24:仲直りのチュー
「うう……ほんっとごめんねえ真帆ちゃん……私がお義父さんに、べらべら真帆ちゃんのこと話したばっかりに」
隣に座った千明は、そう言ってしょんぼりと肩を落とした。しょんぼりしながらも、ぐいぐいと日本酒を飲むことも忘れない。
真帆はグラスに口をつけたあと、「いいえ」とかぶりを振った。
「千明さんのせいじゃないです。遅かれ早かれ、お義父さんに挨拶はするつもりだったので」
「でもさあ……真帆ちゃんの職場まで教えたのはやりすぎだったよ。穂高くんにしこたま怒られちゃった。伊織くんが」
千明はまるでわんこそばのような勢いで、次々と日本酒のグラスを空にしている。今日は千明の奢りとのことだったが、お会計は大丈夫なのかな、と心配になってしまった。耕助が「破産するかと思った」と言ったのも頷ける。
耕助に真帆の情報を横流しした千明は、事の顛末を聞いてすぐに連絡してきた。千明は平身低頭で謝罪をし、「お詫びに奢らせて」と飲みに誘ってきた。千明とゆっくり話したいと思っていた真帆は、二つ返事で了承した。
穂高に「千明さんと飲みに行く」と伝えると、彼は言葉少なに「わかった」と答えた。当たり前だけれど、迎えに行く、とは言ってくれなかった。
耕助に会ったあの日以来、穂高とのあいだには気まずい空気が流れている。彼はきっとまだ、真帆に腹を立てているのだろう。一緒に食卓を囲みはするが、穂高はすぐに寝室に引っ込んでしまい、ろくに交流していない。ときおり、業務連絡のような会話をポツポツと交わす程度だ。早急に関係の修復を図らなければと思ってはいるのだが、どうにもきっかけがない。
真帆が千明に誘われてやってきたのは、お洒落な雰囲気の日本酒バーだった。
千明はどうやらこの店の常連らしく、カウンターの向こうにいる店主とも親しげに会話を交わしている。真帆はそれほど酒を飲む方ではないけれど、行きつけの店があるというのはなんだか憧れる。
「真帆ちゃん、飲んでる? 遠慮しないでね!」
「いえ、まったく遠慮はしてないです。千明さんに合わせて飲んでたら、すぐ潰れちゃいますよ」
「そうなの? いやー、看護師仲間はみんな同じぐらい飲むから感覚が麻痺してるなあ」
「それはすごいですね。千明さん、お義父さんともよく飲みに行くんですか?」
「まあ、たまにね。忙しい人だから。でも、いい店連れてってくれるんだよー! 最近は懲りたのか、あんまり高い店には行かなくなったけど! あ、今度二人で奢ってもらおうね!」
千明はニコニコと答えた。彼女は他人の懐に入り込むのが上手いのだ。こんな義娘ができたら耕助も嬉しいだろうな、と真帆は思う。どちらかといえば社交性に欠ける真帆は、彼女のことが心の底から羨ましい。
「……お義父さん、悪い人じゃないですよね」
真帆が言うと、千明は「私もそう思う」と頷いた。
「私、お義父さんのことわりと好きだよ。結構強引だし、ちょっと無神経だったり、昔っぽい考え方のところもあるけど。情に深い人だと思うし、芙柚のことも可愛がってくれてる」
「そうなんですね……」
「ただ、私とか芙柚には優しいけど……自分の息子にはねー。どうにも、昭和の頑固親父になっちゃうんだよね。本人も気にしてるみたいなんだけど」
穂高が来た途端に、表情を変えた耕助のことを思い出す。自分の身内に対して素直になれないというのは、たしかにありそうなことだ。やはりあの父子は、つくづく噛み合わない。
「伊織くんも今は父親とそれなりにうまくやってるみたいだし、穂高くんも真帆ちゃんと結婚して丸くなってくれたらいいのに」
「……私との結婚に、そこまでの影響力があるとは思えないんですが」
「いやいや、愛は人を変えるのよ。伊織くんなんて、私と出逢った頃はもっとヤバかったからね。愛の力って偉大だわあ」
千明が冗談めかして笑うので、真帆も薄い笑みを返した。
かつては尖ったナイフのようだったという伊織は、今は穏やかで紳士的な良き夫であり父親、という風情である。彼を変えたのは、紛れもなく千明の愛なのだろう。
愛の力は偉大、と言うのなら――やはり自分にはそんな力はないんじゃないかな、と真帆は思う。自分たちは燃えるような恋愛の末、結婚したわけではないのだ。
「それより、真帆ちゃん。お義父さんのことより、今は穂高くんと仲直りすること考えた方がいいんじゃないの?」
千明の指摘に、真帆はぐっと言葉を詰まらせた。たしかに、彼女の言う通りだ。
「……仲直りって、どうすればいいんでしょうか」
「えー? 真帆ちゃん、今まで穂高くんと喧嘩したことないの?」
「はい」
穂高のみならず、真帆はこれまで父親以外の人間と深刻な喧嘩をしたことがない。あれだけ長く付き合っていた、元彼とでさえも。何か不満に思うことがあっても、黙って飲み込んでしまうタイプなのだ。気持ちをぶつけるよりも、そちらの方が楽だから。
それでも穂高の前だと、真帆はいつもより素直に感情を出すことができる。戸惑いもあるけれど、穂高と一緒にいるときの自分が、真帆は嫌いではなかった。
「千明さんは、伊織さんと喧嘩しますか?」
「そりゃするよ。私が一方的に怒られることが多いけど。洗濯物の畳み方が悪いとか、出したものを定位置に戻せとか、晩ごはんいらないの連絡が遅いとか」
「どうやって仲直りするんですか」
「ゴメンねダーリン♡ 仲直りしよ♡ って言ってチューして終わり」
