20:虫よけするなら徹底的に
雑居ビルの七階にある居酒屋はざわざわと騒がしく、週末の活気に満ち溢れていた。同じ焼き鳥屋だというのに、先日穂高と訪れた店とはずいぶん趣が違う。用途やターゲット層が違うのだから仕方がないだろう。適材適所だ。
店内は冷房が効き過ぎていて、半袖のニットから出た二の腕が冷え切っている。鞄の中に入っているカーディガンを羽織ろうかと思ったが、煙の匂いがつくのも嫌だった。
「大汐さん、飲んでる?」
ニコニコと愛想良く話しかけてきたのは、同期の柏崎昴だった。明るく社交的で、賢そうなゴールデンレトリバーのような雰囲気がある。同期のあいだでは「カッシー」と呼ばれ可愛がられていた。
「うん、そこそこ」
「大汐さん、こういう集まりあんまり来ないから珍しいよなー。久々に会えて嬉しい!」
「そうだね。去年の秋、丸岡くんの結婚式の二次会で会って以来かな?」
「いやいや、三月の納会でちょっと喋ったっしょ」
「ああ、そうだったっけ」
今日は会社の同期の飲み会だ。真帆たちの世代は合計三十人弱の社員がいる。比較的仲の良い女子はみんな席が離れてしまい、真帆の周りは男性ばかりだ。風花は真帆から一番遠い対角線上のテーブルに座っており、楽しそうな声が聞こえてくる。風花の笑い声は特徴的で、離れていてもすぐわかる。
真帆はそれほど社交的な方でなく、飲み会にも滅多に参加しないため、同期ともそれほど親しくない。その中でも柏崎はまだ話しやすい部類だったので、遅れてやって来た彼が隣に腰を下ろしたとき、真帆はちょっとホッとした。
「ごめん。タバコ吸ってもいい?」
「どうぞ」
「ちょっと失礼」
柏崎は真帆に断ってから、専用のケースに入ったタバコを口に咥える。いわゆる加熱式タバコというやつだろう。ふーっと白い煙を吐いた瞬間、独特の匂いが漂ってきた。
「なんか飲む? オレ、ハイボールにする」
「ううん。私、もうウーロン茶にしとく」
それほど酒に強いわけではないし、穂高からも「あんまり飲み過ぎないように」と言われている。飲み会があることを伝えたところ、「店まで迎えに行こうか」と言われたけれど、それはさすがに固辞した。子どもではないのだから、そこまでしてもらう必要はない。
穂高の顔を思い浮かべた途端、早く帰りたいな、と真帆はこっそり溜息をついた。
耳に飛び込んでくる会話は、仕事や上司への愚痴、仕事のできない同僚の悪口、それから周囲に対するさりげないマウンティングだ。一対一で付き合うぶんには皆良い人だと思うけれど、こういう場に来ると時折げんなりする。
そもそも慣れない飲み会に参加したのも、風花に「結婚したこと、みんなに直接報告した方がいいんじゃない?」と言われたからだ。乾杯の前に軽く「結婚しました。新姓は五十嵐です」とだけ伝えたので、本日の任務は完了している。適当な理由をつけて早めに切り上げようか、と考えていた。
「大汐さん、あんまり飲まないよな」
「うん。少人数でのんびり飲むのは好きなんだけど」
「あ、じゃあ今度二人で飲みに行かね? オレ、串カツの美味い店知ってて……」
「おいおいカッシー、人妻を誘うなよ。新婚だぞ」
真帆の正面に座っていた増川が茶化すように言うと、柏崎はタバコを片手に「へ?」と大きな目を丸くした。
「え? どゆこと?」
「あれ、カッシー知らないの。大汐さん、結婚したんだってば」
「えええええ……!」
柏崎は驚愕の声をあげると、真帆に向かって「マジ?」と問いかけてきた。そういえば、飲み会に遅れてきた彼は、冒頭の真帆の報告を聞いていなかったのだった。
「うん。三ヶ月前に」
「薬指に指輪してるだろ。注意力ないな」
「うわ、ほんとだ……ダイヤまぶし……嘘ォ……オレ、全然知らなかった……」
「なんで知らないんだよ。イケメンと電撃結婚したって、結構噂になってたぞ」
「うちの部署、くたびれたジジイばっかでそういう噂とか全然入ってこねえから……」
