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19:夫婦間における適正温度問題

 もともと他人だった人間と共に生活するというのは、ささやかな諍いがつきものだ。そのひとつに、エアコンの温度があると思う。


 六月最後の週末は相変わらずの雨模様で、スーパーへ買い物に出かけるのも億劫なぐらいだった。

 真帆はリビングのソファで読書をしており、穂高はタブレット端末で映画を観ている。つくづくインドアな夫婦だ。それでも真帆は、お互いに好きなことをしていても苦にならない、この空気が好きだった。

 二時間半の作品を観終わったらしい穂高が、ふいに立ち上がる。窓を閉めると、エアコンのスイッチを入れた。ピッという起動音のあとに、たちまち涼しい風が吹いてくる。そのまま座椅子に座った彼に向かって、真帆は思わず口を開いた。


「穂高、もうクーラーつけるの? まだ六月なのに、早くない?」

「早くない。それに、もう来週から七月だろ」


 最近はぐっと蒸し暑さが増して、穂高は頻繁にリビングのクーラーをつけるようになった。一人暮らしをしていた頃の真帆は「七月になるまではクーラーをつけない」という変な意地があったのだが、彼は少しの躊躇もなくスイッチを入れるのだ。真帆にはそれが理解できない。


「そもそも季節に関係なく、自分の体感で不快だと思ったらエアコンを入れるべきだろ」

「そんなに暑いかな? まだ我慢できるよ」

「せっかく文明の利器があるのに、不快な温度を我慢する意味がわからない」


 わからない、と言う彼の気持ちが真帆にはわからない。

 思えば真帆の父も、ギリギリまでエアコンをつけないタイプだった。特別暑さ寒さに強いとか、そういうことではない。単純に貧乏性なのだ。多少の我慢で節約できるならそれでいいや、と考えてしまう。父のそんな考え方が、おそらく真帆にも染みついているのだろう。


「というか、寒いならもっと厚着すれば」


 穂高は真帆の方をチラリと見ると、眉間に皺を寄せた。

 真帆の格好は、一昨年購入した夏物の部屋着だ。暑くなってきたので、先週クローゼットの奥から引っ張りだしてきた。カップつきのキャミソールと、薄手の五分袖カーディガン。ショートパンツは太腿が剥き出しになる丈だけれど、パイル生地で肌触りが良く、何より涼しいので気に入っている。


「別に寒いわけじゃないよ。暑くないだけ」

「暑くないなら、その格好はどうなんだ」

「そんなに変かな?」

「……いや。変じゃないから困ってる」


 穂高の言わんとしていることが理解できず、真帆は首を捻る。何か、彼を困らせるようなことをしただろうか。

 穂高はこちらを見ないまま、「脚が冷えるだろ」と言って、ぽいっとタオルケットを投げつけてきた。


「そんな心配するなら、ちょっとエアコンの温度上げてよ」

「嫌だ」


 すげなく断られてしまった。穂高との結婚生活はおおむね順調だけれど、こういうところは相容れない。




 仕事を終えて家に帰ると、部屋にはむっとした熱気が篭っていた。駅から歩いてきた真帆の身体は、やや汗ばんでいる。明日は雨が降るらしいし、今夜も蒸し暑くなりそうだ。

 もう七月になったのだから、真帆のマイルールに照らし合わせても、エアコンをつけてもいいはずだ。悩んだけれど、もう日も落ちかけているし、我慢できない気温ではない。空気の入れ替えもしたかったので、真帆は窓を開けて、扇風機のスイッチを入れた。

 穂高が持ち込んだ羽根なしの扇風機は最新式で、空気清浄機機能付きだ。彼は「QOLを向上させるための費用は惜しみたくない」と考えているらしく、家電なんかにも意外とお金を使うタイプである。家電量販店ではやけに楽しそうにしているので、もしかするともともと電化製品が好きなのかもしれない。イガラシの製品に対しては、氷のように冷たい視線を向けているけれど。


 着ていたシャツとスカートを脱ぐと、部屋着に着替える。黒髪はまとめてポニーテールにして、ヘアゴムで結んだ。さて夕飯の用意をするか、とシンプルなベージュのエプロンを身につける。

