23:母が死んだ日
穂高の母親が死んだ日のことを、真帆はよく覚えている。
*
文化祭や体育祭が終わり十二月になると、一気に周囲は受験モードになった。真帆も例外ではなく、毎日必死で勉強に明け暮れている。父も「勉強優先だから、無理に家事をしなくてもいい」と言ってくれた。
しかし穂高はこれまでと変わらず、勉強しているのかいないのか、自分のペースを崩さない。教室では真面目に授業を受けているようだが、毎日母親への見舞いを欠かさない。彼と並んで帰ることにも、もうすっかり慣れてしまった。
重たそうな灰色の雲から、チラチラと白い粉雪が落ちてくる。マフラーに顔を埋めた真帆は、いつものように足早に穂高の隣を歩いていた。
そういえば彼と一緒に帰るようになってから、歩くのが速くなったような気がする。先日父と買い物に行ったときも、「真帆、そんなに急いでどこに行くんだ」と言われてしまった。
「……そういえば。母さん、一時退院できるみたいなんだ」
白い息を吐きながら、穂高が言った。真帆はやや視線を上げて、彼の顔を見上げる。
「えっ、そうなの」
「うん。年末年始に帰ってくるって」
そう言った穂高の表情はいつもと同じ仏頂面だったけれど、声は明るかった。真帆の方も嬉しくなって「よかったね」と笑いかける。
「体調良いの? 早く元気になるといいね」
「体調は……あんまり良さそうに見えないけど……よくわからん」
「そっか……」
「でも、父さんもさすがに正月ぐらいは仕事休むってさ。そりゃそうだよな。兄貴も帰ってくればいいのに」
今日の彼はやや饒舌だ。普段は父親のことを「親父」と呼ぶ彼が、「父さん」と呼んだ。きっと、もともとはそう呼んでいたのだろう。なんだかんだで育ちがいいなあ、と真帆はこっそり笑みを漏らす。
「五十嵐くんのお母さん、私も会ってみたいな」
真帆がなにげなく言うと、穂高はあっさり「いいよ」と答えた。意外な返答に、真帆は目を瞬かせる。
「え、いいの」
「うん。母さん、俺に友達いないんじゃないかって心配してるみたいだから。大汐のこと連れて行ったら安心するかも」
穂高の言葉に、「友達と思われていたのか」と少なからず驚いた。教室では挨拶程度しか交わさない彼との関係に、どういう名前をつけていいのか、真帆は未だにわからない。
「でも私、お見舞いとか用意してないよ」
「いいよ、そんなの。今から一緒に病室行こう。大汐、時間大丈夫か」
「うん。じゃあ少しだけ」
真帆は穂高について、小鳥遊病院へと足を踏み入れた。いつも前を通過するばかりだったので、中に入るのは初めてだ。中はとても綺麗で明るく清潔で広々としていたけれど、普段風邪をひいたときに行く町医者とは違う雰囲気に、真帆はややたじろぐ。
穂高は慣れた様子で受付に向かうと、「五十嵐幸の見舞いです」と告げた。受付の女性はそれを聞いて、何故だかひどく狼狽した様子を見せた。
「! 五十嵐さんの、息子さん」
「? はい」
「ああ、あのね、今、お母さんが……えっと、さっきからお父さんとも連絡がつかなくて……あの、少し待っててね」
受付の女性は震える手で受話器を取ると、誰かに電話をかけた。ほどなくして、年配の貫禄ある看護師が、血相を変えてこちらに走って来る。真帆はなんとなく、肌がざらりとするような嫌な予感を感じた。
「……穂高くん。落ち着いて聞いてね」
「……どうかしたんですか」
穂高もただごとでもない雰囲気を感じ取ったのか、横顔が強張っている。看護師は穂高の両肩に手を置いたまま、小さく息を吸い込んで、言った。
「お母さんの容態が急変したの。今すぐ、お父さんに連絡してくれる?」
その言葉で、穂高は何かを理解したようだった。彼の顔がすうっと青ざめていく。ぐっと拳を握り締めて、喉の奥から絞り出したような、掠れた声で尋ねる。
「……俺の母さん、死ぬの?」
看護師は何も答えなかった。きっと、答えられなかったのだと思う。必死で何かに耐えるような表情を浮かべて、瞳に涙を滲ませている。
穂高は「わかりました」と平坦な声で答えて、通話可能なスペースへと移動する。真帆はどうしていいかわからず、彼の背中を追いかけた。
穂高はぎこちない動きで携帯を操作して、耳に押し当てる。コール音の後に、機械的な留守番電話の音声が漏れ聞こえてきた。
「……んでっ、こんなときに出ねえんだよ! クソ親父!」
穂高は苛立った様子で、拳で壁を殴りつけた。
真帆はどう声をかけていいのかわからず、その場に立ち尽くすことしかできない。穂高の制服の袖を軽く引くと、彼はようやく真帆の存在を思い出したかのように、はっとこちらを向いた。
「大汐、俺……どうしよう」
青ざめた唇がわなわなと震えている。こんなに不安そうな穂高の顔を、真帆は初めて見た。こんな状況で一人でいるなんて、きっと心細くてたまらないに違いない。
