黒鴉は真実をついばむ
※この小説は、檸檬 絵郎さん主催の「魅惑の悪人企画」参加作品です。
※ページ最後に企画主の檸檬さんから戴いたイラストを掲載しております( *´艸`)
――曲田警察署内、刑事課・組織犯罪対策係。
今日も今日とて残業まみれの署内で、延々と報告書の作成に勤しむ青年――刑事2年目の鷹山幸次は、ノートパソコンを打つ手を止め、息を吐いて凝り固まった肩をほぐした。
ここ1年。通常の犯罪に加えて一件の――"特殊案件"の対応に追われることとなり、この曲田警察署は毎日多忙に見舞われている。
鷹山が今打ち込んでいる報告書もその一端で、日中に多くの警官たちが聞き込み調査などで得た調査結果の束を読み解き、時系列・前後関係などを踏まえつつ、上の者が目を通しやすい資料に作り変えているわけだ。こういった資料を基に、次の捜査方針や調査範囲を絞り込んでいくため――重要な資料となる。
この"特殊案件"の捜査が始まって1年が経つが、同一犯と思われる犯罪件数だけが増すばかりで、未だに刑事課は犯人像すら掴めないでいた。
殺人件数は8件に上り、その被害者全てが――犯罪者である。
強盗犯が1件、誘拐犯が1件、婦女暴行犯が2件、麻薬密売人が1件、詐欺グループが2件、殺人犯が1件。これらの犯罪者たちが、全て……無残に殺害されるという事件。たった1年。そのサイクルの中でこれだけの事件が起きた。
これらいずれも曲田警察署の刑事課が秘密裏に捜査を進行していた事件だけに、それを先取りして犯人たちを葬り去っていくこの事件の主犯は、刑事たちの頭痛の種でもある。
刑事課内ではこの犯人のことを――黒鴉と呼んでいる。正体不明のゴミの漁り屋。それを皮肉った呼び名である。
――犯罪者を殺す犯罪者を探し出す。
これはつまり、現在発生している事件の調査をしつつ、その事件に黒鴉が介入してくるかどうかにも気を配らないといけないという――二重捜査になる。これは現場を回る刑事たちの負担も計り知れないものだ。黒鴉を捕まえるまで、頼むから他に犯罪は起こすなよと願う警察官たちも少なくはない。
鷹山は6日連続、署に寝泊まりする中、これらの事件の関連性および聞き込み調査結果などから、犯人像への手がかりがないか、情報の整理を任されていた。
なぜ他の刑事たちと共に現場へと足を運ばないのか。それは純粋に鷹山が書類の仕分けと整理、そして分析の才能があり、現場で鷹山の才を潰すよりは、署に残って集めた調査報告を取りまとめてもらった方が明らかに有益だからである。
資料に関しては、刑事課の庶務係や警務課の面子にも助けてもらっているものの、鷹山の能力が群を抜いているがために、結局は彼一人に負担が押し寄せるという状況となっていた。
ただ資料をグルーピングしたり、写真や画像データをスキャニングしてフォルダごとに用意したり、といった時間のかかる単純作業を他のメンバーが担ってくれているため、それだけでもかなり助かる――と鷹山は感謝を胸に、今もノートパソコンと対峙していた。
「ふぅ……」
肘の伸縮運動を繰り返し、首の骨を二度三度、鳴らす。
鷹山は眼鏡をデスクの空いたスペースに置き、ドライアイ用の目薬を数滴、両目に差した。
延々と降り積もる情報の山。それらを脳内で一面に並べ、神経衰弱のように関連のある情報を紐づけしていく。一つ一つ、点と点を結んだあとは、それぞれのグループ同士の関係性も洗い出し、その上で時系列に整理整頓していく。
そういった作業には相当な集中力を要し、長時間続けていれば、今の鷹山のように身体のあちらこちらにダメージが蓄積してしまう。
時刻は23時を回ったところ。
正直、疲労はピークに近い。彼としてはそろそろ仮眠を取りたいところだが、情報の網が頭の中で形成されている今のうちに、キリのいいところまで進めたいというのもある。
明日の昼にはまた新たな情報が現場から集まってくるだろう。それまでにはある程度……手元にある情報を整理しておくことは自分を助けることにも繋がる。
「…………」
