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18:誠実なひと

 もも、ねぎま、つくね、ぼんじり。炭火で香ばしく焼いた焼き鳥を頬張って、冷えたビールをごくごくと喉に流し込む。

 ジョッキをカウンターに置くと同時に、真帆はしみじみ呟いた。


「私、今この瞬間のために仕事してるのかも……」

「同感だ」


 穂高の表情はいつもとほとんど変わらないが、どことなくご機嫌なオーラが漂っている。結婚して二ヶ月で、真帆も夫の感情の機微を読み取るのにも慣れてきた。

 真帆と穂高は、焼き鳥屋のカウンター席に並んで座っていた。穂高が調べてくれたお店は、騒がしくなく落ち着いた雰囲気で、価格もそこそこで料理も美味しかった。

 店員を呼び止めてビールのおかわりを注文した真帆を見て、穂高はやや驚いたように瞬きをする。


「真帆、意外と飲むな」

「うーん、そんなに強いわけじゃないけど……たまにこうやって飲むのは楽しいね」


 真帆はそれほどアルコールに強い方ではないし、家ではほとんど飲まない。全方位に気を遣う会社の飲み会は苦手だけれど、気の合う友人と、のんびり飲むのは嫌いではなかった。夫と二人で酒を飲むのも楽しいということは、新たな発見である。

 穂高の方も、普段家では酒を飲んでいる様子はない。たまに付き合いで飲みに行っているようだし、伊織の家に行ったときもそれなりに飲んでいたから、そこまで弱いわけではなさそうだ。


「穂高は、お酒好き?」

「それなりかな。義姉さんほどじゃないし。別にどうしても飲みたいわけじゃないけど、飲まなきゃやってらんねー、って日もたまにある」

「ああ、それはちょっとわかるなあ……」


 日々ストレス社会に揉まれていると、時には酒に溺れてすべてを忘れたい日もあるものだ。これまでの人生で、記憶を失うほど飲んだことなどないのだが。


「普段二人ではあんまり飲まないもんね。今度は家で飲もうよ。このあいだ、伊織さんからおつまみのレシピたくさん教えてもらったんだ」

「へー。さすが酒飲みの夫」

「二人で家で飲むなら、いくら酔っ払っても大丈夫だし」


 真帆の言葉に、穂高はなんとも言えない微妙な表情を浮かべた。ぐいっとビールジョッキを呷ったあと、じろりと横目で睨まれる。


「……ほんとに大丈夫だと思ってるのか」

「だって、家なら帰れなくなるようなこともないじゃない。眠くなったらそのまま寝れるし。あ、吐いたりはしないよ。たぶん」

「ふーん。安全だと思ってるわけだ」

「自分の家以上に安全な場所なんてないよ」

「いや、そうでもないだろ」


 そう答えた穂高はちょっと不機嫌そうだった。何が彼の逆鱗に触れたのかわからず、真帆は小さく首を傾げる。


「どうしたの?」

「……家で飲むのはいいけど、酔っ払うまでは飲むなよ」


 むすりとそう言った穂高に、真帆は素直に「わかりました」と返事をした。

 もしかすると、酔い潰れた真帆を寝室まで運ぶのは骨が折れると思っているのかもしれない。そんなの、リビングにでも放っておいてくれればいいのに。


 それからしばらく二人で食べて飲んで、真帆はお手洗いのために席を外した。トイレの鏡で顔を確認すると、頰が軽く赤らんでいた。それほど酔っている自覚はないけれど、お酒を飲むのはもうやめておこう。

 トイレを出て戻ろうとしたところで、カウンター席にいる穂高に、見知らぬ女性二人組が話しかけているのが見えた。穂高はやや迷惑そうな顔で、焼酎の入ったロックグラスに口をつけている。


「このお店、よく来るんですかあ」

「いえ、初めてです」

「てかお兄さん、すごいかっこいいですよね。俳優さんとかモデルさんかと思っちゃった!」

「違います」


 逆ナン、というほどではないけれど――たまたま出逢った素敵な男性に、酒の勢いを借りて話しかけてみよう、というところだろうか。穂高の塩対応にも怯むことなく、女性たちはあれこれ話しかけている。

 たしかに穂高は、中学時代からモテていた。真帆の知らない高校や大学の頃も、さぞかしモテたのだろうと思う。

 そのとき真帆の頭に浮かんだのは、校舎裏で女子生徒に告白されている中学生の穂高の姿だった。あのときの彼は、今の彼よりももっと露骨に迷惑そうな顔をしていた。





 真帆の通う中学校では、十月末に体育祭が行われる。受験生である三年生も、このときばかりは「中学最後の思い出作りに」と盛り上がっているようだ。

 しかし真帆はどちらかといえば冷めたタイプで、学校行事に殊更熱を入れる方ではない。「絶対優勝しようね!」と燃える周囲を、薄皮隔てた別世界を見るような気持ちで傍観していた。水を差さない程度に笑顔でやり過ごし、それなりに準備に参加することでお茶を濁していた。

