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27:初めて見せる顔

 定時を少し回った、十八時十分。仕事を終えてスマホを確認すると、数分前に穂高からのLINEが届いていた。


『今仕事終わった。直帰するから、時間合いそうなら一緒に帰ろう』


 読んだ途端に、真帆の心が心が浮き立った。『私も今から会社出る』と返信して、駅前で待ち合わせをすることになった。タイミング良く到着したエレベーターに軽やかに乗り込む。


「あ」


 ――エレベーターの中には、柏崎がいた。前言撤回、やっぱりタイミングが悪い。彼は真帆の姿を認めるなり、ぱっと表情を輝かせた。


「あっ、大汐さん! おつかれ」

「……おつかれさま」


 真帆はなるべく嫌な顔をしないように努めつつ、早く一階につかないかな、と思う。狭い空間に二人きりで、じっと熱のこもった視線を向けられていると、息が詰まりそうだ。

 そんな真帆の気も知らず、柏崎はニコニコ笑っている。


「今日すげえ会うじゃん。ラッキー」

「偶然だね」

「大汐さん、今から帰り? よかったらメシでも……」

「ごめんなさい。これから夫と約束してるの」

「へえ、例の夫。今から会うの?」

「うん。今日、この近くで仕事だったんだって」


 一階です、とアナウンスと共に扉が開く。真帆は詰めていた息をほっと吐いて、エレベーターから降りた。

 足早にエントランスを突っ切り、会社の外に出る。守衛が明るく「おつかれさまでーす!」と挨拶してきたので、真帆と柏崎は揃って会釈をする。

 駅に向かって歩き出しても、柏崎が隣についてくるので、真帆は訝しげな目を向けた。


「……柏崎くん、地下鉄?」

「うん。大汐さんも駅? 一緒に行こう」


 へらっと言った柏崎に、真帆は小さく溜息をついた。

 他の男と二人で並んで歩いているところなんて、あまり穂高に見せたいものではない。しかも柏崎は、少なからず真帆に好意を抱いていたと言う。悪い人ではないのだけれど、今後はできるだけ距離を置いた方がいいだろう。


「柏崎くん。私もう、大汐じゃないよ」

「あー、そうだったよなあ。なんかまだ慣れなくて……じゃあ真帆さんって呼んでもいい?」

「ダメです」


 ぴしゃりと冷たく答えたが、柏崎は相変わらず人懐っこい笑みを浮かべている。


「そんなツンケンしなくても。いや、そこがいいんだけどさあ」

「そんなこと言われても困る」

「冗談冗談。オレもう大汐さんのことは諦めたってば。……もしかして夫、こういうの怒る人?」

「怒らないよ。でも、あんまりいい気分しないと思う」

「もし大汐さんのこと好きじゃないなら、他の男と仲良くしてても、どうでもいいんじゃないの」


 柏崎の言葉に、真帆は黙り込む。サンダルのヒールがアスファルトを叩いて、カツカツと音をたてる。どれだけ早く歩いたところで、柏崎は同じ速度で追いかけてくる。

 真帆は考える。おそらく穂高は、真帆が浮気をしたら怒ると思う。それでもそれはきっと、彼が不貞行為に対して嫌悪感を抱いているからであって、真帆を愛しているからではない。


(もし私が浮気なんかしたら、穂高はきっと私のことを一瞬で見限るだろう)


 穂高が何より憎んでいるのは、家族のことを蔑ろにする人間だ。彼が父親に向けるような、憎しみのこもった視線で「見損なった」と告げられるところを想像して、ゾッとした。彼に誤解されるようなことなど、絶対にあってはならない。


「彼がどう思おうと、私は彼に妙な勘違いされたくない。大事な人だから」


(もちろんそれは、家族として、だけれど)


 真帆が言うと、柏崎は釈然としない表情を浮かべた。

 飲み会で柏崎からの告白を受けたときも、真帆は驚くほど冷えた頭でそれを聞いていた。真帆にとっては柏崎の「好き」よりも、穂高の「家族だろ」という言葉の方が、ずっと重く大切に響くのだ。