少し悩んだ後、鷹山は自販機でブラックコーヒーを買って、それを燃料にもう少し頑張ろうと決心する。
鷹山は眼鏡をかけ直し、ノートパソコンをログオフ状態にして席を立ち、財布を片手に部屋を出た。
「よぉ、順調か?」
部屋を出ると同時に、廊下の向こうから声をかけてきたのは、ベージュのトレンチコートに身を包んだ大柄な40代の男――刑事課長の工藤和昌であった。彼は片手を上げてニッと豪快な笑みを浮かべて、鷹山に近づいてくる。
「工藤さん、今戻りですか?」
「んなとこだなぁ」
鷹山は工藤に一つ頭を下げると、自販機で缶コーヒーを買って、手に取る。
その間に自動販売機の前まで歩いてきた工藤は、右手に持っていたビニール袋を軽く掲げて「食うか?」と鷹山に尋ねる。
「牛丼ですか。今すぐありつきたいところですが、食べると睡魔が襲ってきますので……。ある程度、仕事が済みましたら、ありがたく頂戴したいと思います」
「そうか。無茶はすんなよと言ってやりてぇところだが……今は踏ん張り時だ。悪ぃが、頼むな」
「えぇ」
「野郎の足取りは掴めそうか?」
「現時点では何とも。新たに判明するような証拠や痕跡は見つかってません」
「そうか…………それじゃあ既知事項についてはどうだ?」
二人は部屋に戻り、鷹山のデスク前に移動する。鷹山は再び自席へ、工藤は近くの椅子の背もたれを掴んで、そこに音を立てて座り込む。
「既知事項は現時点で大きく3点ですね。一つ、黒鴉は犯罪者をターゲットにしている。一つ、活動範囲は曲田市を中心に周囲6市町村である。一つ、銃による殺害方法のみであり、死因は全て銃弾によるものである」
「あぁ」
「工藤さんが聞きたいのはその先――内部犯がいないかどうか、という点ですね」
「……」
工藤は顔を大いにしかめるも、口元を結び、鷹山の次の言葉を待った。つまり正解だということだ。
――第一に、黒鴉が犯罪者をターゲットにしている件について。
これは周知の事実だが、狙う犯罪者の傾向に一貫性は無い。犯罪傾向や年齢、性別、住所、被害者の関係性などを洗っても、そこに共通点はほぼ皆無だった。
逆に――別の視点では共通点があった。
それはこれらの犯罪者たちが、刑事課で捜査をしている対象たちだという点だ。
マスコミなどの報道陣も含め、公にしていない情報をまるで掴んでいるかの如く、黒鴉は警察の一歩前を行く。そして司法に罰を委ねるのではなく、その犯罪者に死という断罪を自ら行うのだ。
――第二に、黒鴉の活動範囲について。
黒鴉の出没範囲は、曲田市を中心にした六つの市町村に分布されている。そしてその範囲というのは曲田警察署の所轄範囲でもあるのだ。つまりそれは……曲田警察署の捜査範囲であり、最も有効性の高い情報を集められる範囲ということになる。
これについては8件という事件数、サンプリング数が揃ったことで、より信憑性の高いものとなっていた。
――第三に、黒鴉の殺害方法について。
前2つの状況から、当然ながら警察内部犯の可能性を疑わざるを得ない状況となっている。加えて、銃規制を課している日本社会において、誰が銃を手に入れられる可能性が高いかと問われれば――警察署に務める者は皆、自らのガンホルダーに手を当てることだろう。
これらの状況証拠から、工藤は鷹山に内部犯の可能性を問うているのだ。
鷹山はブラックコーヒーのタブを開け、苦みのある液体を喉に流し込む。ややクリアになったところで、眼鏡の位置を微調整し、工藤へ言葉を繋げた。
「まず、最も物的証拠として上がりやすい――銃や弾薬の在庫についてですが、会計課で管理している在庫帳簿と倉庫内の在庫を照らし合わせたところ、幸いと言って良いか分かりませんが、誤差は無かったとのことです」
「……調べたのはどいつだ?」
「? 工藤さんの指示通り、会計課の笹山と刑事課の佐々木が担当しましたが……どうかしましたか?」
「そうか、いや……一応信頼のおける奴を人選したつもりだったんだが、署長が余計な口挟んでねえかと心配になってな」
「あぁ、工藤さん、署長と仲が悪いですもんね」
