26:愛がなければなんだというの
結婚して五ヶ月も経つと、朝起きるとリビングでイケメンがコーヒーを飲んでいる光景にもすっかり慣れた。
「おはよう」
真帆は「おはよう」と答えて、キッチンに向かうと、コップ一杯の水道水を飲み干す。そうすると、寝起きの頭が心なしかしゃっきりするのだ。外はかんかん照りのいいお天気だったけれど、朝からエアコンの効いたリビングは涼しい。
「朝からエアコンつけるなんて、贅沢だなあ……」
「なんでだよ。涼しくないと朝から気力失せるだろ」
そう答える穂高は、既に白のワイシャツ姿だ。クールビズ期間中にもかかわらず、きっちりと濃いブルーのネクタイを締めている。
穂高はいつでも早起きで、結婚してから毎朝欠かさずジョギングをしているらしい。この暑さなのによくやるものだ。真帆だって決して朝が弱いわけではないけれど、そこまでストイックにはなれない。平日の朝からそんなことをしていては、仕事をするエネルギーがなくなってしまう。
ダイニングチェアに腰を下ろすと、牛乳をかけたシリアルをもそもそと口に運ぶ。正面にいる穂高は、タブレットでネットニュースをチェックしている。彼は集中すると不機嫌そうな顔になるらしく、眉間に皺が寄っていた。
真帆はシリアルを食べながら、テレビの情報番組に目をやった。アイドルの女の子が、「氷がきめ細かくて、さっぱりしてて美味しいです!」とカキ氷を食べている。四月にデビューしてからかなり場数を踏んできたらしく、コメントもやや小慣れてきたようだ。
映像が切り替わり、今注目の家電ランキングのコーナーが始まった。タブレットから顔を上げた穂高は、食い入るようにテレビを見つめている。
「穂高って家電好きだよね」
「日々の暮らしが便利になるのはいいことだろ」
そう答えた穂高は、三位の電子調理器をやけに物欲しそうに眺めている。「欲しいんでしょ」と言うと、「なんでわかったんだ」とやや気まずそうにしていた。彼は表情に乏しいわりに、感情の起伏がわかりやすい男だ。真帆は彼のそういうところを好ましく感じている。
「今注目の家電ランキング一位は……イガラシの電気圧力鍋です!」
その瞬間、穂高がチッと大きな舌打ちをした。ほら、やっぱりわかりやすい。
支度を終えて玄関でパンプスを履いていると、穂高が「俺も出る」と追いかけてきた。二人揃って家を出ると、穂高が扉の鍵を閉める。
「穂高、今日ゆっくりじゃない?」
「今日は取引先に直行なんだ。真帆の会社の近く」
「じゃあ一緒の電車乗れるね」
いつもは穂高が先に出るので、一緒に出勤するのは初めてだ。エレベーターに乗って、マンションのエントランスを通って外に出る。頭上からは八月の日差しとともに、うるさい蝉の声が容赦なく降り注いでいた。早くもうだるような暑さにげんなりしながら、紺色の日傘を開く。
地下鉄の駅のホームは、通勤ラッシュの時間帯ということもあり、いつも通りの混雑ぶりだった。
電車が到着するなり、背中を押されるようにして、ぎゅうぎゅうと車内に詰め込まれる。冷房が効いているはずなのに、人口密度のせいで熱気が凄まじい。胸の前でバッグを抱えて耐えていると、穂高が真帆の腕を掴んだ。
「真帆、こっち」
壁際に誘導され、穂高は周りから真帆を庇うように、顔の横に手をついた。ブルーのネクタイが目の前にある。頭の上から穂高の声が聞こえる。
「この路線、いつもこんなに混んでるのか」
顔を上げると、すぐそこに穂高の顔があった。かっこいい、とほとんど反射的に思う。とっくに見慣れたはずの顔なのに、直視できない。耐えきれなくなって、思わず下を向いた。耳にかけていた髪がさらりと落ちて、真帆の顔を隠す。
「どうした? 大丈夫か?」
「だ、大丈夫。毎朝こんな感じだから」
「そうか、大変だな」
穂高は真帆が押し潰されないように気を遣ってくれているけれど、彼との距離はほぼゼロだ。白いシャツにリップがついてしまわないかとハラハラする。それでも、何故だか顔を上げることができない。体温がどんどん上昇して、額に汗が滲む。
穂高がふいに左手を伸ばして、真帆の髪をすくうと、そっと耳にかけ直してくれた。なんだかやけに優しい手つきに、胸の奥がむずむずするような感覚に襲われる。露わになった耳を、骨張った指がするりと撫でる。触れたところから、じわじわと熱がともっていく。
「真帆、耳赤い」
「……暑い、から」
――喧嘩をして仲直りをして、穂高の真帆の関係は元通りになったはずだった。それでも、今まで通りじゃないところもたしかにある。
やはり最近どうも、真帆に対する夫の態度が甘ったるいような気がする。
「もしかして私、ノロケられてる?」
真帆の話を聞いた風花は、コンビニのサンドイッチにかぶりつきながら、小さく首を傾げた。真帆は慌てて「そんなつもりは」と否定する。
昼休みの食堂は盛況だったけれど、真帆と風花は入り口近くの席をなんとか確保できた。持参してきた昼食は、昨日の残りのオムライスだ。あからさまな手抜きだけれど、穂高が喜んでいたから良しとしよう。
