1:そうだ、結婚しよう。
(そうだ、結婚しよう)
ベッドの中で目を覚ました真帆は、まだ夢うつつの頭のまま、そんなことを考えた。
腕を伸ばして充電器に繋がったままのスマホを掴むと、画面も見ずにアラームを止める。目を閉じたまま、今しがた思いついたばかりのアイディアを反芻してみた。
(うん、すごくいい。名案だ)
ボーッとしているあいだに、二回目のアラームが鳴る。今度は画面を確認して、スヌーズ機能もオフにした。真帆はベッドから這い出すと、スマホを片手に起き上がる。本棚の上に置いた父の写真に向かって、「おはよう」と声をかけた。
大学卒業と同時に、ワンルームマンションで一人暮らしを始めてはや丸四年。収納は少なく、ベッドとテーブルを置いたらぎゅうぎゅうになってしまうほどの狭さだけれど、駅近で築浅なので文句はない。真帆はもともと、ものをたくさん持つほうではないのだ。
カーテンを開けると、南向きの窓からさんさんと日差しが差し込んでくる。四月の太陽の光はぽかぽかと暖かい。清々しい青空が眩しくて、真帆は目を細める。
そんなに時間に余裕があるわけではないけれど、毎日朝食は食べることにしている。棚から皿を出して、袋に入ったシリアルを入れ、牛乳を注ぐ。機械的に口に運んでいるうちに、次第に脳が覚醒してきた。
リモコンに手を伸ばして、テレビをつける。毎朝見ている情報番組では、若者に人気のスポットだとして、流行りの施設を紹介していた。リポーターの女の子は最近デビューしたらしいアイドルグループのメンバーで、エクボが特徴的な可愛らしい顔をしていたけれど、名前は知らない。アイドルオタクの同期に訊いたら、きっと詳しく教えてくれるのだろうけれど。
シリアルを食べ終わると、洗面台で身支度を整える。いつもは好き放題に跳ねているロングヘアが、今日は驚くほど綺麗にまとまっていた。新しく買ったトリートメントがよかったのかもしれない。
特に予定があるわけではないけれど、いつもよりほんの少しだけ念入りにメイクをする。肌の調子が良く、ファンデーションのノリもやけに良い。ビューラーで上げた睫毛も、珍しくくるんと美しい弧を描いた。
なんだか気分が上がってきて、買ったばかりのラベンダーカラーのブラウスと、チェックのロングスカートを身につけた。全身鏡の前で、くるりと一回転してみる。いい感じだ。ノーカラーのジャケットを合わせることにしよう。
いつもより早く支度を終えた真帆は、スマホを取り出す。ふと思い立って、とあるアプリを立ち上げてみた。一年前に友人に勧められてインストールだけしたものの、登録もせず放置していたマッチングアプリだ。
プロフィールを登録してください、と表示されたので、必要最低限の項目を入力していく。本名をフルネームで入れるのは憚られ、名前はアルファベットで「maho」としておいた。年齢、職業と年収。相手に望む条件。顔写真は、先月の納会で撮ったものを登録した。かなりピンボケだけれど、まあいいだろう。一言コメントの欄に、少し考えてから、文章を打ち込む。
『私の家族になってくれる人を、探しています。』
ひとまず登録を終えたところで、テレビから今日の星占いが流れてきた。そろそろ家を出なくては、電車に乗り遅れてしまう。
真帆は通勤用のバッグにスマホを放り込み、リモコンを掴んだ。テレビを消そうとしたところで、アナウンサーの明るい声が響く。
「今日一番ラッキーなのは、水瓶座のあなた! 勇気を出して一歩踏み出してみればいいかも! ラッキーフードはもんじゃ焼き!」
真帆は水瓶座だ。真剣に占いを信じている方ではないけれど、少し嬉しくなった。なんだか今日は、いいことがありそうだ。
そのままテレビを消して、パンプスを履くと足早に部屋を出た。
年齢は二十六歳、今の会社に就職してから五年目。恋人はいない。同級生や同期でもまだ独身の子の方が多いし、特別結婚願望が強いわけではなかった。
そんな真帆が唐突に「結婚しよう」と思ったきっかけは、生命保険の勧誘だった。
真帆が勤める会社には、保険会社の外交員が出入りしていた。昼休みになると社内食堂の前に立って、社員たちに愛想よく声をかけていく。おとなしくぼんやりとした風情の真帆は、彼女の格好の餌食だった。
気の良い近所のおばさんという雰囲気を漂わせた外交員は、のんびりした見た目にそぐわず、なかなかのやり手だった。彼女の話を聞いているうちに、真帆は「たしかに、私も保険に入った方がいいかなあ」という気持ちになってきた。
