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21:嵐の予感

 七月後半になると新製品が発売され、真帆の業務量はまたぐっと増加した。

 腕に巻いたスマートウォッチには、十八時三十分と表示されている。端末の電源を落とした真帆は、うーんと大きく伸びをした。パキパキと関節が鳴る音が響いて、全身の筋肉が凝り固まっていることを思い知らされる。近いうちに、整体にでも行かなければ。

 本日中に終わらせなければならない業務は、とりあえず終わらせた。入電数そのものは多いが、幸いにも新製品に不具合などは発生していないようだ。既に定時よりも三十分以上残業しているし、残りの仕事は明日に持ち越して、今日は帰ることにしよう。


「高瀬主任。新製品に関する受電件数と問い合わせ内容の内訳データ、メールしておいたのでチェックよろしくお願いします。私、今日はそろそろ失礼しますね」

「お、サンキュー。さすが仕事早いな。おつかれー」


 上司たちに退勤の挨拶をするついでに、窓の外を覗いて様子を窺う。日暮れにはまだ早いが外は薄暗く、道ゆく人は皆傘をさしている。

 梅雨が明けたばかりだというのに今日は生憎の天気で、朝から激しい雨が降っており、この時間になっても弱まる気配はなかった。週末は晴れるらしいから、久々に枕カバーとベッドシーツの洗濯をしたいところだ。


「五十嵐さん!」


 フロアから出てエレベーターのボタンを押したところで、背後から明るい声で呼びかけられる。振り向いてみると、委託会社のオペレーターである加藤(かとう)が立っていた。


「加藤さん、遅くまでお疲れ様です」

「いえいえ! 五十嵐さんもお疲れ様です!」


 加藤はにこやかにそう言って、真帆の隣に並んだ。以前に加藤が受けた苦情を真帆が代わりに引き受けてから、彼女は妙に真帆に懐いている。同世代ということもあり、真帆も気安く感じていた。


「加藤さん、今日も大変でしたね。大丈夫でしたか?」


 加藤は今日も面倒な問い合わせを受けており、高瀬主任に途中で電話を代わってもらっていた。新人オペレーターである加藤はどうにも引きが悪く、厄介な客からの問い合わせを受けることが多い。決して彼女の対応が悪いわけではないのだが、間が悪いのか何なのか、何故か相手を怒らせてしまうのだ。

 

「あはは、なんだかややこしい案件に当たっちゃって……なんか、わたし〝持ってる〟んですよねえ」


 真帆は苦笑した。引きの悪さを〝持ってる〟と表現するあたり、なかなかポジティブだ。ひとつの苦情をうじうじと引きずらない彼女は、ある意味電話応対に向いているのかもしれない。


「でも、いつも五十嵐さんに助けられてます! ほんとにありがとうございます」

「いえ、私は何もできてないですよ」

「そんなことないです! わたしが困ってたら、いつも声かけてくれますし! それに五十嵐さんが作ったマニュアル、とってもわかりやすいです! みんな褒めてましたよ」

「えっ、ほんとですか?」

「今回は私たちの意見もたくさん吸い上げてもらって、ありがたいです」


 加藤の言葉に、真帆は胸は喜びに震えた。むずむずとくすぐったいものがこみあげてきて、頰が緩むのがわかる。

 マニュアル作成の際、真帆はオペレーターからの意見を極力取り入れるように心がけた。課長は「全部聞いてたらキリがないよ」と渋い顔をしたけれど、「実際に使うのはオペレーターの皆さんですから」と押し通したのだ。正直、全員の希望を取り入れるのは骨が折れたが、頑張ってよかった、と心の底から思えた。


(嬉しい。早く帰って穂高に報告しよう)


 もしかすると褒めてくれるかもしれない、と思うと心がふわふわと浮き立つ。嬉しいことがあったときに、それを共有できる家族がいるのは幸せなことだ。今日は気合を入れて、煮込みハンバーグを作ろう。