 今日も、放課後に応援合戦の練習をしよう、というクラスメイトの群れから、真帆はこっそり逃げ出していた。地味でおとなしい真帆一人がいなくなったところで、どうとも思われないだろう。後から気付いた人間は、ノリが悪いとか空気を読めなどと陰口を叩くかもしれないが。

 今日の晩ごはんはクリームシチューにしよう、と心に決めて、真帆は目立たないように裏門から学校を出ることにする。遠く響くグラウンドのざわめきを聞きながら、人気の少ない校舎裏を横切ろうとしたところで、ぴたりと足を止めた。


「……五十嵐くんのこと、好きです。わたしと付き合ってください」


 そこに立っていたのは、クラスメイトの五十嵐穂高だった。どうやら、女子から告白を受けているようだ。堂々と現場を横切る勇気はなくて、真帆は反射的に木の影に身を隠す。

 穂高はやや面倒そうに頰を掻くと、突き放すような冷たい声で言った。


「俺、そういうの興味ないから。あんたのことよく知らないし、あんたも俺のこと知らないだろ」

「……これから知ろうとも思ってくれない?」

「思わない。お互い時間の無駄だよ」


 彼は少しの迷いも見せず、きっぱりと拒絶した。女の子は「わかった」と言って踵を返した。

 そのとき初めて、彼女の顔が見える。真帆の知らない女子だったけれど、あからさまに傷ついたような表情を浮かべていて、ほんの少し胸が痛んだ。

 女子が立ち去った後も、穂高はその場でしばらくぼうっとしていた。穂高がいなくなったら帰ろうと思っていた真帆は、タイミングを見失ってしまう。どうしようかと迷っていると、彼がぐるんと首を回してこちらを向いた。


「覗きかよ。趣味悪いな」


 穂高の言葉に、ぎくりと身体を強張らせる。

 卒業生が植えたらしい記念樹の影から身を出した真帆は、「ごめんなさい」と詫びた。しゅんとした真帆の様子に、穂高はやや慌てた声を出す。


「……冗談だよ。別に、覗かれたなんて思ってない」

「でも、こんなところあんまり見られたくないでしょ。さっきの子にも、悪いことしちゃった」


 もし真帆だったら、好きな人に告白して振られるところなんて絶対誰にも見られたくない。やっぱりすぐに立ち去るべきだった、と後悔していると、穂高が「大汐が気にすることじゃない」と言った。


「……さっきの奴を傷つけたのは俺だよ。大汐は悪くない」

「五十嵐くん……」

「大汐、今から帰るのか」

「うん。クラスのみんな、これからグラウンドで応援合戦の練習するって言ってたよ」

「俺も病院行くから帰る。カバン教室に置きっぱなしだから、ちょっと待ってて」


 一方的にそう言って、穂高は走って行ってしまった。どうやら今日も、彼と一緒に帰ることになるらしい。

 夏休みが終わってからも、穂高は母が入院する病院へと足繁く通っている。毎日ではないけれど、タイミングが合えば、彼と帰り道を共にすることもある。

 一緒にオムライスを食べたあの日から、劇的に距離が縮まったわけではない。それでも真帆は彼に対して、他のクラスメイトよりもほんの少し気安いような――どこか親近感にも似た感情を抱いていた。


「ごめん、待たせた」


 五分もしないうちに、息を切らせた穂高が戻ってきた。二人で裏門をくぐって、いつものように並んで歩く。相変わらず歩幅を合わせてはくれないので、真帆はかなり早足で歩かなければならない。

 大股で歩きながら、真帆は彼の横顔をチラリと盗み見る。彼はいつもそんなに元気溌剌としているわけではないけれど、今はちょっと疲れているようだ。普段は瞳の奥に覗いているメラメラとした怒りの炎も、今日は見えない。


「……五十嵐くん、なんか元気ないね」

「え? ああ……さっきの、ああいう……誰かに告白されたりとか、あんまり得意じゃない」


 そう零した穂高は、深い溜息をつく。彼ほどのイケメンだと、きっと告白されることも頻繁にあるのだろう。真帆は誰からも告白されたことがないので、彼の気持ちがよくわからなかった。