しかしいろいろ話を聞いているうちに、ひとつの問題が浮上してきた。真帆には、死亡保険金受取人に設定できるような親族がいなかったのだ。
真帆の母は幼い頃に病死し、男手ひとつで育ててくれた父も、二年前に他界した。父と母はもともと、家族の反対を押し切って結婚したらしく、親戚とも疎遠だった。真帆は自分の祖父母の顔も知らない。生死すらもわからない。今の真帆に、家族と呼べるような人は誰もいなかったのだ。
真帆が事情をかいつまんで説明すると、外交員は渋い顔をした。
「ご家族がいないとなると……そうですねえ……」
「……どうしても、設定しないとダメですか?」
「死亡保障がなくても、万が一お亡くなりになられた際に返還金が発生する可能性があるので……」
「家族以外の……たとえば友達なんかに、設定できますか?」
「できなくもないと思いますが……事情を報告して、申請しないと」
これまで淀みない説明を続けてきた外交員の口調が、急に歯切れが悪くなる。
真帆はだんだん面倒になってきた。別に、そこまでして保険に入りたいわけではなかったのだ。「この話はなかったことに」と告げた真帆に、彼女は慌てたように言った。
「あの……ご結婚の予定は? もし配偶者の方がいれば、その方を設定することも……」
「……いえ、ありません」
話はそこで終わったけれど、真帆はその夜、ベッドの中でぼんやりと考えた。
(そうか。今の私には、家族がいないのか)
父が亡くなり天涯孤独となった後も、生活自体は問題なくできている。父はそれなりに財産を残してくれたし、会社からも毎月給料は貰っている。贅沢をしなければ、当面の生活には困らないはずだ。
仕事だってある。気を許せる友達だって、数は多くないけどいる。それほど多趣味な方ではないけれど、休みの日は家でのんびり過ごすのが好き。家族がいなくたって、現状困ることはほとんどない。
それでも真帆は、どうしようもない虚しさを感じた。自分が宙ぶらりんの状態で、たった一人で世界に浮かんでいるような気がした。ふわふわと無重力のまま漂う自分の手を、掴んで引き留めてくれる人は誰もいない。
そんな気持ちで眠りにつき、そして目が覚めた瞬間、真帆はまるで天啓を得たように思いついた。
(そうだ、結婚しよう。結婚すれば、私にも家族ができる)
まるで旅行会社のキャッチコピーのようなノリだが、京都に行くほど簡単ではないだろう。まあのんびり頑張ってみようかな、とそのときの真帆は呑気に考えていたのだ。
「真帆がマッチングアプリ!? どういう心境の変化?」
昼休み、社員でごった返す食堂で。真帆の正面に座った同期の鶴橋風花は、怪訝そうに眉を寄せた。
「急に結婚したくなったの」
真帆は持参してきた弁当を口に運びながら答える。風花は目を丸くした。
「ちょっと前まで、彼氏なんていらないって言ってたのに」
「うん。彼氏はいらないけど、家族は欲しいなって。ほら私、死亡保険金の受取人に設定できるような人もいないし」
「ああ、なるほど……」
風花はやや気まずそうに目を伏せる。入社時研修で同じグループになってから、同期の中では一番親しくしている彼女は、真帆の家庭の事情もよく知っていた。
すぐに視線を上げた風花は、やや冗談めかした口調になり、バシバシと真帆の肩を叩く。
「まあ結婚するにしても、まずは彼氏からでしょ! 真帆が新しい恋するの、いいことだと思うよ。あのクソ男と別れてからもう一年経つっけ?」
風花が「クソ男」と称した男の顔を、ずいぶん久しぶりに思い出す。
前の彼氏とは、学生時代から六年間付き合っていたが、いろいろあって一年前に別れた。当時はそれなりに落ち込んだが、最近は思い出すこともほとんどなくなっていた。
(そうか。結婚するってことは、もう一度誰かと恋愛するところから始めなきゃいけないんだ)
風花の言葉を聞いて、真帆はいまさらのように思い至った。それはちょっと、面倒臭いな。今から男の人と出逢って、連絡先を交換して、何回か食事なんかをして、交際を始めて、それから……という道程を考えると、げんなりしてくる。
「……うーん、なんだかやる気なくなってきたな」
「おおい。早い、早いよ」
「今から恋愛するの、面倒だよ。手っ取り早く、サクッと結婚だけしてくれる人が現れたらいいのに」
「気持ちはわからなくもないけど。そんな人、逆に怖いって」
風花は笑って、昼食のカップラーメンをすする。
筋金入りのアイドルオタクである風花は、給料のほとんどを「推し」である美少女に注ぎ込んでいるため、いつも金欠だ。給料日前になると、毎日のようにカップ麺を食べている。