 軽い足取りでエレベーターに乗り込んだところで、はたと思い出した。そういえば今朝穂高が、仕事で遅くなるから夕飯はいらないと言っていた。

 一人で晩ごはんを食べるのかと思うと、浮かんでいた気持ちがやや沈む。自分のためだけに夕飯を作る気にはなれなかった。適当にあるもので済まそう。


 加藤と世間話を交わしながら会社を出ると、見知らぬ男性が守衛と揉めているのが見えた。一体何事だろうか、と好奇心から様子を窺う。


「すみません、こんなところで待ち伏せされたら困るんですが……」

「いやあ、義理の娘を待ってるんですよ」

「それなら、直接連絡してください! あなた、もう二時間もここにいるじゃないですか!」

「それが、連絡先を知らなくて。申し訳ないが、ここで待たせていただきたい」

「またそのパターンですか……」


 黒い傘をさした、スーツ姿の中年男性だ。やけに堂々としていて、不思議な貫禄がある。加藤も気になったのか、チラリと彼らの方を見た。


「あらあら。なんだか、揉めてるみたいですねえ」

「どうしたんでしょうか」

「でもあの男の人、結構かっこいいですね。おじさんだけど。じゃあ私JRなんで、こっちから帰りますね。失礼しまーす」

「はい、お疲れ様です」


 加藤を見送ったあと、再び先ほどの男性に視線を向けた。

 穂高と似たようなことをする人がいるものだ、と横目で通り過ぎようとして――はっとした。男性の顔に、見覚えがあったからだ。


 ―― 仕事仕事って、家族より大切な仕事なんてあんのかよ! 今日のことだけじゃない! おまえが来ないあいだに、母さんは死んだんだぞ!


 胸ぐらを掴んで激昂する男の子の罵倒を、がっくりと肩を落として受け入れていた。真帆が彼の顔を見たのは、十二年前のたった一度きりだ。それでも、今でもあの光景を鮮明に覚えている。


「……五十嵐、さん?」


 そこにいたのは間違いなく、穂高の父だった。

 真帆の呼びかけに、男がこちらを向いてぱっと表情を輝かせた。「ちょっと!」と叫ぶ守衛の制止を振り切って、にこやかに駆け寄ってくる。


「ああ! きみが真帆さんか。初めまして、穂高の父です。突然すまないね」

「あ、ど、どうも……あの、どうして私のこと」

「千明さんに頼んで、写真を見せてもらったんだよ。勤め先も教えてくれてね。いやあ、穂高には勿体ないぐらい可愛らしいお嬢さんだ」

「は、はあ……」

「ちょ、ちょっと! またあなたのお知り合いですか? 次から次へと困りますよ」


 守衛は真帆のことを覚えていたらしく、呆れたように睨まれてしまった。真帆は「すみません」と反射的に頭を下げる。

 穂高の父は気にした様子もなく、「場所を変えましょう」と真帆の肩を抱いて歩き出した。肩に置かれた左手の薬指に、プラチナのリングが輝いているのが目に入る。


「いやあ、会えて嬉しいよ。穂高の奴、きみのことを何も教えてくれなかったからね」

「すみません……ご、ご挨拶が遅れまして……あの、私」

「まあまあ、こんなところで挨拶するのもなんだ。どこかでゆっくり話をしよう。向こうに車を待たせているんだ。時間はあるかね?」

「は、はい」


 勢いに気圧された真帆が頷くと、「それはよかった」と破顔した。かなり若々しい見た目だが、笑うと年相応の皺が現れ、積み上げてきた経験と深みを感じさせる。

 それにしても、加藤の言う通り――俳優もかくや、というかっこよさだ。イケオジ、とでも言うべきだろうか。さすが穂高と伊織の父親というだけのことはある。


 会社の最寄りにあるパーキングには、場違いな白のベンツが停まっていた。穂高の父は手慣れた所作で後部座席のドアを開けて真帆を乗せると、傘を畳んで自分も隣へと滑り込む。運転席には、運転手らしい白髪の初老の男性が座っていた。


(うわあ。運転手つきのベンツなんて、初めて乗った)


 穂高がどちらかといえば庶民派なのですっかり忘れていたが、そういえば彼は国内でも有数の家電メーカーの御曹司なのだ。そして今真帆の隣にいる――真帆の義父は、イガラシの代表取締役社長である。経済誌の表紙なんかを飾るような人物だ。

 冷や汗をかく真帆の気も知らず、穂高の父は楽しげに話しかけてくる。


「真帆さん、和食はお好きかね?」

「え、ええ」

「それはよかった。いやね、この近くに私の行きつけの店があるんだよ。若いお嬢さんが好むようなお店かどうかはわからないけどね」


 あれよあれよというまに、ベンツが発進した。フロントガラスを叩く激しい雨を、ひっきりなしに動くワイパーが跳ね除ける。

 真帆の気持ちが追いつかないままに、トントン拍子に展開が進んでいく。穂高の強引でマイペースなところは父親譲りなのかな、なんて考えたことがバレたら、彼に怒られてしまうかもしれない。

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