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25:今度はきっとハッピーエンドで

 結婚してから初めての喧嘩を乗り越え、穂高と真帆は無事に仲直りを果たした。これでようやく、今まで通りの関係に戻る――と、思われたのだが。


 八月に入ると、ますます暑さは厳しくなった。空には目がチカチカするほどの眩しい太陽が輝いており、窓ガラスを通過する陽射しは燃えるように熱い。洗濯物がよく乾くのはいいことだけれど、夏の方ももう少し手心を加えてくれてもいいのに。

 真帆と穂高は、休日の朝でも早起きだ。午前中のうちに掃除と洗濯、買い物を済ませて、部屋に戻って昼食を食べ終えた頃には、もうクーラーの効いたリビングから一歩も動きたくなくなっていた。さすがの真帆も、この暑さだとエアコンをつけることに異議はない。

 読書でもしようかとハードカバーの小説を広げたところで、穂高がぽつりと言った。


「暇だな。映画でも観るか」

「ええ……今から外に出る気力ないよ」


 メイクも近所のスーパーに行く程度の適当なものだし、心も格好も完全にリラックスモードに切り替えてしまった。この快適な空間を抜けて、外のうだるような暑さの中に飛び出していく気力はもうない。


「俺だってそうだよ。映画館に行くとは言ってない」


 穂高はそう言って、自前のタブレット端末を取り出すと、ケーブルでテレビに繋いだ。すると、タブレットの画面がそのままテレビモニターに映し出される。おお、文明の利器。

 穂高は動画配信のサブスクリプションに加入しているらしく、たまに一人で映画を観ている。休日各々好きなことをしていることが多いので、一緒に観ようと言われるのは初めてだった。


「せっかくだし酒でも飲もう」

「なにが〝せっかく〟なのかわからないけど」


 穂高は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出すと、テーブルの上に置いた。真帆の隣に腰を下ろして、タブレットの画面を見せてくる。


「真帆、なにが観たい」

「うわあ、こんなにあったら選べないな……」


 ずらりと並んだ動画のサムネイルに、なんだかめまいがしそうになる。世の中にはこんなにも映像作品が溢れているのか。このすべてが月々数百円で観れてしまうなんて。きっと一生かけても全部は見きれないのだろうな、と気が遠くなった。


「……うーん、じゃあこれ」


 真帆が指差したのは、去年公開された邦画だった。選んだ理由は、サムネイルに出ている主演俳優の顔が穂高に似ていたからである。

 真帆はあまり芸能人に詳しくないし、その俳優のファンというわけではない。けれど彼をテレビで見かけるたびに「穂高に似ているな」と目で追うようになり、いつのまにかちょっと好きになっていた。

 穂高は真帆が選んだ作品のあらすじに目を通すと、「ほんとにこれでいいのか」と念を押してきた。見ると、「父と娘の絆を描いた感動大作」というキャプションがついている。妻を亡くしたシングルファーザーと難病に侵された娘の物語、らしい。


(もしかして、父を亡くした私のことを気遣ってくれているんだろうか)


 もしだとしたら、無用の心配である。真帆はフィクションはフィクションだと割り切るタイプだし、自分の境遇と重ねて涙を流したりしない。

 真帆がケロリと「大丈夫」だと言うので、穂高はそのまま動画を再生した。




 40インチの薄型テレビには、病室で横たわるいたいけな少女の姿が映し出されている。ベッドの横に置かれたローズピンクのランドセルは、一度も使われていない。娘は父に心配をかけまいと健気に微笑み、父は娘から見えないところで涙をこぼす。

 子役の演技が上手いこともあり、なかなか引き込まれる作品だったが、真帆は映画に集中できなかった。ストーリーよりも、今隣にいる男のことの方がよほど気になる。

 照明を落としたリビングで、穂高と真帆は二人掛けのソファに並んで座っている。それ自体は別に、そんなに珍しいことじゃない。問題は、その距離感だ。

 真剣な顔でテレビ画面を見つめている夫は、真帆の左側に完全に寄りかかっている。互いの二の腕がぴったりと重なり合って、首を少し回せばすぐそこに穂高の顔がある。体重をかけられているわけではないからそんなに重くはないけれど、触れた部分の体温は高くて、なんだか落ち着かない。

