17:ハッピー・フライデイ
六月も後半になると、真帆の業務量はやや落ち着いた。マニュアルの基本となる部分は完成したので、あとは細かい修正対応をするだけだ。
新商品の発売直後は問い合わせが増えて、また鬼のような忙しさになるのだろうが、今は考えないようにしておこう。願わくば、発売後に製品の不具合が発生しませんように。
ここ最近は雨続きで洗濯物も乾かず、じめじめと不快な天気が続いていたけれど、真帆の気持ちはウキウキと浮ついていた。大きなトラブルがなければ、今日は定時で帰れそうだ。
メール本文の「至急確認いたします」が「至急角煮いたします」になっていることに気付いて、慌ててバックスペースキーを連打する。
(危ない危ない。浮かれて変なミスをしないようにしないと)
「五十嵐さん、なんか今日可愛いカッコしてんね。どっか行くの?」
隣の席の高瀬が、からかうような口調で尋ねてくる。入籍してから二ヶ月が経ち、五十嵐さん、と呼びかけられるのにもそろそろ慣れた。真帆はほんの少し面映さを覚えつつ答える。
「夫と食事に行くんです」
今日は穂高が取引先から直帰する予定らしく、「金曜だし、どっかで飲んで帰ろう」と誘われた。仕事帰りに待ち合わせをするのは、マッチングアプリで再会したあの日以来だ。
それにしても、「可愛いカッコ」と他人から指摘されるほど、気合の入った服装をしていただろうか。たしかに昨夜はクローゼットをひっくり返して、悩んだ末にお気に入りのワンピースを選んだけれど。髪型だって、いつもは適当にひとつにまとめるだけなのに、早起きしてアレンジをしてきたけれど。
……冷静になって自分の格好を見ると、まあまあ気合いが入っているかもしれない。毎日顔を合わせている夫と食事をするぐらいで、何をそんなにはしゃぐことがあるのか。
「そっかあ、五十嵐さん新婚だもんなあ」
「高瀬主任のところは、去年お子さんが生まれたばかりでしたよね」
「そうそう。死ぬほど可愛いけど毎日大変だよ。嫁とは喧嘩ばっかりだし」
高瀬は三年前に社内の女性と結婚して、今は一歳になる子どもがいるらしい。イヤイヤ期が始まりつつあり大変だと愚痴をこぼしつつも、しょっちゅう娘の写真を見せてくる親バカなのだ。
「五十嵐さん、たしか今の旦那さんと付き合ってすぐに結婚したんだよな。じゃあまだ全然ときめくでしょ?」
真帆が穂高と付き合っていた時期なんてないのだけれど、説明が面倒なのでそういうことになっている。真帆は「ええ、まあ」と曖昧に濁した。
「高瀬主任は、ときめかないんですか?」
「そりゃ嫁のことは好きだけどさ。結婚してしばらくすると、やっぱ付き合ったばっかの頃のときめきは薄れるじゃん。家族愛に近いっつーかさ」
高瀬の話を、真帆は「そういうものか」と他人事のように聞いていた。最初から真帆と穂高のあいだには「ときめき」なんてものは存在しないのだから。
(でも、〝家族愛〟っていうのは、なんかいいな)
そうだ。きっとこんなにも心が浮かれるのも、真帆が穂高のことを家族として大切に思っているからなのだ。それ以外の理由なんてない。
そのとき高瀬の席の内線が鳴ったので、雑談はそこで打ち切りになった。真帆は再び端末に向き直ると、絶対定時で終わらせるぞ、と気合を入れてタイピングを再開した。
終業と同時に「お疲れ様でした」と挨拶をして回ると、真帆は光の速さで退社した。今日ばかりは、課長から余計な仕事を押し付けられるのはごめんだ。
昼過ぎから降り出した雨は未だやまない。雨予報だったため、レインブーツを履いてきてよかった。年甲斐もなく水溜りをぴょんと飛び越えてから、我に返って恥ずかしくなる。このままだと、浮かれてスキップでもしてしまいそうな勢いだ。
地下鉄に乗って、いつもとは違う駅で途中下車した。いわゆる歓楽街という風情で、路上にはレインコートを着た客引きがウロウロしていた。あまり一人でウロウロしないように、と穂高からは言い含められている。彼は意外と心配性だ。
カフェにでも入ろうかと悩んでいると、穂高から「今終わったから駅に向かう」というメッセージが届いた。南出口で待ってる、と返信をする。
一人でスマホをいじっていると、知らない男性に「おねえさん、なにしてんのー?」と声をかけられた。べらべらと一方的に話していたが、聞こえないふりをしていると、諦めてどこかに行ってしまった。こういう手合いは、無視を決め込むに限る。