「どうして?」

「……自分勝手に好意をぶつけられるのなんて、迷惑だよ。いちいち付き合わされるこっちの身にもなってくれ」


 そのとき、目の前の信号が赤になった。黄色い点字ブロックの少し手前で、穂高は立ち止まる。スニーカーを履いた彼の足は大きい。ローファーを履いた真帆の足と並べると、余計にその大きさが際立つ。

 穂高の言わんとしていることも、わからなくもない。それでも真帆は同世代の女子として、彼に告白する女の子に寄り添う気持ちの方が強かった。


「私は、尊敬するなあ。好きな人に告白するのって、すごく勇気がいることだと思うから」

「……そうなのか?」

「もしお付き合いできなくても、告白してくれた相手にはちゃんと向き合った方がいいんじゃないかな。その方が、優しい……じゃなくて、真面目……でもなくて……」

「……誠実?」

「そう、そんな感じ」


 言ってから、少々おせっかいだったかもしれない、と思った。しかし穂高は気を悪くした様子もなく、顎に手を当てて考えこんでいる。


「……どう答えたらいいのか、わからない。こっちが何言っても、傷つけるだろ。テストの答えみたいに、正解があればいいのに」

「……別に、正解じゃなくてもいいんじゃないかな」

「え」

「五十嵐くんがその子のことを考えて出した答えだったら、正解じゃなくても、一番誠実な答えなんだよ。たぶん」


 ようやく、信号が青になる。真帆は歩き出したけれど、穂高は未だ足を止めたままだ。怪訝に思って振り向いてみると、驚いたように目を見開いてこちらを見つめている。


「……正解じゃなくてもいいなんて初めて言われた」


 穂高は足早に歩き出すと、あっというまに真帆を追い抜いて、横断歩道を渡り切ってしまう。真帆は小走りで、彼に追いついた。


「五十嵐くんは、誰かと付き合ったりしないの?」

「ない」


 真帆の問いに、穂高はきっぱりと断言した。クラスの男子はよく「彼女が欲しい」だなんて騒いでいるけど、彼はそういうタイプではないらしい。やはり硬派なのだ。


「大汐は?」

「へ? 私?」


 予想外に訊き返されて、間抜けな声が出た。真帆はぶんぶんと首を横に振る。


「な、ないよ……私、五十嵐くんと違って、告白されたこともないし」

「それもそうか」

「即答」


 当然のことながら、そんなことないよ、などとは言ってくれない。お世辞という言葉は、きっと彼の辞書には載っていないのだろう。わかっていたけれど、ちょっと拗ねた。


「……彼氏とかは、想像できないけど……でも、いつかは結婚したいかな」


 お父さんみたいな人と、という本音は、自分の胸の中だけに閉まっておく。筋金入りのファザコンだということがクラスメイトにバレるのは避けたいところだ。


「……俺がもし結婚したら、親父みたいにはならない。その人のこと、一生大事にしてやるのに」


 そう言って、穂高はどこか遠い目をした。ここにはいない誰かのことを――もしかすると、まだ見ぬ将来の結婚相手のことを――見つめているのかもしれない。彼の胸に潜むのが父親への反抗心だとしても、きっと彼は将来の妻を、このうえなく大切にするだろう。


「五十嵐くんと結婚する人は、幸せだろうね」


 心の底から、そう思った。





「一緒に来てる人、もしかして彼女ですか?」

「いいえ、妻です」


 女性からの不躾な問いに、穂高はきっぱりとそう答えた。ぼんやりと中学時代を思い返していた真帆は、その言葉ではっと我に返る。


「あ、真帆」


 こちらに気付いたらしい穂高が、目線だけで「早く戻って来てくれ」と訴えかけている。真帆は慌てて、彼の隣へと腰を下ろした。

 女性二人組は、真帆をじろじろと観察したあと、にこやかな笑みを浮かべて自分の席へと戻っていく。穂高ははーっと溜息をついた。


「黙って見てないで助けてくれよ」

「ごめん……ボーッとしてた。やっぱりモテるね」

「真帆と結婚したんだから、もうモテなくてもいいよ」


 穂高はげんなりしたように呟いた。予想外の角度から繰り出された殺し文句に、意図せず頰が熱くなる。


「ほっぺた赤いぞ。飲み過ぎか?」


 伸びてきた彼の手の甲が、真帆の頰に触れる。普段は温度の高い彼の手がひんやり感じるぐらいに、真帆の顔が熱くなっているということだ。彼の言う通り、飲み過ぎたのかもしれない。


「そろそろ会計するか。明日の朝メシ、ベーグル買って帰ろう」


 穂高の提案に、真帆は「うん」と頷く。

 穂高は誠実な夫だ。妻である真帆を、裏切るようなことは決してしないだろう。それでもそれは穂高が真帆を愛しているからではないことを、真帆は重々承知している。

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