「っせぇーな! 予定通り調査が進んでんなら問題ねえな。んで、そうなってくると……警察署で管理している拳銃が殺人に使われた、っつぅ線は薄いってことだな」
「そうですね。帳簿の改竄なども見られなかったとの報告が上がってます」
「うぅむ……」
剛毛をガシガシと掻きながら、工藤は巨体を苛立たし気に揺らしながら唸った。
「また情報の漏洩についても可能な限り、内部調査をしましたが、USBやCDなどの電子媒体を介しての情報持ち出しの記録は残っていないと、会計課システム担当の嘉山から報告を受けました」
「持ち出しじゃなく、閲覧に関してはどうだ?」
「ここ1年の間で数台、ログオフしない状態でのパソコン放置時間が記録された端末がありましたが……その端末には機密情報が入っていないことを確認しています。無人状態の端末を第三者が覗きこんだという線は……まあデータ上からは低いかと」
「そうか。大事に繋がらなかったとしても、今のご時世、離席中の端末のつけっ放しはITリテラシーっちゅうもんを問われるからな。後でその放置してたパソコンを使ってる奴らの名前を寄越せ。いっちょ拳骨かましてくるァ」
「分かりました。後で用意しておきますね」
「しかし、そうなると……署の情報を利用するためには端末を直に見て、その情報を抜き出したということになるな。だが銃弾の在庫に狂いがねぇってことは、他所から仕入れてるってことかァ?」
「内部犯だと仮定するならば、そうなるでしょうね」
「……内部犯以外に考えにくいだろう。情報を抜き出した形跡がねぇってんなら、相当なハッカーでも絡んでいねぇ限りは、実行犯でなくとも一枚噛んでるやつが潜んでいる可能性は高い」
「あまり疑いたくないところではありますがね……ふぅ。工藤さんは黒鴉のことをどう思いますか?」
「どうとは?」
「いえ……犯罪者ばかりを狙う殺し屋。奴は決して善良な市民を狙わない……いわば正義の――」
「――馬鹿なことを言うな。正義は司法にあり、私法にはねぇよ。それが法治国家である日本での正義だ。奴はただの殺し屋、犯罪者だ。義賊を気取ろうと、裏に事情があろうと、許されねぇことに手を染めてんのは違いねぇんだよ」
「……はは、その通りですね。どうやら……俺は相当疲れているのかもしれませんね」
鷹山は気付けば会話の最中に飲み干していたのか、缶コーヒーの中身が空になっていた。新しいのを買いに行こうかと腰を上げようとした鷹山だが、工藤が「俺が淹れてやるよ。ただし無料の社内ドリンクサーバーのだがな」と手で制してニッと笑ったため、思わず上げようとした腰を下ろしてしまう。
工藤はこの刑事課の課長であり上司だ。遠慮しようと思ったものの、想像以上に疲れが溜まっていたのか、腰に力が入らなかった。鷹山は素直に御礼を言って、彼が持ってくるコーヒーを待つことにした。
「おらよ」
「ありがとうございます」
やがて戻ってきた工藤から、使い捨てコップに満たされたブラックコーヒーを受け取り、鷹山は礼を返す。
口に含むと苦みが染みわたる。
鷹山は舌に感じる味とともに疲労を溜息として吐き出し、そういえば、と工藤に言葉を投げかけた。
「今日は随分と署内が静かですね。いつもだったらこの時間帯、2、3人は署内に戻ってきてもおかしくないのに」
「ん? あぁ、今日はアイツら、ちょいと遠方まで調査に出向いてるからな。俺も同行する予定だったが、さすがに署内でお前一人だけ残してると、死ぬまで寝ないで資料作ってそうだからな。だからこうして俺が釘刺しに戻ってきたってわけだ」
「なるほど……」
「鷹山、さっき踏ん張り時と言っちゃいるが、そいつはあくまでも"出来る範囲"の中だけの話だ。お前の様子を見ていたが、相当限界が近いように見える。無理して倒れるぐれぇなら、さっさと牛丼食って、仮眠でも取っちまいな」
「…………分かりました」
迷いはあったが、これも上司命令の一つだと思うことにし、鷹山は工藤の気遣いを受け取ることにした。