そういえば、結婚してから外で待ち合わせをするのは初めてだ。一緒に住んでいるのだから当たり前なのだけれど、出かけるときは同じ場所から同時に出発する。なんとなくソワソワして、ちょいちょいと前髪を直してみたりした。
落ち着きなく待っていると、向こうから見覚えのあるスーツ姿の男性が歩いてきた。黒い傘をさした背の高い男性は、間違いなく穂高だ。
やはり彼は、遠目から見てもわかるぐらいにかっこいい。グレーのスーツもブルーストライプのシャツもよく似合っている。穂高のことは毎日朝から晩まで見ているはずなのに、格別にかっこよく見えるのが不思議だ。
(やっぱりこの人、ものすごく顔が良いんだ)
外に出ると、家では忘れかけていたことを思い知らされる。スウェット姿でダラダラしていてもかっこいいのだから、スーツ姿でキリッとしているところはもっとかっこいいに決まっている。
穂高、と手を振ろうとして――真帆は中途半端な体勢のまま固まった。穂高の持つ黒い傘の下にもう一人、見知らぬ女性がいたからだ。
焦茶色のミディアムヘアを内巻きにした、可愛らしい人だ。パリッとしたパンツスーツ姿で、どこか初々しい空気を漂わせている。彼女は傘を持った穂高に、ぴったりと寄り添うようにして歩いていた。
声をかけようか迷っているうちに、穂高が真帆に気がついた。目と目が合った瞬間、ばつの悪そうな表情を浮かべる。穂高は隣の女性をやや気にしつつも、真帆のところにやって来た。
「真帆。ごめん、待たせた」
「ううん、大丈夫」
「あっ、もしかして五十嵐先輩の奥さんですか? はじめまして!」
穂高の隣にいた女性が、愛想よく話しかけてくる。「はじめまして」と答えて、チラリと窺うように穂高を見ると、彼は「後輩の新木。同行だったんだ」とそっけなく答えた。
「五十嵐先輩の奥さん、ほんとに実在してたんですね! あんまり突然だったから、偽装結婚なんじゃないかとか言われてたのに」
無邪気な新木の言葉に、真帆は苦笑した。偽装結婚、と言われるとあながち間違いではないかもしれない。穂高は呆れた表情で「ドラマの見過ぎだろ」と言ったが。
「わーっ、あの五十嵐先輩を射止めた奥さんに会えるなんて光栄です! 先輩のファンに自慢しちゃお」
「……へえ。ファンがいるんだ」
「当たり前じゃないですかー! 私が入社したときから、とんでもないイケメンがいるって評判だったんですよー! しかも去年の営業成績はぶっちぎり一位だし!」
「そうなんだ、すごいね」
「五十嵐先輩が結婚したって聞いたとき、みんな阿鼻叫喚だったんですから! 私も含めてですけど、なんてね」
(それ、私に言っちゃうの?)
新木は冗談めかして言ったが、真帆は「なんてね」では済ませられなかった。「ふーん」と答える自分の声が暗い。
仮にも妻の目の前でそんなことを言ってのけるなんて、結構怖いもの知らずだ。彼女に向ける笑顔が、ぎこちなく引き攣るのがわかる。
「新木。余計なこと言うなよ」
穂高が舌打ち混じりに言った。滲む苛立ちを隠しきれていない。大人になってずいぶん丸くなったものだと思っていたけれど、こういうところは中学時代の面影がある。
「ごめんなさい! じゃあ私、お先に失礼しますね! 五十嵐先輩、お疲れさまでした! 奥さんとごゆっくり!」
そう言って新木は、ぶんぶんと手を振って改札を通り抜けていった。なんだか嵐のような女の子だった。真帆はただただ唖然と見送ることしかできない。
彼女の姿が見えなくなるなり、穂高が口を開く。
「浮気じゃないぞ」
「疑ってないよ」
穂高が浮気をするような人ではないことは、充分わかっている。真帆の返事に、穂高はややほっとしたようだった。
「よかった。変な誤解されたらどうしようかと思った。傘忘れたから駅まで入れてくれ、とか言われて」
「断れなかったんでしょ。優しい先輩だね」
「……いや、夫としては優しくないだろ。真帆の顔見た瞬間、やらかしたと思ったよ。今後は気をつける」
一体どんな顔をしていたのか気になったが、尋ねる勇気はなかった。いくら妻とはいえ、いたずらに彼の行動を縛るのは本意ではないし、自分にはそんな資格もない。
「全然気にしてない」と笑顔を作ると、穂高はなんだか複雑な表情を浮かべた。
「穂高がモテるのなんて、中学の頃から知ってるよ」
「……今は、学生時代ほどはモテてない」
モテることを否定はしないあたり、正直者の穂高らしい。
穂高はまだ何か言いたげにしていたけれど、結局諦めたように肩を竦める。「とりあえず、店行くぞ」と真帆の手を引いて歩き出した。