「だって、おかしいよ。夫が優しくて調子狂う、だなんて」
「穂高が優しいのは元からだけど。優しいだけじゃなくて、なんか最近は空気が甘いんだよね」
「はいはい、ごちそうさまあ。まだ食べてるけど」
風花はサンドイッチを頬張り、呆れたように肩を竦める。
真帆は頰を膨らませたが、風花の反応は無理もないものだと思う。夫に対して抱いている違和感は、どうにもうまく説明できない。別にノロケているつもりはないのだが、どう表現してもノロケになってしまうような気がする。
「でも新婚でしょー? あまあまなのは普通のことじゃん。もっとイチャイチャしてもいいぐらいだよ」
「でも、私たちはそういうのじゃないから」
「……ねえねえ。もしかしてまだ、キスもしてないの?」
「うん」
真帆が頷くと、風花はぎょっとしたように目を剥いた。
「えー!? ちょっと待って、結婚してどんだけ経つっけ」
「まだ四ヶ月だよ」
「まだ、じゃないよ、もう、だよ! 高校生のカップルだって、四ヶ月も付き合ってたらチューぐらいするでしょ!」
「そうかな? それは人それぞれじゃない?」
「いやいや、でも一緒に住んでるのにさあ」
「……だって私たち、お互い好きで結婚したわけじゃないし」
そう言った自分の声に、やけに言い訳がましい響きが含まれていることに真帆は気付いている。
(だって彼は私のことを好きじゃないし、私は彼のことを好きじゃない)
真帆は結婚してからずっと、自分にそう言い聞かせている。
もしかすると真帆は、家族愛以外の感情を穂高に抱くことを、無意識のうちに恐れているのかもしれない。
こっぴどく真帆のことを裏切った、かつての恋人のことを思い出す。彼は真帆を抱きしめ愛していると嘯いた唇で、他の女にも同じことをしていた。そのとき真帆は、恋愛感情とはなんと脆弱でくだらないものなのかと、心の底から失望した。
温かくて居心地の良い穂高との夫婦関係に、恋愛感情を持ち込みたくなかった。いつか裏切られるかもしれない。傷つくかもしれない。そんな不安を抱えるぐらいなら、最初から恋じゃない方がずっと気が楽だ。
「あっ、大汐さん!」
そのとき、背後から明るく声をかけられた。ビクッと肩を揺らして振り向くと、トレイを持った柏崎が立っている。まるで飼い主を見つけたゴールデンレトリバーのようにご機嫌だ。尻尾があれば千切れんばかりに振っていただろう。
(もしかして、今の話聞かれた?)
真帆の背中に冷や汗が流れる。柏崎は真帆の動揺などつゆ知らず、ニコニコと話しかけてきた。
「隣空いてる!? いやあ、今日席いっぱいでさー」
真帆の返事を待たずに隣に座ろうとした柏崎を、風花が「ちょい待ち」と制止する。
「カッシー、あんたはわたしの隣」
「なんだよ鶴橋、そんなにオレに隣にいてほしいの?」
「なにバカなこと言ってんの。あんたが真帆狙いなの、お見通しなんだからね」
「ちぇー。もう諦めたってば。不倫はしねーよ」
柏崎は不服そうにしつつも、風花の隣に腰を下ろす。「いただきまーす」と手を合わせてから、トレイに乗ったカツ煮定食を食べ始めた。食べながら、さりげなく真帆の弁当箱を覗き込む。
「あっ、大汐さんオムライス食ってる! もしかしてそれ手作り?」
「うん、ゆうべの残りだけど。夫の好物なの」
「へえ、そうなんだ」
真帆の牽制にも、柏崎はそれほど堪えた様子はない。それにしても、恥を忍んでイチャイチャしている写真を送ったのに、あまり効果がなかったのだろうか。やはり穂高の笑顔が足りなかったのかもしれない。
「そういや、さっき話聞こえちゃったんだけどさ」
さらりと切り出した柏崎に、真帆は内心ギクリとする。しかし平静を装い、「さっきの話って?」と首を傾げてみける。
「好きで結婚したわけじゃない、とか」
まずい、ばっちり聞かれていた。しかし真帆は少しも表情を動かさず、動揺を表に出さないよう努めた。
「してないよ、そんな話。ね、風花」
「う、うん。してない」
真帆と違って、風花はあまりポーカーフェイスが得意ではない。あからさまに目が泳いでいることに、柏崎も気付いているだろう。
しかし悪いのは風花じゃない。こんなところで周りも気にせず話をしていた真帆の方だ。
「いやいや、オレちゃんと聞いてたよ。聞き間違いじゃねえって」
「……」
「やっぱり大汐さん、ほんとは夫のこと好きじゃないんでしょ」
柏崎はじっと――どこか真帆のことを責めるような目つきで――こちらを見据えている。真帆は猛スピードでオムライスを平らげると、弁当箱の蓋を閉めた。
「……もし本当にそうだったとしても、私が結婚してることには変わりないでしょう。他の人が入り込む余地なんて、ないよ」
真帆がぴしゃりと言い返すと、さすがに柏崎は黙り込んだ。風花は居心地悪そうに、紙パックの野菜ジュースを飲んでいる。
(愛がなければなんだというの。恋じゃなくて何が悪いの。そんなものがなくたって、私と穂高はちゃんと信頼で結ばれてる)
柏崎はまだ何か言いたげだったけれど、真帆は「仕事残してきたから、先に戻るね」と言って、足早にその場から立ち去った。