工藤の存在が安心感をもたらしたのだろうか、鷹山は既に降りかけている睡魔の幕に頭を振りながら、買ってきてもらった牛丼を食し、仮眠室で横になることにした。
「ゆっくり休めよー」
「はい」
薄暗い仮眠室のベッドで横になると、ほい来たと言わんばかりに意識は遠のいていき、鷹山は深い眠りへとついていった。
……………………。
………………。
…………。
「――! ――、――ま!」
「――?」
何かが鷹山の身体を揺さぶっている。
「鷹山! おい、無事か!? 目を開けろ!」
何事かと鷹山は徐々に覚醒する意識と共に目を開け、大声を張り上げている男の姿を視認した。
「……斎藤さん? あぁ……もう、戻られるような時間なんですね……」
肩を揺さぶっている男が、同じ刑事課の斎藤であることを確認した鷹山は、頭痛に目尻を歪めながらもゆっくりと上体を起こしていった。
「おお、無事だったか……! ったく、心配かけさせやがって……」
「は、はい?」
斎藤の言葉の意味を捉え兼ね、鷹山は必死に寝起きの頭を回転させようとする――が、いまいち意図が掴めない。
「いったい、何の話を――」
「黒鴉が出た」
「黒鴉……? まさか9件目の事件が――」
「そうだ、この署内でな……」
「!?」
その言葉を聞いて、まだ寝ぼけているほど刑事としての自覚を棄てたつもりはない。鷹山はすぐにベッドから足を降ろし、靴を履きなおした。
「……!」
意識が明瞭になったおかげで、室外の喧騒が耳に届いてくる。どうやら"相当な"出来事が、この署内で起こっているらしい。それを如実に表すほど、この警察署の中は混乱と焦燥で賑わいを見せていた。
「お前はまだ寝てろ。念のため医師に診てもらうんだ」
起き上がる鷹山の方に斎藤の手が載せられ、強引にベッドに座らされた。
彼の背後から一礼をした救急隊員が数名、仮眠室へと足を踏み入れてくる。何やら幾つかの問診をされるが、その内容に頭がついてこない。
「何が……」
ポツリと呟く鷹山の声に救急隊員は困ったような表情を浮かべ、壁際に下がった斎藤が腕を組みながら口を開いた。
「詳しいことはここでは言えないが、お前は薬で眠らされていたんだ」
「え?」
「これを見ろ」
斎藤が見せてくれたのは、小さな分包紙だった。粉薬などを処方される際に使われる袋だ。封は切られており、中身は空の状態だった。
「僅かに残った粉から分析したところ、中身は睡眠薬だったようだな。こいつが仮眠室のゴミ箱に捨ててあったんだ」
「……」
「誰かが署内に残るお前の目が覚めないよう、睡眠薬をお前に盛ったってわけだ。誰かってのは言わずとも分かるよな」
――黒鴉。
「後のことは俺たちが対処しておく。お前はとにかく他に異常がないか調べてもらえ」
「あ……」
止める間もなく斎藤は仮眠室を出ていき、そのあと鷹山は流れに身を任せる流木の如く、救急隊員の指示のもと、病院まで搬送されることとなった。
被害者は――工藤和昌、43歳。笹山秀樹、38歳。佐々木光男、41歳の三名。
死因はいずれも銃弾による脳挫傷、即死である。
遺体発見現場は曲田警察署内、会計課の事務室前の廊下。
現場には一枚、犯人からのメッセージが残されており――A4のコピー用紙に赤いサインペンでこう書かれていた。
――"目を背けるな。真実は常に目の前に転がっている"
***********************
――時は遡る。
鷹山が深い眠りに入ったのを確認し、工藤はドリンクサーバーの脇に置きっぱなしであった分包紙をコートのポケットにしまい込んだ。
「悪ぃな、鷹山。俺の退職祝いだと思って、盛大に働いてくれや」
先ほどまでの豪快な笑いは身を潜め、今は卑屈な笑みを浮かべる工藤。
鷹山のデスクまで戻り、空の牛丼のパックなどをコンビニ袋に詰め、それらをゴミ箱に捨てる。そこでふと足を止めて、工藤はデスクの端に置かれた置物に視線を移した。
そこに置かれたのは銀色の球体のオブジェ。あまりにも彼が大事そうに毎日持参してはデスクの上に飾っているので、それが何なのか聞いてみたことがある――なんでも鷹山の祖父の形見だそうだ。
