15:ブルー・ウェンズデイ
真帆の職場は朝から晩まで、電話のコール音がひっきりなしに鳴り響いている。入社してしばらくは戸惑ったけれど、一ヶ月もすればすっかり慣れてしまった。丸四年が経った今は、もうなんとも思わない。
我が社のお客さま専用フリーダイヤルにかかってくる電話の大半は、まずは委託会社のオペレーターの元に入る。そこで対応が完結すれば、それでよし。もしオペレーターの手に余るような事態になれば、二次対応を真帆たち社員が行うことになる。
問い合わせの内容は、自社製品であるスマートウォッチや、それと連動しているアプリの操作方法が大半。ときには、厄介なクレームを受けることもある。
六月に入ってから、真帆は来月発売される新商品に対応したマニュアル作成にかかりきりになっていた。
他部署から送られてきた想定問答集を睨みつけながら、オペレーターが問い合わせを受けた際の台本を作成する。作成したマニュアルは上司の承認印を貰い、問題がないかを他部署の責任者に確認してもらわなければならない。
先輩である正木が産休に入るまでは、マニュアル作成は彼女の仕事だった。真帆はあくまでも補佐的な役目だったのだが、彼女のいない今回は、一人でやり遂げなければならない。次から次から降りかかってくる慣れない業務に、真帆はてんやわんやになっていた。
頭を抱えながらキーボードを叩いていた真帆は、ふと手を止めた。一人のオペレーターが、右手を高々と上げているのが見える。電話対応中のヘルプの合図だ。
真帆はメールを保存してから立ち上がると、小走りにオペレーターの元へと向かう。
ヘルプを出していたのは、最近入ったばかりの新人だった。真帆と同世代の若い女性だ。ヘッドセットをつけたまま、今にも泣き出しそうな表情で、「はい、申し訳ありません……」と繰り返している。どうやら、一旦電話を保留にもさせてもらえない状況らしい。
真帆はヘッドセットをつけて、彼女の電話の音声を一緒に聞き始めた。途端に、耳をつんざくような男の怒鳴り声が響く。
「ふざけんなよ、どういうことだよ! こっちは、金出して商品買ってんだよ!」
「ええ、申し訳ありません……」
「さっきからそれしか言えねえのか、誠意見せろって言ってんだよ!」
「ですから、早急に新品との交換対応を」
「そういう問題じゃねえんだよ! そもそも、交換すりゃいいんだろっていうおまえの対応が気に入らねえ!」
「申し訳ありません……」
「謝りゃ済むとでも思ってんのか? あァ?」
(……これはダメだ。一番厄介なパターンだ)
真帆の経験上、コールセンターにかかってくるクレームには、いくつか種類がある。ほとんどのお客さまは本当に困って電話をかけてきているし、お詫びして丁寧に対応をすればなんとかなるケースが多いのだが――中には、若い女性オペレーター相手に、日頃の鬱憤を晴らすようなタチの悪い客もいる。
強い口調で罵倒を繰り返したり、こちらの小さな言い間違いをあげつらってネチネチと責めたり。ときには、わざと卑猥な言葉を投げかけてきたり、卑猥な言葉を言わせようとしてくる輩もいる。
この手の客は、こちらがどれだけ下手に出ても、自分の気が済むまで攻撃の手を緩めない。相手をするだけ時間の無駄だ。
真帆はオペレーターに向かって「保留にできそうなら、保留にしてください」と走り書きのメモを出す。そのまま、上司の応対状況を確認した。
苦情が発生した場合は、管理職である上司に対応を交代してもらう必要がある。あいにく、部長代理は電話応対中だった。會澤課長の手が空いていそうだったので、真帆は彼の元へと走っていった。
「あの、會澤課長。今よろしいでしょうか」
「あんまりよろしくないんだよねえ。マニュアル確認に忙しいんだよ」
苦情の気配を察知したのか、會澤は渋い顔をした。マニュアル作成に忙しいのは真帆も同じだ。「これ、今日締切だからなあ」などとブツブツとうるさい會澤を無視して、真帆は続ける。
「男性のお客様が、先ほどからずっとオペレーターに怒鳴り続けています。詳細は仰っていただけないのですが、商品がすぐに壊れたとのことです。機種はXO7です。対応交代お願いできませんか」
「ええ? 新品に交換対応するって言ったの?」