あっけらかんと答えた千明に、なんだか真帆の方が恥ずかしくなってしまった。自分にはとてもできそうにないので、参考にならない。
「……私には無理です」
「じゃあ、〝ゴメンね、おっぱい揉む?〟とでも訊いてみたら? 穂高くんムッツリっぽいし、効くかもよ」
「ハードルを上げるのはやめてください」
そんなことを言ったら、夫にドン引きされるのは必至だ。千明を軽く睨みつけて、真帆は日本酒を飲み干す。
結婚して三ヶ月以上経つというのに未だにキスのひとつもしてないんです、と言ったら、千明はどんな顔をするだろうか。
千明はまだ飲み足りなさそうだったが、伊織に子守りを任せているから、ということで早めに解散した。
地下鉄に乗り込むと、穂高に『今電車乗ったよ』とLINEを送る。すぐに既読がついたけれど、返信はなかった。やはりまだ怒っているのだろうか。
二十一時の車内はなかなか混雑している。真帆の正面には、スーツ姿らしい疲れた顔の男性が座っていた。ガタンガタンという揺れを感じながら、眠りにつくでもなく目を閉じた。
昔父と喧嘩したときは、どうやって仲直りをしていただろうか。特にごめんと伝え合うこともなく、いつのまにか元通りの関係になっていた気がする。当時の真帆は、それが当たり前だと思っていた。だって、家族だから。
それでも、家族だからという理由だけでは修復できない亀裂だって、きっとあるのだ。婚姻届という紙切れ一枚で、あっさりと家族になった真帆と穂高は、きっと紙切れ一枚で容易く他人になれる。
(ああ。それはなんだか……嫌だな)
五年近く付き合った彼氏に浮気されて別れを切り出されたときも、真帆は一度も縋ったりはしなかった。
それでも今は、たった三ヶ月生活を共にしただけの穂高のことを、失いたくないと思っている。
ぼんやりしているあいだに、自宅の最寄駅に到着していた。
電車から降りると、エスカレーターに乗って地上に出る。それほど酔っているつもりはなかったけれど、少しだけ頭がぼうっとしていた。千明につられて飲み過ぎただろうか。
定期入れをかざして改札を出たところで――黒のTシャツにスウェット姿の夫が、立っているのが見えた。目と目が合った途端に、一瞬で酔いが醒める。
「……穂高」
「おかえり」
「どうしてこんなところにいるの?」
「LINE見たから迎えに来たんだよ。帰ろう」
穂高はそう言って、真帆の手を取って歩き出した。スタスタと早足で歩く彼は、こちらを見ようとはしない。柔らかな街灯に照らされた彼の背中からは、不機嫌なオーラが漂っている。
喧嘩中なのに、きっとまだ怒っているのに。それでも彼は真帆のことを心配して迎えに来てくれた。
(私。やっぱりこの人と、ずっと一緒にいたいな)
もし彼に今すぐ別れようと言われたら、縋ってしまうぐらいには。たぶん、泣き喚いたりはできないだろうけど。
「穂高」
「……なんだよ」
「……私、穂高と紙切れ一枚だけの関係になりたくない」
穂高はぴたりと足を止めると、こちらを振り向く。怪訝そうに眉を寄せて、「……どういう意味?」と言った彼に、真帆は続けた。
「……私たち、いきなり夫婦になったでしょう」
「うん」
「だからやっぱり、まだお互いのこと全然知らないよ。夫婦だからっていう理由だけで、理解してもらえるなんて思わないし、理解したつもりにもなりたくない」
「……そうだな」
「それでも私はこれから、穂高とわかり合いたいと思ってる」
「……」
「でも、思ってることちゃんと言ってくれないと、わからないから。たまには喧嘩して、でも最後には絶対……仲直りしよう」
真帆はまっすぐに穂高の目を見つめながら、言った。
「ごめんね、穂高」
穂高は父とは違う。夫婦はもともと他人だ。家族だから何も言わなくても仲直りできるはず、なんて考え方は、ただの甘えだ。
しばしの沈黙のあと、穂高は深々と溜息をついた。
「……俺が先に謝ろうと思ってたのに」
繋いだ手が、ぎゅっと握り締められた。強い力だったけれど、全然痛くない。左手の薬指に嵌まった、プラチナの指輪の感触がする。アルコールが入っているはずの真帆よりも、穂高の手の方が熱く感じるのはどうしてだろう。
久しぶりに真正面から見た夫の顔は、なんだか叱られた子犬のようにしょげかえっていた。
(……もしかしてこの人、喧嘩のあいだ結構落ち込んでたのかな)
「俺、やっぱ今も親父のこと許せないし、嫌いだ。でも……真帆の父さんが言ってたみたいに、どっかで折り合いはつけたいと思ってる」
「うん」
「……真帆は何も悪くないのに、ガキみたいに拗ねてごめん」
「ううん。私も、勝手にお義父さんと食事に行ったのは無神経だった」
「できれば今後は、せめて事前に言ってくれ」
「わかった。……じゃあ、仲直りしよう」
真帆はそう言うと――人差し指を伸ばして、穂高の唇に押しつけた。むにっと柔らかな感触がする。千明直伝の、仲直りのチュー……の、代わりだ。さすがに、直接唇をくっつける勇気はまだない。
真帆の奇行に穂高は呆気に取られた表情を浮かべ、目を丸くしている。
「……え? 今のなに?」
「……なんでもないです」
なんだか恥ずかしくなった真帆は、穂高の顔が見れなくなって、スタスタと足早に歩き出す。
「ちょっと、真帆。今のって」
「いいから早く帰ろう」
穂高はしつこく理由を聞きたがったが、真帆は頑なに答えなかった。いくら夫婦といえど、言えないことだってあるのだ。