工藤は鼻を鳴らし、コンコンと球体をノックしてから「あばよ」と声をかけた。
そして、彼はコートの裾を翻し、刑事課を出ていった。
静まり返った廊下を大股で歩いていく。
予定通り、今日は人払いも済んでいる。鷹山の資料作成を手伝っている連中や、庶務を担当している者たちはとうに帰宅済だ。こんな時間に残っているような者は刑事課の人間ばかりである。その刑事課の人間も今日に限っては車内宿泊もやむを得ない張り込みを命じているため、ここに戻ってくることは無い。
そう、この署内にいる人間は、ワーカーホリックの鷹山と工藤。そして工藤が招いた人間のみだ。
階下に降りていき、会計課までたどり着く。
「――おい」
工藤が低い声で呼ぶと、照明が落ちていた会計課の扉の鍵が開く音がし、中から2人の男が顔を出した。
一人は会計課所属の笹山秀樹。
もう一人は工藤と同じ刑事課の佐々木光男だ。
「手配は済んでいるんだろうな」
工藤の言葉に笹山はくつくつと笑い、頷き返した。
「ええ、監視カメラの類は深夜3時まで同じ映像が流れるよう細工しておきましたわァ。これで例え会計課の室内に明かりをともしたところで、監視カメラには真っ暗な部屋の様子しか映ってませんよォ」
「……仮にそうだとしても止めておけ。どこで目撃証言が出るか分からないからな。最低限の明かりで作業しろ」
「うい~っす」
カチリと手元の懐中電灯の明かりをつけ、佐々木が気のない返事をする。その様子に工藤は眉をしかめたが、言葉を飲み込み、会計課の中へと戻る彼らの後をついていった。
「しっかし、良かったんですかねェ」
「何がだ」
「いえいえ、あの鷹山さんですよォ。それなりに可愛がってたでしょ、工藤さん」
「有能な奴は嫌いじゃないからな」
「くふふ、だっていうのに、鷹山さんをスケープゴートにしようだなんて、工藤さんは鬼畜だなァ……」
「可愛がってやった礼はするもんだろう? アイツとしても本望なはずさ」
獣のようなギラつきを放ちながら、工藤は静かに笑った。その笑いには温かみは微塵もなく、底冷えするような冷徹さだけが籠っていた。
「くふふ、怖い怖い」
「いいから黙って作業しろ」
「準備はもう終わってまっせー、工藤さん」
無駄口をたたく笹山に睨みをきかせていると、佐々木が大きな木箱を台車に載せて、物品保管室から姿を見せた。
「例のブツっすよ。いやぁ、黒鴉の所為で仕事が増えて増えて仕方が無かったっすけど、こうした土産を置いていってくれたんですから、まあ感謝しときたいっすよねぇ」
「さっさと持ち運べ。無駄口はいらん」
「へえへえ」
佐々木が物品保管室から持ち出した木箱。それは過去、黒鴉が殺した麻薬密売人の所有していた大量の大麻だった。曲田警察署が押収し、本庁へ引き渡した麻薬。しかしその一部は現場を担当していた工藤の手によって、この物品保管室に隠されていたのだ。
なぜ、警察署という管理が厳しい環境に――しかも警察署が所有する銃弾なども保管されている物品保管室に大胆にも隠していたか。
その理由は明白で、この物品保管室を管理している人間が笹山だからだ。
彼と佐々木は今回の一件から工藤の口車に乗せられ、仲間として活動していた。そう、仲間なのだ―警察としてではなく、工藤個人の。
時価総額数億円に上る大量の麻薬は、一人の刑事の心を染めるに十分な魅力を持っていた。
工藤は常々、方針が合わない署長と反目しあう日々、過労の毎日に疲弊していく精神、これ以上の昇給が見込めない現実に不満を抱いていた。
麻薬密売人殺人事件の直前に、愛する妻と離婚し、子供とも離れ離れになり、家庭環境が崩壊してしまったことも関係しているのだろう。
――彼は刑事という役職についたことを後悔し、溜まった不満は憎悪に切り替わり、麻薬という分水嶺を前に悪へと手を染める決心をしてしまったのだ。
「しかし、なぜ今の時期に強行したのですかねェ。黒鴉の一件が片付いてからでも遅くはないでしょうにィ」
台車をノロノロと押す佐々木を見送っていると、隣の笹山が工藤にそう尋ねてきた。