「当然伝えてますが、まったく引き下がっていただけないようで……」
「そのくらい、五十嵐さんがなんとかしなよ。社員なんだから」
會澤はそう言って、再びパソコンに向き直ってしまった。もう少し粘ればなんとかなるかもしれないが、説得する時間が惜しい。そうこうしているあいだにも、オペレーターは理不尽に怒鳴られ続けている。
真帆はぐっと拳を握りしめると、「……わかりました」と踵を返した。
オペレーターの元に戻ると、なんとか保留にさせてもらえたようだった。ほとんど涙目になった彼女は、「上司に電話を代わりますと伝えたのですが……」と不安げにこちらを見上げてくる。
縋るようなその顔を見た瞬間、真帆は覚悟を決めた。
「私が電話を代わります」
ヘッドセットを装着して、大きく息を吸い込む。端末を操作するための、マウスを持つ手が震える。どれだけ経験を重ねたとしても、他人からの剥き出しの悪意を受け止めることには慣れないものだ。
(大丈夫だ、このくらい。心を殺してしまえば、何も感じずに済む)
「……大変お待たせいたしました。お電話代わりまして、わたくし五十嵐でございます」
その瞬間、耳を覆いたくなるような罵詈雑言が浴びせられた。
そこから真帆はおおよそ一時間ものあいだ、男性客のサンドバックにされた。
どれだけ詫びても客はヒートアップするばかりで、結局見かねた高瀬主任に電話を代わってもらった。電話口に男性が出た瞬間、客の勢いはみるみるうちに落ち着き、最終的には新品を送付することで了承いただいた。
「びっくりするほどあっさり片付いたよ。ちゃんと話せばわかってくれる人じゃん。五十嵐さん、ビビりすぎなんじゃない?」
高瀬の言外に「この程度の苦情も対応できないのか」という意図を感じて、真帆は鼻白んだ。
高瀬は真帆の五年上の先輩で、ガタイの良い体育会系の男性である。一方的に男性から怒鳴られ続ける女性が抱く恐怖を、きっと本当の意味で理解してはくれない。普段は気の良い先輩である彼のことを、真帆は決して嫌いではなかったけれど、今日ばかりは一言二言文句を言いたい気持ちになった。
(女性に対してだけ高圧的な態度に出るお客様は、決して少なくないです。それに、あんなに一方的に怒鳴られて、怯えずにきちんと話し合えだなんて言うのは酷です)
「……すみません。ありがとうございました」
しかし真帆はそれを飲み込んで、深々と頭を下げた。
高瀬は「ま、いいけど。じゃ、苦情報告と新品の送付依頼よろしく」と真帆に後始末を押し付け、自分の仕事に戻った。
諸々の後始末を終え、どうしても今日中に送らなければならないメールを送り終えた頃には、もうフロアにはほとんど誰も残っていなかった。結局苦情対応だけで半日が潰れてしまった、と真帆は溜息をつく。
やるべき仕事はまだまだ残っているが、時刻はもう二十時すぎだ。残業削減を謳っている我が社は、二十時半になったらすべての端末の電源が落ちてしまう。
(ワークライフバランスに働き方改革、大変結構なことで。それなら、業務量についても見直してほしいんですけど)
仕事を持ち帰るべきか悩んだけれど、今日はもう何もしたくない気分だった。ヨロヨロとふらつく足取りで会社を出る。六月に入ってからはずいぶん日暮れが遅くなったけれど、この時間だとさすがに真っ暗だ。
しかも今日はまだ水曜日。週末まで、あと二日もある。デスクの脇に積まれた未決案件のことを考えるだけで、明日会社行きたくない、とげんなりした。まだ家に帰ってもいないのに。
会社から駅までの十分ほどの距離が、やたらと遠く感じた。鉛のように足が重い。もし真帆に理性がなければ、その場に大の字になって歩きたくないと喚いていただろう。当然、いい大人がこんなことできるはずもないけれど。
ノロノロと歩いて、やっとのことで駅に到着した。今は晩ごはんを作る気力もない。穂高には申し訳ないが、今日は惣菜で勘弁してもらおう。そう思ってスマートフォンを取り出すと、二時間ほど前にLINEのメッセージが届いていた。
『おつかれ。今日は俺が晩飯作るから。楽しみにしててください』
短い文字列が目に入ったその瞬間、真帆は今すぐ穂高の顔が見たくなった。
ヒールの踵を鳴らしながら駅の階段を駆け下りて、タイミング良く到着した電車に飛び乗った。