柏崎は「大汐さんが結婚……」と頭を抱えて、テーブルに突っ伏してしまった。明らかに打ちひしがれた様子を見て、増川はニヤニヤしながら尋ねる。
「まあ、カッシーは大汐さん狙いだったもんなー。ずっと可愛いって言ってたし」
「……うん。ぶっちゃけると、入社してからずっと好きだった……」
「うお、マジでぶっちゃけるなよ。ここは笑って否定するとこだろ。修羅場に巻き込まれるのは嫌だぞ」
「だって、ほんとに好きだったんだよ!」
突然の告白に、真帆は正直面食らった。今までそんな様子、少しも見せなかったのに。
穂高と結婚する前だったら少しは検討したかもしれないが、今の真帆が出せる答えはひとつしかない。
「ごめんなさい。気持ちはありがたいけど、私もう結婚してるから、困るよ」
「うわあああ! 追い討ちやめて! 店員さーん! オレのハイボールまだ!?」
真帆が頭を下げると、柏崎は大袈裟に喚いた。「はああ」とタバコの煙とともに大きな溜息を吐くと、じっと窺うような視線をこちらに向けてくる。
「三ヶ月前ってことは四月? 大汐さん、納会で喋ったとき彼氏いないって言ってたじゃん……」
「そのときはいなかったんだよ。突然結婚することになったから」
「どういうこと?」
「……マッチングアプリで会ったのが、たまたま中学の同級生だったの」
結婚の詳細を話すのは憚られたが、告白された以上、できるだけ正直に答えるのが誠実というものだろう。話を聞いていた増川が、ヒュウッと口笛を鳴らした。
「うわ、なんだそれ。運命じゃん」
「だからって、いくらなんでも爆速すぎない!? オレなんか、ずっとチャンス窺ってたのに……去年彼氏と別れたって聞いたからそろそろいけるかなって……やはり行動力……行動力がある奴が勝つのか……」
ようやく運ばれてきたハイボールを、柏崎はごくごくと一気に半分以上飲んだ。勢いよくジョッキをテーブルに置くと、琥珀色の液体が跳ねる。
「どんな男か見たい! 写真ねえの!?」
「写真? あったかな……」
「いや、やっぱ見たくねえかも!」
「どっちなの」
「……ううん……見たい、見たいです! イケメンのツラ、拝ませてください!」
苦悩のあげく、柏崎は言い切った。彼の勢いに押された真帆はスマホを取り出したが、よくよく考えると、穂高の写真を撮った記憶などない。一応カメラロールをスクロールしてみたが、穂高の姿はどこにもなかった。
「ごめん、写真ないや……」
「え、そんなことある!?」
「結婚式もしてないし」
「ふつう、婚姻届持って写真撮ったりしねえの? 文字のとこに結婚指輪並べてさ」
「してないなあ……それどころじゃなかったし……」
婚姻届はコンビニのコピー機から出力したし、提出したときは猛ダッシュだったし、結婚指輪を嵌めてもらったときも部屋着姿だった。特に写真を撮るようなタイミングでもなかった気がする。
真帆の返答に、柏崎は「怪しい……」とジト目で睨みつけてきた。
「大汐さんの夫、ほんとに実在してんの?」
「実在してるよ。当たり前でしょ」
「何の前触れもなくいきなり結婚したりとか、写真一枚もなかったりとか、なんか不自然なんだよなあ。ほら、ドラマとかでよくあるじゃん。愛はないけどお互いの利害のために結婚しました! みたいなやつ」
「…………」
図星を突かれて、真帆は押し黙った。彼は妙に鋭いところがある。
柏崎はジョッキに入ったウーロンハイをぐいっと飲み干すと、「この目で見るまでは諦めきれない……」と呻く。こちらを見つめる瞳の奥にギラギラとした執念を感じた真帆は、ぞくりと背筋が冷えるのを感じた。
「おいおいカッシー、飲み過ぎだぞ」
増川が嗜めると、柏崎はすぐにいつもの笑顔に戻って「ごめん」と謝罪してくれた。それでも真帆の頭の中には、このままにしておくのはまずい、というアラートが鳴り響いていた。
「穂高。今すぐ一緒に写真撮ろう」
「なんでだよ。嫌だよ」
飲み会から帰宅するなり言った真帆に、穂高は怪訝そうに眉を寄せた。
「ええ……なんで」
