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22:父子の呪い

 真帆が連れて行かれたのは、入るのに尻込みしてしまうような格式ある雰囲気の料亭だった。

 義父がやって来るなり、奥から店の主人らしき男性が出てきて、「ようこそいらっしゃいました」としきりに頭を下げた。隣にいる真帆にもにこやかな笑みで挨拶をしてくれたが、真帆の笑みは引き攣っていた。


(どうしよう。どう考えても、私が来るような場所じゃない。こういうところって、ドレスコードとかあるんじゃないのかな……)


 シンプルな半袖ニットのアンサンブルに、アンクル丈のパンツ、足元にいたってはぺたんこのレインシューズ。髪だって、適当にひとつに結んだ手抜きスタイルだ。不安になっていると、店主が真帆を見ながら言った。


「五十嵐さま、今日はずいぶんと可愛らしいお連れさんですね」

「でしょう。実は、次男が四月に結婚しまして。次男の嫁なんですよ」

「ははあ、あの男前の。さすが、賢そうなべっぴんさんだ」


 どう考えても穂高に釣り合う容姿でないことはわかっているので、お世辞を並べるのはやめてほしい。居た堪れなくなった真帆の表情は、ますます強張っていく。

 勝手にこんなところまで来てしまって、穂高は怒るだろうか。車の中で、『穂高のお父さんと食事に行ってきます』とLINEをしておいたけれど。仕事中なら、まだメッセージは見ていないかもしれない。


 そのまま真帆たちは、長い廊下を渡って離れにある個室へと案内された。床の間には立派な壺や掛け軸が飾られており、窓からはライトアップされた美しい庭園が見える。まさしく、政治家が賄賂のやりとりをするのに相応しい空間だ。


「食べる物はお任せで頼んでおいたけれど、飲み物はどうするかね。真帆さん、お酒は?」

「……嗜む程度です」

「なるほど。千明さんと初めて来たときは破産するかと思ったけれど、その心配はなさそうだね。遠慮せず好きなものを頼みなさい」


 そう言って差し出された飲み物のメニュー表には、値段が書かれていなかった。日本酒や焼酎の銘柄がずらりと書かれているけれど、真帆にはさっぱりわからない。まごついていると、義父がさりげなく助け舟を出してくれた。


「これなんか、飲みやすいんじゃないかね。私も同じものにしよう」


 注文を聞いた女将は、「ごゆっくりどうぞ」と襖を閉める。

 二人きりになるなり、義父は立ち上がって真帆の傍にやって来た。真帆が慌てて立ち上がると、名刺を取り出し、優雅な所作で差し出してくる。


「挨拶が遅れたね。穂高の父、五十嵐耕助(こうすけ)です」


 真帆は両手でぎこちなくそれを受け取った。名刺交換なんて、社会人になってからもほとんどしたことがない。

 名刺には「株式会社イガラシ 代表取締役社長 五十嵐 耕助」と書かれていた。薄っぺらいはずの名刺に重みを感じて、僅かに手が震える。


「あっ。わ、私……事務職なので名刺とか作ってなくて。すみません」

「いやいや、構わんよ。堅苦しいのはやめよう」


 耕助が再び腰を下ろしたので、真帆もおずおずと正座をした。何を差し置いても、真帆は彼に言わなければならないことがある。


「あの……このたびはお父さまにご挨拶もなく藉を入れて、申し訳ありませんでした」

「そんなこと、気にしなくてもいいんだよ。穂高からいきなり結婚したって聞かされたときは、驚いたけどねえ」

「すみません……」


 小さく背中を丸める真帆に、耕助は「いやいや」と破顔した。目尻と口元に浮かぶ笑い皺は、ほんの少しだけ真帆の父を髣髴とさせる。父とは似ても似つかないイケオジなのに、どうしてだろうか。


「あの穂高が結婚を決めたぐらいだから、よほど真帆さんに惚れ込んだんだろう。今までの恋人とは、まったく長続きしていなかったようだからね」

「えっ、そうなんですか」


 それは初耳だ。真帆から穂高の女性遍歴を尋ねたことはないし、本人もわざわざ口にはしない。どんな人と付き合っていたのかは多少気になったが、あまり深掘りしたくない気持ちの方が強かった。


