16:おかえりと言ってくれる人がいる
「おかえり。今日、遅かったな」
家に帰って穂高に出迎えられた瞬間、真帆はなんだかほっと全身の力が抜けてしまった。へなへなとその場に座り込んだ真帆を見て、穂高はぎょっとしたような顔をする。
「どうした。大丈夫か?」
「……なんでもない……なんか、疲れちゃって」
「すごい顔してるぞ。早く手洗って着替えてこい」
穂高はそう言って、真帆の腕を引いて立たせてくれた。ふらふらとよろめきつつも洗面所に行くと、鏡に映った自分の顔を見つめた。げっそりと青白く、疲れた顔をしている。穂高の言う通り、ひどい顔だ。
手洗いとうがいを済ませ、自室で部屋着に着替えて戻ると、穂高はダイニングテーブルに皿を並べていた。キッチンの流しには洗い物が山積みになっており、なかなかの惨状だったが、真帆はそれを見ないふりした。
「ごめんね。ごはん、ありがとう」
「いや、今日は早めに帰れたんだ。いつも真帆に任せきりで悪いから、たまには作ってみようと思って」
「そうなんだ。先に食べておいてくれてよかったのに」
「でも、一緒に食べた方が美味いだろ」
穂高の言葉に、真帆の心はほっと温かくなる。彼も自分と同じ気持ちでいてくれることが嬉しかった。
テーブルの上に載っていたのは、ベーコンとナスの入ったトマトソースパスタとサラダだった。真帆は「美味しそう」と頬を綻ばせる。ついさっきまでは食欲なんてなかったのに、ほんのり漂うガーリックの香りを嗅ぐと急に空腹を感じた。
「これ、穂高が作ったの? すごいね」
「ネットで動画見ながら作った。意外となんとかなるもんだな。悪いけど、サラダは買ってきたのを皿に移しただけだぞ」
穂高はほとんど料理をしたことがないと言っていたはずだけど、ここまでできるなんて大したものだ。いただきますと両手を合わせて、パスタを口に運ぶ。
「! 美味しい……」
お世辞でもなんでもなく、本当にそう思った。初めてでこんなに美味しいものを作られてしまったら、真帆の立場がなくなってしまいそうだ。穂高も満足げに「たしかに美味い」と頷いている。
「今度兄貴に料理教えてもらおうかな」
「あ、それなら私も一緒に教わりたいな。油断してたら、穂高にすぐに追い抜かれちゃいそう」
「いや、真帆の作ったやつの方が断然美味いよ」
思えば、外食以外で誰かが作ったごはんを食べるのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。父がいた頃も料理は真帆の仕事だったし、家に帰ったら晩ごはんが用意してある、というシチュエーションはほとんど記憶にない。
パスタとサラダを平らげたあと、後片付けをすると言ったが、穂高に「今日は俺がやる」と固辞された。彼も仕事で疲れているだろうに、心配をかけて申し訳ない。
真帆がソファでぼうっとしていると、後片付けを終えた穂高が戻ってきた。隣に座った彼の横顔を見て、しみじみと呟く。
「……結婚してよかった……」
「メシ作ったぐらいで大袈裟だな」
「ううん、ごはんのことだけじゃなくて。今日……仕事で嫌なことがあって、辛かったから。……家に帰ったとき、一人じゃなくてよかった」
気持ちが緩んで、いつのまにかぽろりと本音が出ていた。はっと片手で口を塞いだけれど、もう遅い。
穂高と結婚してから、家で仕事の話をすることはほとんどなかった。言ってもどうせ伝わらないし、きっと彼も愚痴なんて聞きたくないだろうと思っていたからだ。
「なんかあった?」
穂高の問いに、真帆は首を横に振って、無理やり笑顔を取り繕った。
「ごめん、つまらない話しそうになった」
「別に無理には言わなくてもいいけど、言って楽になるなら言えよ。帰ってきてすぐその場に座り込むって、相当だぞ」
穂高の口調は淡々としているけれど、本気で真帆を心配していることが伝わってくる。
――俺たち、もう家族なんだから。大汐になんかあったら、俺が心配するよ。
先日聞いた、彼の言葉を思い出す。穂高は本当に家族想いの、いい夫だ。真帆なんかにはもったいないくらいに。
真帆は思わず、穂高の部屋着のトレーナーをきゅっと掴んでいた。肘のあたりを軽く引くと、穂高はやや戸惑ったように瞬きをする。
「どうした?」
尋ねる表情は仏頂面だけど、目は優しい。
「……今日、タチの悪いお客さんから電話かかってきて」
「ああ。真帆の職場、コールセンターだもんな。どんな?」
「たまにいるの。やたらと高圧的で、こっちが何を言っても怒鳴り散らすような人。上司に代わってもらおうと思ったんだけど、社員なんだから自分でなんとかしろ、って言われて……」
「なんだよ、それ」