 穂高の帰りは今日も二十時前後だろうか。今日の夕飯は冷やし中華だ。卵を焼いて、キュウリとハムと共に細く刻む。お湯を沸かして、麺を茹でる。コンロの火をつけた途端に、みるみるうちに額に汗が噴き出してきた。冷やし中華は食べるときは涼しいけれど、作るときは暑いのが悩ましいところだ。

 耐えきれなくなった真帆はエプロンの下のカーディガンだけを器用に脱いで、リビングにあるソファの上に放り投げた。

 麺を茹でているあいだに、冷やし中華のタレを作る。醤油ダレもいいけれど、真帆はどちらかといえば胡麻ダレの方が好きだ。穂高の好みがわからないので、念の為に両方用意しておくことにしよう。

 小さなボウルでタレを掻き混ぜて、茹で上がった麺を上げ、ガラスボウルに盛り付けをしているところで、玄関の扉が開く音がした。穂高が帰ってきたのだ。


「おかえりなさい」

「ただい」


 キッチンに立ったまま穂高を出迎えると、彼は「ま」の口のまま、ぽかんと口を開けて固まってしまった。大きく目を見開いて、真帆のことをじっと見つめている。これ以上ないぐらいにガン見している。それこそ、穴が空くぐらいに。


「? どうしたの」

「……真帆、その格好」


 やっとのことで口を開いた穂高は、おそるおそる真帆を指差した。彼の人差し指の先を確認するように、己の姿に視線を移した真帆は、「あっ」と声をあげた。

 上から着たエプロンによって、キャミソールとショートパンツが完全に隠されている。穂高の方から見たら、まるでエプロンの下には何も身につけていないように見えるだろう。

 しまった。これでは夫を裸エプロンで出迎える痴女だと思われてしまう。真帆はキャミソールとショートパンツが彼に見えるよう、両手を広げてくるくるとその場で回転した。


「だ、大丈夫だよ、穂高。ほら、ちゃんと服着てる。セーフセーフ」


 穂高は一瞬、ホッとしたような残念そうな複雑な表情を浮かべたあと、すぐに唇を引き締め眉をつり上げた。


「……いや、それはアウトだろ。限りなくアウトだ」

「どうして」

「いいか。男ってのは〝エプロンの下に何も身につけていないかもしれない〟と妄想することで興奮してるんだから、実際に裸かどうかはもはやどうでもいいんだよ。シュレディンガーの裸エプロンだ」

「賢そうな顔して馬鹿みたいなこと言わないでよ……」

「とにかくその格好はアウトだから、早く着替えてくれ」


 そこまで言われると、真帆もさすがに恥ずかしくなってきた。エプロンを脱いで、慌ててキャミソールの上からカーディガンを羽織る。穂高はまだ怒った顔をしていて、腕組みをしたままこちらを見ている。


「なんでそんな格好してたんだ」

「暑かったから……」

「というか、この部屋が暑すぎなんだよ。クーラー入れればいいだろ」


 穂高はそう言って、素早く窓を閉めるとエアコンのスイッチをオンにした。ひんやりとした涼しい風が吹いてきて、汗ばんだ肌がみるみるうちに冷えていく。


「ちょっと設定温度低すぎじゃない?」

「適正温度だ」


 ギロリと睨みつけられたので、今回ばかりは真帆も「はい」と素直に引き下がった。

 なんだか脚が冷えそうだったので、部屋に戻ってハーフパンツに履き替える。寝室から出てきた真帆を見て、穂高は「よし」と頷いた。


「できれば、家ではそのくらいの露出度でいてくれると俺が助かる。我慢せずにエアコンも入れてくれ。熱中症になったら元も子もないだろ」

「ごめん……穂高も妻が痴女だと困るよね」

「まあ、家にいるぶんには別に困らないけど……いや、やっぱり困るかもしれん。心臓止まるかと思った」


 穂高は深々と溜息をつくと、額に手を当てて「変な夢見そうだ……」と呻いた。そんなに悪夢のような光景だっただろうか。なんだか申し訳ない。


 その日以来、真帆の部屋着はTシャツとハーフパンツになり、エアコンをつけるのを我慢することをやめた。熱中症は怖いし、何より夫の心臓が止まるのは嫌だったからだ。

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