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「お、おまえ……いい、匂い……する」
先ほどまでと違って、しゃがれたような声で話す男。呂律も怪しく、唇の端から涎が垂れている。ここまで酔うほど飲んでいなかったのにと、私は首を傾げたくなった。
だけど、今の私は身動きが出来なかった。男の赤く血走った眼は、飢えた獣のような雰囲気を纏っていたからだ。動いたら最後、のど元に喰らいついてきそうだった。
「あ、あの、お水でも飲んで酔いを醒ましませんか」
私は刺激しないように小声で声をかけた。焦点が合っていない感じの眼をした男は、ぎろりと、私のことを見てきた。
「あ……ああ、酔い……醒ます? 酔って……匂い……かぐわしい」
意味の分からないことを言う男に、背筋に悪寒が走った。それを察したように、男はニイッと笑った。
「ああ~……うまそうだ……もう、我慢……できな……い……食べて……も、いい……よなあ~」
涎を垂らしながら男は口を大きく開けた。その口にはありえないことに、牙のように尖った歯が並んでいるのが見えた。
「きゃあー」
私は悲鳴を上げると、掴まれている左腕を離そうともがいた。そして自由になる右手を動かし、無意識にポケットに手を入れると、中にあったものを握ってから、男に向かって右手を振り回した。
「ぎゃあー」
男は悲鳴を上げて、わたしの左腕を放した。それだけでなく顔を押さえてのたうち回っている。頬の辺りから、煙のようなものが見えていた。
「なんなの」
思わず呟いたが、今はそんな時ではなかったと思いだし、公園出口に向かって走り出そうとした。
「きゃあー」
無様に倒れこんでしまった私の右足は、転げまわっていた男に掴まれていた。
「ゆ……許さんぞー、女~。食料の分際で……傷……をつける……とは~」
目が暗闇の中だというのに、黄色く光っている。
「はな、離して~」
私は恐怖から、右手を無茶苦茶に振り回した。その手が私の足を捕まえている男の手に当たった。
「ぎゃーーー……一度ならずも~……再度、我を傷つけるかー」
男の形相が変わっていた。こめかみに青筋が盛り上がり、体も先ほどまでと違い筋肉が盛り上がってきたように見える。
私は腰が抜けたのか、力が入らない足を必死に動かして、何とか男から離れようともがいた。少しずつ後退りをする私を、睨みつける男。ゆらりと立ち上がった男からは、今となっては、はち切れんばかりの筋肉に覆われた胸や腕が見えていた。耐えきれなかったシャツは千切れ、肌に張り付くように残骸が残っているだけだ。顔もまるで鬼のようだ。
いや、鬼そのものなのかもしれない。真っ赤な顔をして、こめかみには青筋が立ち、血走った眼は黄色くらんらんと光っている。口からはギザギザの歯が見え、犬歯がひと際大きく尖って見えていた。
遅々として進まないながらも、私はずりずりと後退り、何とか公園の入口に辿り着いた。車止めの柵の金属が手に触れた。
「お、女~……逃げられると、思うなよ~」
地の底から聞こえてくるようなしゃがれた声をあげ、男は私のほうに突進してきた。私は柵につかまって、何とか立ち上がったところだった。まだ足には力が入らず、立っているのがやっとの状態だ。
「ひっ」
私は短い悲鳴を上げた。伸ばされた男の腕は、手の先の爪が伸びて尖っていた。その手が目の前に迫り、もう逃げられないと観念した私は、身をすくませて目を閉じた。
「ぎゃー」
すぐそばで、身の毛もよだつような悲鳴が上がった。目を見開くと、私と変容した男の間に、見知らぬ男が立っていた。
いや、見知らぬ男ではなかった。その人は先ほど合コンに遅れてきた人。確か名前は奥村だったか。
麻痺した頭で、そんなことを考えた。
だけど、奥村は先ほどとは様子が違っていた。丸まっていた背を伸ばし、すっくと立っている。先ほどの存在感の無さが嘘のように、圧倒的は存在感を放っていた。
「やれやれ。寄生されただけでなく、変容までしてしまうとはな。それに寄りにも寄って鬼かよ」
そう言った奥村は頭に手をやると、髪をむしりとった。いや違う。取ったのは鬘のようだった。長い前髪が無くなり、現れた顔に私は「あっ」と、声をあげた。
その顔は昨夜私を助けてくれた人のもの。いや、そうじゃない。あの彼がそこにいた。
「ここまで変容したんじゃ、もう元には戻せないか」
男は独り言ちた。それから、私のほうを見ないまま声をかけてきた。
「おい、あんた。もう少し後ろに下がれるか」
「えっと、はい」
へっぴり腰ながらも、柵から手を離しそろりと歩道へと歩いて行く。私が離れたことを感じたのか、奥村は腕を横に振った。その手にはいつの間にか、青い光を放つ刀身を持つ剣が握られていた。
「悪いな。そこまで変わってしまったものは、もう戻せないんだ。なるべく苦しませないように送ってやる」
そう宣言した奥村は、剣を持ち上げて目の前に構えた。
「ぎゃははははは~。たいそうな口を聞きおるわい。我はそこらにおる、小物とは違うぞ」
鬼となった男が、耳障りな声を発した。その眼には愉悦の表情が浮かんでいた。きっと奥村のことを嬲り殺せると思っているのだろう。
「ふっ。それはどうかな。その身で思い知るがいい」