 きっと柏崎には、真帆と穂高の関係も、真帆の気持ちも、理解してもらえないだろう。そもそも、理解してもらうつもりもない。


「大汐さん、歩くの早いね」

「そうかな。普通だよ」


 そうこうしているうちに、駅についてしまった。改札の前に、穂高が立っているのが見える。やはり穂高は遠くからでもよく目立つ。

 真帆を見つけたらしい穂高は、隣にいる柏崎の姿を認め、怪訝そうに表情を歪める。柏崎は穂高を見るなり、顔を寄せて小声で囁いてきた。


「あれ、夫だよな」

「……そうだけど」

「うわー、実際見るとすげえイケメンだ。芸能人?」


 ひそひそと耳打ちをしてくる柏崎に、みるみるうちに穂高の顔が険しくなる。真帆は慌てて、柏崎と距離を取ろうとした。


(ああ、違うの穂高。勝手についてきただけだから)


 真帆がどう説明すべきか考えているうちに、穂高がこちらに歩いてくる。柏崎の前でぴたりと足を止めて――ニッコリと、信じられないぐらい美しい笑みを浮かべた。ほんの一瞬、我を忘れて見惚れてしまう。


「真帆、おつかれ。そちらの方は?」

「え? あ、ど、同期の柏崎くん。たまたま、ほんとに偶然、帰りが一緒になったの」

「初めまして、真帆の夫の五十嵐穂高です。いつも真帆がお世話になってます」


 そう言って穂高は、にこやかに柏崎に左手を差し出した。目の前にいる男の煌びやかなオーラにやや気圧されたらしい柏崎は、「あ、はい」と惚けたように握手に応じる。


(穂高のこんな顔、見たことない)


 いつも仏頂面で、ほとんど表情筋が動かなくて、基本眠そうにしてるか不機嫌そうにしてるのがデフォルトの夫が――まるで洗剤のCMのような、爽やかな笑顔を振り撒いている!

 何か悪いものでも食べたのかと、真帆は夫の顔をまじまじと見つめる。中にエイリアンが入っていると言われても不思議ではない。ニコッとこちらにも微笑みを投げつけられて、真帆は思わず両手で顔を覆いたくなった。まずい、直視するには眩しすぎる。


「柏崎さん、真帆と仲良くしてくださってるんですか?」


 穂高は柏崎の左手を握りしめたまま問いかけた。柏崎は、謎の圧にたじろぎつつも答える。


「え? ま、まあ……同期の中では」

「真帆、可愛いでしょう。夫の欲目も入ってるのかもしれませんが」

「か、かわっ……!?」


 動揺のあまり声をあげたのは、柏崎ではなく真帆の方だった。

 この人は一体、唐突に何を言い出すんだ。自分の意思に反して、かっと頬に熱がともる。心臓の鼓動が速くなる。


「ちょっ、ちょっと穂高、な、何言ってるの」

「なんだよ。いつも言ってることだろ」


 余裕の笑みでそう返されては、一度も言われたことありませんけど! とは当然口にできない。真帆は真っ赤になった頰を両手で押さえた。

 そのときようやく、柏崎を見つめる夫の目が、まったく笑っていないことに気がつく。口元は笑み形を作っているけれど、瞳の奥に静かな敵意が滲んでいる。


「恥ずかしい話なんですが、僕は可愛い妻が心配で仕方ないんですよ。――〝悪い虫がつかないように〟柏崎さんが見張っておいてくれたら、助かるんですが」


 そう言って穂高は、柏崎の肩をポンと軽く叩いた。あからさまに、五寸釘かってくらいに極太の釘を刺された柏崎の表情は、さすがに引き攣る。


「あ、はい」


 柏崎が頷いたのを確認してから、穂高は彼の手を解放した。それから真帆の肩を抱いて「それでは」と颯爽と歩き出す。真帆は口を挟む隙もなく、呆気にとられていた。


 改札を通って、ホームに向かう階段を降りると、柏崎の姿がすっかり見えなくなる。途端に穂高の顔からは先ほどまでの笑みは消え失せ、スッといつもの仏頂面に戻った。ようやく、肩から手を離してくれる。


「はあ、疲れた」

「……びっくりした。穂高、あんな顔もできるんだね」


 真帆が呟くと、穂高はやや気まずそうに目を逸らした。


「……仕事上やむをえず身につけた処世術だ。忘れてくれ」


 穂高は言ったが、なかなか簡単に忘れられなさそうなインパクトだった。あんな笑顔を日常的に見ている穂高の取引先の人たちは、目が潰れたりしないのだろうか。

 それにしても、愛想のない穂高に営業職など務まるのかとひっそり心配していたのだが、余計なお世話だったらしい。営業成績一位、というのも嘘ではないのだろう。あんな笑顔で握手を求められたら、契約のひとつやふたつ簡単に結んでしまいそうだ。