「父親の私が言うのもなんだが、穂高(あいつ)は見た目はそれなりだろう。よほど性格に問題があるのか、もしかしたらとんでもない異常性癖なのかもしれないと思っていたんだが。アハハ」

「そ、そんなことないです。穂高さん、優しいですよ」


 真帆は慌てて否定した。これまでの恋人と長続きがしなかったなんて信じられないくらい、穂高は優しくて誠実だ。異常性癖の方は、まだどうかわからない。

 それにしても、耕助は穂高や伊織とは違って、なかなかおしゃべりなようだ。間が持たないよりは良いのだが、穂高の昔の恋人の話などこれ以上聞きたくはない。

 どうやって話題を変えようかと悩んでいると、タイミングよく料理とお酒が運ばれてきた。「乾杯」とグラスを差し出されたので、おっかなびっくりグラスを合わせる。

 耕助が選んだ日本酒は、口あたりがよく飲みやすかった。見た目も美しい前菜もおそらく美味しいのだろうが、真帆は緊張してゆっくり味わうどころではなかった。箸の持ち方やテーブルマナーをチェックされてはいないだろうか、と気になってしまう。


「……あの、穂高さんに……お見合いの予定があると聞いていたんですが。大手家電量販店の社長の娘さんだって」


 言ったあとで、これもあまり愉快な話題ではなかったな、と後悔した。耕助は「いやあ、知ってたのか」と気まずそうに頰を掻く。


「これではマトモな結婚なんてできないんじゃないかと心配になって、親心から見合いをセッティングしてやったんだが……どうやら余計なお世話だったようだな」

「政略結婚、とかではなかったんですか?」


 真帆が直球で尋ねると、耕助はハハハと豪快な笑い声をたてる。


「政略結婚! いやいや、そんなつもりはなかったよ。社長とは十年来の友人なんだが、娘さんが穂高を見初めたらしくてね。美人で気立ても良いお嬢さんだし、渡りに船だと思ったんだよ」

「……そうだったんですか」

「穂高が一言嫌だと言えば、ちゃんと断るつもりだった。それなのにあいつは、話もろくに聞かずに怒り狂って……結婚する相手ぐらい自分で選ぶ、って息巻いたよ」

「……」


 なんとなく、想像できる。穂高は昔から父親のことになると、冷静さを失ってしまう男なのだ。きっと怒りに身を任せた挙句、いきなりプロポーズをするなんて暴挙に出たのだろう。


「見合いを薦めたときは、真帆さんのことも知らなかったから。余計なことをしてすまないね」

「い、いいえ」

「良かれと、思ったんだが……私は何をやっても裏目に出る。これでは、穂高に嫌われても仕方ないな」


 ぐいっと日本酒を呷った耕助は、少し悲しげに目を伏せた。

 強引に見合いを進めたのはたしかに問題だったかもしれないが、真帆は耕助を責めるつもりにはなれなかった。そもそも見合いの話がなければ、穂高が真帆と結婚することはなかったのだ。

 それに、こうして直接会話を交わしてみると、穂高から聞いていた印象とはずいぶん違う。家族のことなんて顧みない冷たい父親、と言っていたが、息子想いのお父さんのように感じられる。もちろん、かなり強引でお節介なところは否めないが。


(もしかしてこの父子、致命的に話し合いが足りてないだけなんじゃないだろうか)


 父親への憎悪を拗らせた息子と、息子を案じるあまり空回りする父親。彼らはきっとボタンを掛け違えたまま、ここまできてしまったのだろう。


「いやいや、つまらない話をして悪かったね。私はそれより真帆さんの話を聞きたいな。真帆さんは、穂高のどういうところを好きになってくれたんだい」


 そう言った耕助は、目を細めて優しい顔で笑った。父と同じような顔で笑うんだな、と思って、真帆はなんだか嬉しくなった。


「私、は……」


 真帆が口を開いたそのとき、スパァン! と豪快な音を立てて襖が開いた。

 大きな音に驚いて目を向けると、息を切らせた穂高が立っていた。グレーのスーツの袖と裾がずぶ濡れになり、色が変わっている。討ち入りにでも来たのではないか、という勢いだ。