「……それでは遅い。週明けには本庁より応援が来ることになったのだ」
「あぁ~、本庁のエリート様がこんな地方警察署にいらっしゃるなんてねェ。確かにそれじゃ手打ちになってしまいますねェ……エリート様が目を光らせているうちにこんな真似、できませんもんね」
「そういうことだ」
黒鴉の一件はもはや地方警察署だからとかそういう次元で片付けられないほどの事件になっている。本庁は数名のエリートを送り込み、指揮権をその者らに譲渡し、早急な解決を求めているのだ。要するに「お前らでは話にならん」と曲田警察署に言外にほのめかしているようなものだ。
彼らがやってくれば、おそらく抜本的に全ての情報を洗い出すことだろう。そうなれば笹山がなあなあで管理していた保管庫の記録も全て再確認が入り、この麻薬の所在も割れてしまうというわけだ。そうなれば全てが終わる。故に工藤は計画になかった今日、犯行に及ぶことにしたのだ。
「……プランは覚えているな?」
「ええ」
笹山は手袋を装着し、腰から拳銃を抜き出す。
「黒鴉は銃弾の補充を目論んで、警察署内に侵入してきた。それを発見した工藤刑事は黒鴉を鎮圧しようとするものの、逆に拳銃を奪われ、発砲される。工藤刑事はその衝撃で背後の窓から階下の川へと落ち、生死不明の状況となる。状況証拠は現場に残った工藤刑事の血痕。犯行に使われた拳銃は、仮眠室で寝ている鷹山のベッドの下に隠されていた――てなとこですかねェ」
「ああ、しかし前日大雨の影響で川が増水していたのは助かったな。おかげで俺の遺体が見つからないほど遠くに流されても不思議ではない状況が出来上がった」
「天も味方を、ってことですねェ、くふふ」
「くくっ……まあ、そういうことだな」
笹山は抜き出した拳銃の銃身を撫でながら「しかし危ないことを考える……」と呟いた。
「工藤さんが窓から落ちたという証拠を残すために、わざわざご自身の拳銃で自分を撃たせるだなんて、私でしたら怖くて怖くてできませんよ、そんなこと」
「いっとくが、薄皮一枚を狙えよ。あと……俺を殺して麻薬を独り占めしようとしても無駄だからな? ブローカーの伝手を握っているのは俺だけだ。お前たちだけがあの麻薬を手にしようと、それは身に余るブツだということを心に刻んでおけよ」
「分かってますってぇ。ここまで来たら、どこまでも工藤さんについていきますよォ」
「……ふん、さてそろそろ佐々木の奴も車に箱を積んで戻ってくることだろう。最後の準備を――」
ガラガラ――。
不意に台車の車輪の音が暗い廊下の中に響き渡る。
「あいつ……静かにやれと言ったにも関わらず……!」
戻ってきた佐々木の放つ音に、工藤はこめかみに血管を浮きだたせながら唸った。
やがて月明かりに照らされながら、佐々木が台車と共に姿を見せる。その姿に工藤は別の意味で、苛立ちを募らせた。なぜなら……佐々木は台車の上の荷物――麻薬の入った木箱をそのままに戻ってきたからである。
「おい……佐々木ィ、どういうつもりだ、テメ――――」
一発ぶん殴ろうかと踏み込んだ工藤だが、その足は止まり、視線は佐々木のその背後にある存在へと向けられた。
「くっ、工藤さん……た、助けて、くれぇ……!」
涙目の佐々木は震える声を絞り出しながら、工藤に助けを請う。しかし工藤はそんな命乞いすら耳に届かないほど、彼の背後の影に思考を釘づけにされていた。
「誰だ、……テメエは」
黒づくめ。一言で言うならば、その表現がしっくり来る。
深く被ったカーボーイハットに、襟の高いロングコート。手袋からブーツまで何もかもが漆黒に染められていた。
帽子と襟元との間は僅かしかなく、その隙間から覗かせる貌は全く持って見えない。
「オイ! 誰だって聞いて――」
「ァべッ!?」
唐突に。
佐々木の両目が白目をむき、意味不明な声を漏らし、その後頭部から大量の血をまき散らしながら台車の上に崩れていった。
彼が倒れ込んだことにより、何が起きたのかが明白になる。
――銃だ。
月明かりに微かに映し出されたのは、これもまた漆黒に包まれた一丁の銃。