「こんなくたびれたTシャツでダラダラしてるところ、誰も写真に収めたくないだろ」
「大丈夫。穂高はいつでもかっこいいよ」
「それはわかってるよ」
時刻は二十二時。穂高は既に風呂に入ったらしく、寝巻きのTシャツにスウェット姿でソファでくつろいでいる。そんな格好でも、さっきまで一緒にいたスーツ姿の同期たちの何倍もかっこいいと真帆は思う。
諦めずにスマホを構えようとする真帆に、穂高は「ちょっと」と慌てた声をあげた。
「なんなんだよ。急にどうした」
「お願い、一緒に写真撮ってほしいの。できるだけイチャイチャしてるように見えるやつ」
「……別にいいけど、理由を聞かせろ」
穂高の問いに、真帆はぐっと言葉に詰まった。柏崎のことをどこまで説明すべきか迷う。あまり余計な心配をかけたくはないが、何も言わないのも良くないだろう。
悩んだ結果、真帆は洗いざらい夫に話すことにした。
「同期の男の子に、穂高の存在を疑われてて。写真の一枚もないなんておかしい、とか。愛のない結婚なんじゃないかとか」
「余計なお世話すぎる」
「その子、私のこと好きだったらしくて。この目で確かめるまで諦めない、みたいなこと言われた」
「……はあ?」
穂高は表情を歪めると、チッと大きな舌打ちをする。小声で「やっぱ迎えに行けばよかった……」と呟いた。
「わかった。写真撮ろう。でも、ほんとにこんなカッコでいいのか」
「うん。さっきその子からLINE来てたから、もう写真撮って返信しちゃう」
「返信して即ブロックしろ」
「それはさすがに無理だよ。でも、なるべく関わらないようにする」
彼は意外と大人げない。真帆は穂高の隣に座ると、インカメラを起動して腕を伸ばした。ただ並んでいるだけだと、あまりイチャイチャ感は出ない。
「あんまり夫婦に見えないね。穂高、もっと洗剤のCMみたいな感じで笑ってよ」
「無茶言うな」
穂高は「ちょっとごめん」と断ってから、真帆の肩に腕を回した。抱き寄せられて、彼の胸に頭がぶつかる。真帆と同じボディーソープの香りがして、心臓が跳ねた。
「これでいいだろ」
「う、うん。あ……ごめん。私まだお風呂入ってないから、お酒臭いかも」
「いや、それは大丈夫。けど、ちょっとタバコの匂いする」
「……隣に座ってた子が吸ってたからかな」
きっと柏崎のタバコの匂いだろう。穂高は真帆の髪に鼻先を寄せると、露骨に顔をしかめた。
「それって、真帆に言い寄ってる男?」
「言い寄られてはないけど……そうだよ」
「ふーん」
耳元で穂高の声が響くのが、なんともくすぐったい。早く撮ってしまおう、と思ったけれど、緊張のせいか指先が震えてうまくシャッターが押せない。二、三度失敗したあと、ようやく撮影できた。
「撮れた。ありがとう」
「ん」
目的を果たして、ようやく穂高の身体が離れるとホッとした。スマホのディスプレイに表示された二人の表情はややぎこちないけれど、仲睦まじげにぴったりと密着している。これはどう見ても夫婦だ。間違いない。
真帆は柏崎に写真を送信すると、「ちゃんと実在してるし、仲良しです」と付け加えた。すぐに、がーん、とショックを受けたペンギンのスタンプが返ってくる。思っていたよりも軽い反応で安心した。
一応穂高にもトークアプリの画面を見せると、彼は「よし」と満足げに頷いた。
「じゃあ、早く風呂入ってこいよ」
「え、そんなに臭いかな……」
「臭くはないけど……自分の妻から他の男のタバコの匂いがするのは、なんか嫌だ」
カーディガンの袖口を鼻に持っていって、すんすんと嗅いでみる。穂高の言う通り、多少タバコの匂いがした。真帆はそれほど気にならなかったけれど、穂高は非喫煙者だから嫌なのかもしれない。
「今度飲み会あったら、絶対迎えに行くから」
穂高は真帆の髪を一房掴むと、そう囁いてくる。
(なんで、そんな顔してるの?)
やけに熱のこもった目つきに居た堪れなくなった真帆は、「……お風呂入ってきます」と言ってその場から逃げ出した。