「真帆」


 真帆の名前を呼んだ穂高は、鬼のような形相ををしていた。こんな顔、結婚してから初めて見る。耕助のことは一瞥もせず、ズカズカと真帆に近づいてくる。ぐいと腕を掴んで、強引に立たされた。


「さっさと帰るぞ」

「あの、私」

「穂高。真帆さんに向かってその態度はなんだ」


 真帆が困惑していると、耕助が厳しい声で言った。耕助の表情からも先ほどまでの柔らかな雰囲気は消え失せており、厳格な父親の顔をしている。そこでようやく、穂高が耕助の方を見た。


「うるせえよ。あんたにだけは言われたくない」


 穂高は中学時代のあの日のまま、怒りに燃える瞳で父親のことを睨みつけていた。

「行くぞ」と強く腕を引かれる。真帆は首を回して振り向くと、耕助に礼を伝えようとする。


「お義父さん、今日は……」

「真帆さん、来てくれてありがとう。今度は寿司でも食いに行こう」

「今度なんかねえよ。二度と真帆に近づくな」


 真帆の代わりに、穂高が吐き捨てるように答えた。

 ぴしゃんと襖を乱暴に閉めた穂高は、こちらを振り向きもせずずんずんと歩いていく。腕を掴む手の力が強くて痛い。思わず顔を顰めたけれど、彼は気付いてくれない。

 穂高は料亭を出ると、店の前で待っていたタクシーに真帆を無理やり押し込んだ。運転手に自宅マンションの住所を告げると、タクシーは滑るように走り出す。まだ手を離してはくれなかった。


「穂高、痛い……」


 真帆が言うと、穂高はようやく手を離してくれた。それでも怒りに満ちた瞳はそのままで、なんだか恐ろしくなる。普段はあんなに優しい夫なのに。


「なんであいつと二人で一緒にいたんだ」

「……職場の前で会って、そのままごはん食べに行くことになったんだよ」

「は? そんなの断れよ」

「なんで、穂高にそこまで言われなきゃいけないの」


 一方的に責めるような物言いに、さすがにカチンときた真帆は言い返した。穂高も頭に血が上っているらしく、いつもより語気が強い。


「自分の妻が世界で一番嫌いな男とメシ食ってたら、腹も立つだろ」

「穂高、どうしてお義父さんのことそんなに嫌うの? 穂高が言うほど、悪い人じゃないと思うけど。ちゃんと話し合えば……」


 言ってから、真帆はしまったと口を噤んだ。目の前にある彼の顔を見た瞬間に、的確に地雷を踏み抜いてしまったのだと気付く。でも、もう遅い。

 穂高は怒っているのになんだか今にも泣き出しそうな顔で、こちらを睨みつけている。あのときと同じ表情をしていることに気がついて、真帆の胸は鉛を飲み込んだように苦しくなった。


「俺が親父を嫌う理由、真帆は知ってるくせに」

「……うん……でも」

「家族だから愛し合うべき、わかり合えるはずだなんて先入観は呪いだ。真帆の父さんが言ってたことだろ」


 穂高の言葉に、真帆はもうそれ以上は言い返せなかった。膝の上で握りしめた拳をひたすらに見つめる。タクシーに落ちる沈黙は重く、窓を叩く雨の音だけが車内に響いている。


「……真帆には……俺の気持ちなんか、わからない」


 その瞬間、繋いでいた手を急に振り解かれたような、突き放された気持ちになった。今隣にいる人は紛れもなく真帆の夫なのに、絶望的な距離を感じる。

 穂高が父親を憎む理由を、真帆はよく知っている。それでも、永遠に理解はできないのかもしれない。


 目を閉じた真帆は、十二年前の冬のことを思い出す。

 灰色の雲から白い粉雪が降り注ぐ寒い日に、穂高の母親が死んだ。

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