 無性に喉が渇いてきて、真帆はテーブルにある缶ビールを手に取った。さっきスーパーで購入したレモンビールは夏にぴったりの爽やかさで、冷たい泡が喉を通り過ぎていく。と、隣から伸びてきた手が缶を奪った。


「……自分のあるでしょ」

「味が違う。一口もらうぞ」


 穂高はそう言って、真帆の返事を待たずに缶に口をつけた。少し長い首に浮き出た喉仏が、ごくりと動く。

 そのまま「はい」と返されたけれど、真帆はすぐに口をつけることができなかった。


(なんだか最近、やけに穂高の距離が近い気がする)


 仲直りをしてから、ずっとこうだ。普段の態度は変わらないけれど、こうして二人でテレビを見ているときなんかに、まるで恋人のように擦り寄ってくることがある。あんまりいやらしい触れ方ではないけれど、妙に色気があって戸惑ってしまう。

 とはいえ夫婦の距離感としては、きっと不自然なものではないのだろう。もしかすると穂高は、できるだけ夫としての振る舞いをしようと努めているのかもしれない。こうして意識してしまう真帆の方が、きっとおかしいのだ。


 物語は進み、クライマックスに差し掛かっていた。いよいよ娘の病状が悪化し、ようやく「死にたくない」と本音を溢した娘を、父は抱きしめる。

 真帆は微動だにせず、テレビ画面を見つめていた。どれだけ達者な演技だったとしても、自分の中の冷めた部分が、「これは作り話だ」と囁いてくる。昔からそんなに涙脆い方ではなかったけれど、父が亡くなってからは、物語に感動することはほとんどなくなった。感情を揺り動かされることを、身体が拒絶してるみたいに。

 そのとき真帆の頭の上に、こてんと穂高が寄りかかってきた。彼のシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐって、ぎくりとする。寝ちゃったのかな、と思って視線を上げてみると――驚くべきことに、穂高はじっと真帆のことを見ていた。

 唇が触れ合いそうなくらい近くに、穂高の顔がある。涼しげな黒の瞳が、薄闇に浮かび上がる。改めて間近で見ると、画面の向こうの俳優よりもずっとかっこいい。思えば結婚してから、夫とこんなにも接近したのは初めてかもしれない。


「……どうしたの」

「泣いてる?」

「泣いてないよ。見たらわかるでしょ」

「そうか」


 穂高はそう言うと、再びテレビへと視線を戻した。けれどもいっこうに身体は離してくれないので、真帆のソワソワは消えないままだ。

 映画の中で、少女は治療の甲斐もなく息絶える。大切な人を亡くした男が慟哭するシーンでも、真帆の心は少しも動かされなかった。


「つまらなかった?」


 エンドロールが流れ、動画を停止した穂高が真帆に尋ねた。


「……え? ううん……いい話だったと思うよ。娘役の子、演技上手いよね。あと主演の俳優さん、最近ちょっと好きなの」

「ふーん。真帆もそういうの興味あるんだな」

「だって、この人穂高に似てない?」

「それは悪い気しないな」


 普段は顔面を褒められてもしれっと肯定するだけの穂高だけれど、今日はなんだかやけに嬉しそうだ。ご機嫌オーラを振り撒きながらビールを飲む夫に向かって、真帆は質問を返した。


「穂高は? 映画、面白かった?」

「俺はやっぱり、ハッピーエンドがよかった」


 穂高の返答を聞いて、たしかにそうだな、と真帆は思った。本当は真帆も、心のどこかで父娘に奇跡が起きるのを願っていたのかもしれない。

 作り話だとしても、いや、作り話だからこそ。奇跡が起きて、救われてほしかった。幸せに暮らす父と娘の姿を、見てみたかった。


「次、何観ようか」

「……思いっきりハッピーなやつがいいな」


 大切な人とお別れするのは、現実の世界だけでいい。

 真帆の言葉に、穂高は「了解」と答えてくれた。


 そのあと彼が選んだ洋画のラブコメディはとびきりのハッピーエンドだったけれど、途中のベッドシーンで真帆は大量に冷や汗をかいてしまった。

 視線を外すのも変な気がして、ベッドの上で絡み合う男女を真顔で睨みつけていた。隣にいる穂高が平然と真帆の手を握ってきたので、なお心臓に悪い。すっかりぬるくなったビールは、真帆の体温をちっとも下げてくれなかった。

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