「それで結局私が電話代わったんだけど、一時間ぐらいずっとバカとかブスとか罵倒され続けてて……この程度のことも理解できないなんて頭悪いなとか、ただ座ってるだけで金貰ってるだけの役立たずだとか。それで、最終的には他の先輩に代わってもらえたんだけど……先輩からも、こんなんでビビりすぎなんじゃないか、って言われちゃった」
真帆は一息に話し終えると、ふう、と小さな息をついた。どんな顔をしていいのかわからず、じっと下を向いて、自分の膝ばかりを見つめている。
隣でじっと聞いてくれていた穂高の手が、ゆっくりと伸びてきて――ぽんぽん、と頭を優しく撫でられた。弾かれたように、真帆は面を上げる。
「……頑張ったな。腹立っただろ」
あらためて言葉にしてもらうと、これ自分の中にあったぼやぼやとした輪郭のない感情が整理されて、少しすっきりした。
(そうか。私、今日一日ずっと怒ってたのか)
真帆は一方的に怒鳴り散らす客にも、逃げ腰な上司にも、真帆の気持ちをわかってくれない先輩にも怒りを感じていた。
いくら気付かないふりをしたところで、じわじわと積み重なる負の感情は、真帆の心を蝕んでいる。
それでも今はまだ、その怒りを素直に表に表すことができない。心を殺すことに慣れきってしまった真帆は、怒りや悲しみを発露する術を忘れてしまったのだ。
「……うん。でも、私なんかまだ楽な方だよ。電話なら、直接顔合わせずに済むし。風花の……同期の部署はもっと残業もたくさんあって、怖い先輩とか、セクハラ上司なんかもいるって。それに、穂高だって……営業なんて、もっといろんなお客さんいっぱいいるだろうし、もっと大変でしょ」
「仕事の辛さなんて、他人と比べられることじゃないだろ。真帆がしんどいって感じるなら、それは大変な仕事なんだよ。誰にでもできることじゃない」
そう言った穂高の眉間には深い皺が刻まれていて、いつも以上に険しい顔をしていた。きっと真帆のために怒ってくれているのだ。
「そういう変な客、多いのか?」
「ううん、そうでもない。私、そんなにたくさん電話応対してるわけじゃないから。でもたまに、すごい卑猥なこと言わせようとしてくる人とかいるよ」
「はあ? なんだよそれ……そんな奴、可及的速やかに去勢すべきだろ……」
「……ありがとう。穂高が怒ってくれるから、なんだかすっきりした」
仕事で辛いことがあったとき、これまでだったら一人で家に帰って、悶々とした気分を抱えたまま眠りにつくしかなかった。朝になったら憂鬱な気分を引きずったまま出社して、また同じような一日が始まるのだ。
でも、今日は違う。真帆の話を聞いて、真帆の代わりに怒ってくれる人がいる。ただそれだけのことで、なんだか救われたような気持ちになるから不思議だ。
「あんまり、頑張りすぎるなよ。俺もたまには晩飯作るから。二人とも疲れてるときは、まあ……一緒に手抜きしよう」
「……ありがとう」
「いいよ。俺にできることがあったら、なんでも言ってくれ」
本当はもう少し甘えたいような気持ちがあったけれど、真帆はそれを口にはせずに、「もう充分だよ」と笑った。
「元気出てきた。優しい夫がいて、私は幸せだ」
「そりゃよかった。俺が仕事で落ち込んだときは慰めてくれ」
「え? 穂高でもそんなことあるの?」
「あるに決まってるだろ。俺、まあまあしょっちゅうやらかしてるぞ」
「想像できないな。じゃあ、落ち込んだときはちゃんと言ってね。全力で慰めます」
よしよし、とお返しのように頭を撫でてあげると、穂高はふっと笑みを溢した。そのとききゅんと高鳴った胸の音に、真帆は気付かないふりをしている。
(もし結婚したのが私じゃなくても、こんな風に優しくしてた?)
馬鹿げた疑問だ、と自嘲する。
父親を反面教師にしている穂高は、家族を大切にすることにこだわりを持っているだけだ。たまたま結婚したのが真帆だっただけで、自分たちのあいだに、恋愛感情はないのだから。そもそも真帆だって、彼と恋愛することを望んでいなかったはずだ。
「……ところで」
「うん?」
「俺は今すぐどうしてもアイスが食べたい気分だからコンビニに行ってくるけど、ついでに真帆のぶんも買ってこようか」
白々しい穂高の言葉に、真帆は思わず吹き出した。普段の穂高は、デザートなんて滅多に食べない。自分が食べたいなんてのは口実で、本当は落ち込んでいる真帆を慰めようとしていることがバレバレだ。
「待って。私も一緒に行く」
スマホを片手に立ち上がった穂高の背中を追いかけると、サンダルに足を突っ込む。エレベーターに乗る前に、さりげなく手を握られた。二人は自然と手を繋いだまま、マンションの最寄りにあるコンビニへと向かう。
さんざん悩んで買ったラムレーズンとチョコチップのアイスを、二人で仲良く半分こして食べた。テレビを見ながら夫と他愛もない話をして、お風呂に入ってふかふかのベッドの中に潜り込んだ頃には、真帆の胸の奥にあったモヤモヤはほとんど消えてなくなっていた。