「ま、マッチングアプリに登録するぐらいだから、真剣に結婚考えてる人は多いんじゃない?」
「そうだといいんだけど」
「アプリってどんな感じなの? 見せて見せて」
真帆はアプリを立ち上げると、スマホの画面を風花に見せた。簡素なプロフィール画面を見て、風花は「まったくやる気が感じられない!」と憤る。
「何この写真! ピンボケすぎて誰かわかんないじゃん! 真帆、せっかく美人なのにさあ!」
「あんまりいい写真なくて」
「だから、それ用に撮るんだってば! ちゃんとアプリで盛った方がいいよ!」
「その手があったか。でも、実物見てがっかりされるのは嫌だな」
「いやいや、婚活なんて相手を騙したもん勝ちでしょ!」
風花と軽口を叩き合っていると、ふとアプリに通知が来ていることに気がついた。確認してみると、受信ボックスにメッセージが一件届いている。
『あなたに興味があります。もしよかったら、お会いできませんか?』
差出人は「穂高」となっていた。
相手のプロフィールは、真帆に負けず劣らず簡素ものだ。写真も登録されていない。真帆と同じ歳の二十六歳、会社員。記載されている年収は、同世代にしてはそこそこ高かった。まあ、どこまで本当かどうかはわからないけれど。
一言コメントの欄には、『今すぐ結婚したいです』と書いてあった。何か結婚を急ぐ理由があるのだろうか。
「なにこれ、怪しいよ。なんか自動翻訳みたいなメッセージじゃん」
真帆のスマホを覗き込んだ風花が、顔を顰める。
「出会い目的かもよ。無視しなよ」
「うん……そうだね」
真帆は曖昧に頷いたけれど、なんとなく、無視できないものを感じていた。何故だかわからないけれど、そんなに悪い人ではないような気がしたのだ。「穂高」という名前のせいかもしれない。
――じゃあな、大汐。卒業しても元気で。
そう言って別れた彼が、今どこで何をしているのか真帆は知らない。幸せでいてくれればいいな、とは思う。
真帆は少し考えた後、「私でよければ」とメッセージを打ち込んで送信ボタンを押した。
数時間後、真帆は会社のふたつ手前にある駅前のコーヒーショップにいた。腕に巻いたスマートウォッチで時刻を確認すると、十九時を回ったところだった。
退勤後にアプリを確認すると、「穂高」からのメッセージが届いていた。今すぐにでも会いたい、今日の予定は空いているかとのことだった。
予定はなかったし、せっかく新しい服も着てきたのだから、そのまま帰るのはもったいない。そんな気持ちに駆られた真帆は、勢いで了承の返事を送った。
待ち合わせ場所を指定してきたのは向こうだった。もしかすると、意外と近くで働いているのだろうか。真帆にとっても定期圏内なので、まったく問題はない。
店内は意外と空いており、真帆は入り口から見えやすい窓際の席に腰を落ち着けた。カウンターで注文したエスプレッソを飲みながら、ちょっと早まったかな、とやや後悔する。
思えば写真も見ていないので、向こうの顔も知らない。濃紺のスーツを着ている、とのことだったが、果たしてすぐにわかるだろうか。こちらの特徴も伝えてある。幸いにも、ラベンダー色のブラウスを着ているのは真帆だけなので、あちらが気付いてくれることを祈るしかない。
ちまちまとエスプレッソを啜っていると、スーツを着た男性が店内に入ってきた。背が高く、すらりと脚が長い。どことなく華のあるオーラを纏っており、俳優のような雰囲気さえある。周囲の目を引く、整った顔立ちをしている。
濃紺のスーツは着ているけれど、まさかあんなイケメンが待ち合わせ相手のはずがない、と真帆はすぐに視線を逸らす。しかし男は、迷わずにまっすぐこちらに歩いてきた。目の前で立ち止まり、名前を呼ばれる。
「……大汐?」
「はい」
真帆は反射的に立ち上がった。身長百六十二センチの真帆よりも、彼はゆうに十五センチは背が高い。
間近で顔を見つめて、真帆はあっと声をあげた。目の前のイケメンに、覚えがあったのだ。
「……五十嵐くん?」
五十嵐穂高。彼はまさしく、真帆の中学時代の同級生だった。
友人というほど親しいわけではなかったが、それなりに浅からぬ縁がある。当然、卒業してからは一度も顔を合わせることがなかったが。
穂高は真帆の姿を頭から爪先まで眺めたあと、スマートフォンをずいと突き出してきた。
「もしかして、大汐が〝maho〟?」
そこには、「穂高」と書かれたプロフィール画面がある。真帆はぽかんと口を開けて、まじまじと彼の姿を見つめた。