居ても立っても居られず、真帆は穂高の手を握りしめた。氷のように冷え切った手が、少しずつ真帆と同じ温度になっていく。
こんな状況で何も言えない。言えるはずがない。真帆にできることは、ただ彼と一緒にいてあげることだけだ。
病室のそばの待合室で項垂れている穂高の手を、真帆はずっと握っていた。
彼の頰は色を失い、肩が小刻みに震えている。決して暖房が効いていないわけではないのに、むやみやたらと寒かった。腰を下ろした椅子はひんやりと冷たい。
二人で手を繋いで座っていたのは、永遠にも思えるくらいの長い時間だったけれど――おそらく一時間ぐらいだったと思う。
病室から出てきた先ほどの看護師が、小走りにこちらに駆け寄ってきた。穂高の顔を見て、「お父さんとお兄さんは?」と尋ねる。穂高はかぶりを振った。
「……どっちも、連絡つかなかった」
「……そう。じゃあ、穂高くん。来てくれる?」
「え……」
「……これがお母さんとお話しできる、最後のチャンスだと思う」
真帆の手を握る、穂高の手に力がこめられた。強すぎて痛いぐらいだったけれど、真帆も負けないぐらいの力で、彼の手を握り返す。看護師が真帆の顔を見て、不思議そうに瞬きをした。
「……あなたは?」
「……五十嵐くんの、クラスメイトです」
「そう。じゃあ、ここで……待っていてください。行きましょう、穂高くん」
促されるがままに、穂高は立ち上がった。繋いだ手と手が離れると、なんだかこっちが心細いような気持ちになる。穂高は不安げに真帆を一瞥したけれど、看護師に肩を抱かれ、そのまま病室へと入っていく。
数分ののち、病室から穂高の慟哭が聞こえてきた。こんなにも悲しくて痛ましい泣き声を、真帆は未だかつて知らない。
俯いた真帆の瞳からも涙がこぼれて、制服のスカートにぽたりと小さな染みをつくった。
穂高の父が病院にやって来たのは、母が亡くなってから三十分後のことだった。
息を切らせた彼は――普段の溌剌とした姿はおそらく美形なのだろうが――顔面蒼白で憔悴しきっていた。真帆の隣にいる穂高の姿を見つけるなり、「穂高」と声をかける。
穂高は真っ赤に泣き腫らした目で父親を睨みつけると、勢いよくスーツの胸ぐらに掴みかかった。
「……っ、いまさら、なんなんだよ! 遅えんだよ!」
「すまない、穂高……仕事が」
「仕事仕事って、家族より大切な仕事なんてあんのかよ! 今日のことだけじゃない! おまえが来ないあいだに、母さんは死んだんだぞ!」
穂高はそう言って、父親の胸に激しく拳をぶつけた。彼の父はがっくりと項垂れたまま、されるがままになっている。
「……母さんはっ、最期まであんたの名前呼んでた……!」
そのまま穂高は、ずるずると膝からその場に崩れ落ちた。下を向いたまま歯を食いしばって、音も立たずに涙をこぼす。
しんと静まり返った病院の廊下に、「……すまない」と呟いた父親の声がやけに空虚に響いた。
*
あのときの光景を、真帆はきっと一生忘れない。
当時の真帆は、穂高に何をしてあげられたわけでもない。彼が一番辛くて心細いときに、たまたまその場に居合わせただけだ。
母が死んでからの穂高は余計に怖い顔をするようになり、真帆とは卒業するまでほとんど言葉を交わさなかった。穂高が病院に行く必要もなくなったため、一緒に帰ることもなくなったからだ。
中学最後の卒業式の日に、他愛もない会話を交わした。じゃあな、と言って別れた彼とは、もう人生が交わることなどないと思っていたのに。
タクシーで同じ部屋に帰宅した穂高と真帆は、一言も言葉を交わさず、気まずい空気のままそれぞれの寝室へと引っ込んだ。
ベッドに潜り込んだあと、枕に顔を埋めて、穂高が言ったことを考える。
――家族だから愛し合うべき、わかりあえるべきだなんて先入観は呪いだ。
かつて真帆の父親が、穂高に向けた言葉だった。父は血の繋がりという呪いに、きっと長らく苦しめられていた。致命的に相性が悪い親子だって、きっとたくさん存在すると思う。
(でも、穂高は? 本当にそれでいいの?)
穂高が父親を憎む気持ちも、よくわかる。真帆だって、あのときは少なからず「ひどい父親だ」という感情があった。ひとりぼっちで母の死に立ち合わなければならなかった穂高のことを思うと、真帆の胸は締めつけられそうに苦しくなる。
それでも、今の真帆は――家族の死に目に「間に合わなかった」側の人間だ。項垂れて息子からの罵倒を受け入れるしかなかった耕助の無念さを、容易く想像できる。
本当にこのままでいいのだろうか。家族のつながりは、穂高にとって呪いでしかないのだろうか。永遠に父親を憎んだままで、いいのだろうか……。
そのとき真帆の瞼の裏に浮かんだのは、懐かしい父の笑顔だった。少なくとも真帆は、父と同じ笑い方をするあの人のことを、どうにも嫌いになれなかった。