だがしかし、馬鹿な……と工藤は目を剥く。発砲音の類は一切聞かれなかった。排出される薬莢が床を叩く音も、硝煙の匂いも。何もかもが無い。在るのはただ――無慈悲な死の宣告のみであった。
「あひ、ひぃえええああぁ!」
笹山が奇声を上げ、手に持っていた拳銃を構える。安全装置を外そうと親指を動かそうとした瞬間、彼の眉間に黒い銃創が浮かび上がり、同時に「ごふっ……」と血飛沫を上げて倒れていった。
「…………、……っ」
あまりにも正確な射撃技術。そしてやはり……発砲音の類は一切聞こえない。サイレンサーをつけていたとしても、空気を切り裂く乾いた音程度は聞こえるはずだ。だというのに、黒衣の者が放つ死は――あまりにも静かだった。
工藤は動揺と焦燥の渦に飲まれる。
自分の身を守るための拳銃は笹山の手が握ったままだ。シミュレート通りに窓を突き破って川に飛び降りることも検討したが、すぐに却下した。笹山を撃ちぬいた手腕があれば、窓を突き破る前に撃たれることは確実だからだ。
動かずとも死、動いても死。まさに工藤の数分後の未来を暗示する状況であった。
「……っ、テ、メエは……まさか、黒鴉、なのか? 何のつもりだ……テメエは、犯罪者あけを狙ってるんじゃ、ねぇのかよ!?」
「……」
黒衣は何も返さない。
ただ銃口を工藤に向けるだけだった。
「ま、待て! け、刑事である俺をう、撃てば……ど、どうなるか、分かってんのかァ!?」
「……」
ギリ、とトリガーにかける人差し指に力が入ったのを察した工藤は、さらに焦りを浮かべながら言葉を並べた。
「だ、だから待てって! な、なぁ……オイ、そ、そうだ! 取り分だ! そ、その麻薬で設けた取り分の半分をお前にやる! な、な? それでど――――」
工藤の言葉はそこで終わり、ゆっくりと巨体は背中から倒れていった。
その眉間にはやはり銃創が刻まれており、一撃で彼の人生を終わらせた証明にもなっていた。
「……」
スッと黒衣が右手を上げると、三人の銃創から水銀のような物体が流れ出てくる。
彼らを打ち抜いた銃弾であった"水銀"は、黒衣のブーツに接触するや否や、同化するように消えていった。
拳銃も同様で、高熱で溶かしたかのようにドロリと液状になったかと思ったら、次の瞬間には彼の手袋の表面へと消えていった。
「……」
黒衣は静かに工藤の遺体の傍まで近寄り、彼のコートのポケットを探る。そして探り当てた物をそのまま左手に握りしめて立ち上がった。
次に彼は開けっ放しの会計課の事務室の中へと入っていき、印刷機の排紙ケースからA4用紙を一枚取り出し、近くのサインペンで字を綴っていく。
やがて書き終えた後、サインペンを元の場所に戻し、黒衣は工藤への最後の手向けだと言わんばかりに、彼の胸元にA4用紙を落とし、その場を去っていった。
黒衣は焦る様子もなく、淡々と静寂が包む警察署内を歩く。
タイルを踏みしめる足元から靴音は聞こえない。まるでその存在が虚構であるかのように錯覚してしまうほど、不確実なものに思えてしまう。そこにいるのに、そこにいない。そんな矛盾を孕んだ存在こそが黒衣なのだと。
「……」
黒衣は刑事課の事務室までたどり着き、その扉を開ける。
迷うことなく仮眠室まで進み、無人の部屋へと足を踏み入れる。
近くのゴミ箱に、左手に握っていた分包紙を捨て、ベッドに横たわった。
そして徐々に……徐々に……黒衣はタールのような液体へと溶けていき、最終的には水銀のような質感の液体へと変貌していく。
大量の水銀は意思を持っているかのように仮眠室を出ていき、とある机の上へと昇っていく。
やがて圧縮に圧縮を重ね、大量の質量を誇っていた水銀は――球体を象ったオブジェへと化していく。
警察署に完全な静寂が戻る。
この場所に残るのは――深い眠りについた鷹山幸次の寝息だけとなっていた。
水銀状の液体の正体は、ナノマシンです。
さて何故そんなものが鷹山の祖父の形見としてあり、なぜ自律して動いているのか――その辺りは読者様のご想像にお任せいたします、ふふふ( *´艸`)