車ボタンを押してバスから降りた。バス停のすぐそばに、小高い丘の上へと続く長い長い石段がある。
「うわ……」
石段を見上げ、穂高はややげんなりした表情を浮かべている。正直なところ、真帆も同感だ。この暑さの中、一泊二日分の荷物を抱えて石段を上るのは骨が折れるだろう。前回一人で来たときは冬だったけれど、それでもかなり辛かった。デニムとスニーカーで来て正解だ。
「この石段、きついんだよね……穂高、大丈夫?」
「問題ない。俺は毎朝走ってる。真帆の方が運動不足だろ」
「う……そうかも」
他人の心配をしている場合ではなかった。穂高は真帆のぶんの荷物を奪い取ると、「行こう」と歩き始める。真帆はよしっと気合いを入れてから、彼の背中を追いかけた。
長い長い石段は、アラサーに片足を突っ込んだ運動不足の真帆にとって、なかなか厳しい試練だった。まだまだ若いつもりではいるけれど、確実に体力の衰えを感じる。
そういえば、昔は――父と一緒に母の墓参りに来ていた頃は、そんなに辛くなかった気がする。息を切らしている父に向かって、「お父さん、早くー!」と手招きをした記憶もある。父はいつも「待ってくれよお」と情けない声を出していた。
(あのときのお父さんの気持ち、今わかった)
「ほ、穂高、待って」
かつての父のように、肩で息をしながら前を行く穂高に声をかける。穂高はさすが毎朝ジョギングをしている甲斐もあってか、真帆ほど疲れた様子は見えない。真帆のぶんの荷物も持っているというのに。
足を止めて振り返った穂高は、真帆の手を掴んで軽く引いてくれた。
「真帆、頑張れ」
――ほらほら頑張って、お父さん。
あの頃の真帆は、父の手を引いて石段を上ることが楽しかった。ふいに懐かしい記憶が蘇ってきて、繋いだ手をぎゅっと握りしめる。
なんとか石段を上り切ると、目の前に墓地が広がっていた。ずらりと並んだ墓石のうち、一番隅っこにある小さなものが、真帆の両親が眠る墓だ。
「ああ、気持ちいいな」
穂高はそう言って、うーんと大きく伸びをした。暑さは厳しいけれど、吹き抜ける風は爽やかで心地良かった。丘の上から見える田園風景は、はっと息を飲むほど美しい。
「あとでお弁当食べよう」
「そうだな。まずは墓参りだ」
バケツに水を入れて、ひしゃくと一緒に墓の前に置く。ここに来るのは半年ぶりだ。このお墓の手入れをするのは真帆しかいない。以前に持ってきた花は、すっかり茶色く枯れてしまっていた。ゴミ袋に枯れた花を入れて、道中に買ってきたトルコキキョウの花に入れ替える。
墓石をきれいに掃除し終わった頃には、二人とももう汗だくになっていた。水を浴びた墓石は、太陽の光を跳ね返してきらきら光っている。ここに眠っているのは、父と母の二人だけだ。もし自分が死んだときはここには入れないのかな、なんてことを考ると、なんだか寂しいような気持ちになる。
ゆらゆらと立ち昇る線香の細い煙を見つめながら、真帆と穂高は揃って両手を合わせた。
「……ごめんね。なかなか来れなくて。お父さん、お母さん。私結婚したんだ」
唐突に墓石に語りかけた真帆を、穂高はじっと黙って見つめている。真帆は手を合わせたまま、ぽつぽつと続ける。
「中学の同級生だった五十嵐穂高くんだよ。ほら、一度家にも来たことあるし、お父さんは知ってるでしょ」
もしここに父がいたら、何と言うだろうか。「こんなイケメン捕まえるなんて、さすがは俺の娘だなあ」と笑ってくれるだろうか。真帆の幸せを、自分のことのように喜んでくれるだろうか。
「お父さん……私、結婚したんだよ……」
返事はない。当たり前だ。愛する父がここにはいないことを、真帆は頭のどこかでちゃんと理解している。それでも、語りかけずにはいられないのだ。
(お父さんはもう、どこにもいない)
身体の奥からこみ上げてくる、叫び出したくなるような謎の衝動を、真帆は目を閉じて必死でやり過ごした。浅い呼吸を繰り返しているうちに、ようやく感情の波が過ぎ去って行く。
「……お義父さん、お義母さん」
そのとき、隣で低い声が響いた。目を開けた真帆は、ぽかんとして穂高を見つめる。彼はまっすぐに墓石を見つめながら、静かに続けた。
「ご挨拶が遅くなってすみません。大切な娘さんを俺の身勝手で振り回して、ワガママに付き合わせて、いきなり入籍して……申し訳ないとは、思ってます」
ジリジリと蝉の声が響いている。ふわりと風が吹き抜けて、真帆の黒髪を揺らした。
「でもどうしても、俺はこの人と家族になりたかった」
穂高の声は淡々としているのに、驚くほどの熱を秘めている。胸の奥がじりじりと焦げつくようだ。真帆はじっと息を詰めて、彼の言葉を全身全霊で聞いている。
「絶対、幸せにします。俺と結婚してよかったって、思ってもらえるように」
「……もう、とっくに、思ってるよ」
(最初からずっと、思ってる。穂高と結婚してよかった)
耐えきれずに、真帆は穂高のシャツの袖を掴んだ。こちらを向いた穂高の瞳は優しい。彼の左手が真帆の頰に触れる。薬指のプラチナリングが太陽の光を反射して、きらりと輝いた。