「そんなことより真帆。さっきの、例の同期だろ」

「ああ、うん。ごめんね、ほんとに偶然一緒になっただけなの」

「大丈夫だよ。俺もそこは疑ってない」


 きっぱりと穂高が言ってくれたので、真帆はほっと胸を撫で下ろす。真帆が不貞を働くような人間ではないと、信じてくれるのは嬉しいことだ。


(やっぱり私たちは、恋愛感情なんかなくたって、お互いのことを信じられる)


「正直、困ってたから助かった。穂高、すごい演技力だね。ほんとに俳優になれそう」


 真帆が誉めると、穂高は不服そうに眉を寄せた。黒い瞳でこちらをじっと見つめてくるので、なんだか居心地が悪くなる。


「……どうかした?」

「……いや。なにも」


 穂高は眉ひとつ動かさず、到着した電車に乗り込む。

 なんだかまっすぐ顔が見られなくて、電車の窓ガラスに映った端正な横顔を、こっそりと盗み見た。さっきの営業スマイルが嘘のような、拗ねた子どものような不機嫌な顔つきだ。

 わかりやすいと思ってたけど、やっぱりよくわからない人だ。あんなに平然と、可愛い妻が心配です、だなんて言えるのだから。

 小さく息をついて、こつん、とガラスに額をぶつける。触れたところがやけに冷たく感じられて、自分の額が熱を持っているのだと思い知らされた。

 ……やっぱりなんだか、調子が狂う。




 朝のビジネス街のコンビニには、コーヒーの匂いが充満している。レジ横にあるコーヒーマシンがフル稼働しているからだ。コンビニコーヒーは専門店のものより安価で、自動販売機のものよりも美味しい。カフェインを欲する社会人の強い味方なのである。

 レジの前には行列ができていたけれど、店員の手際が良いためすぐに客が捌かれていく。棚からサンドイッチを取ると、列の最後尾に並ぶ。

 今日は穂高も昼食を外で食べると言うので、お弁当を作るのをサボってしまった。結婚するまではそうでもなかったのに、結婚してから「自分のためだけにごはんを作るのは面倒臭い」という意識が芽生えたのが不思議だ。


「あ、大汐さん!」


 会計を終えたところで声をかけられて、ぎくりとした。会社の目の前にあるコンビニは、知り合いに遭遇する確率が非常に高い。声のした方を見ると、コーヒーマシンのそばに柏崎が立っていた。


「柏崎くん……おはよう」


 普段はほとんど顔を合わせないのに、昨日に続いてどうしてこうも偶然が続くのか。真帆が挨拶をすると、柏崎は明るく「おはよう!」と返してくれた。彼は朝から元気いっぱいだ。

 正直避けたいところだったが、せっかく購入したコーヒーを淹れなければならない。マシンの下にカップを置いて、スイッチをオンにする。隣に立った柏崎は、申し訳なさそうに眉を下げて言った。


「大汐さん。昨日、変なこと言ってごめん」

「……変なことって?」

「夫のこと好きじゃないんだろ、とかそういうこと……」

「え」


 カップにコーヒーがなみなみと注がれていく。ピーッという音が鳴ってマシンが止まったので、ガムシロップもミルクもいれずにカップの蓋を閉めた。真帆はブラック派なのだ。


「大汐さんの夫、すげえ怖かった……」

「そ、そうかな」

「いやもう、大汐さんにベタ惚れなんだなって丸わかりだったもん。あそこまで愛されてたら、もうなんも言えねえよ」


 真帆は曖昧に「はあ」と誤魔化した。昨日の勢いはどこへやら、柏崎はすっかり戦意喪失しているらしい。穂高の演技力を褒めるべきだろう。


「あと、大汐さんも」

「……私?」

「あの人のこと、すげえ好きなんだろなーって思った。可愛いって言われたときの大汐さんの顔、完全に恋する乙女だったもんなー! あんな顔、初めて見たよ」


 ――うっかり「そんなことない」と否定しかけて、真帆は慌てて口を噤んだ。

 せっかく都合の良い勘違いをしているのだから、わざわざそれを正す必要はない。それでも真帆の心は、ソワソワと落ち着かなかった。


(私が穂高のことを好きだなんて、そんな)


 真帆は柏崎の前で、少しも演技をしていたつもりはなかった。そんな彼の目から見て、そういう風に見えてしまったということは――それはつまり。

 うっかりひとつの結論を導きそうになった真帆は、ぶんぶんと頭を振って、それを追い払う。アイスコーヒーのストローを咥えて、まさかね、と心の中で呟いた。

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