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自身では初ジャンルです。
パソコンのキーボードを一心不乱に叩いていたら、突然目の前が暗くなった。私の視界を塞ぐ大きな手。その手に自分の手をかけてどかすと、後ろに立つ男のことを軽く睨みつけた。男はそんなことは気に留めた様子もなく、左手に持ったマグカップを差しだしてきた。
「休憩しよう」
私はそのマグカップを受け取ると、椅子を回転させて男のほうに向きなおった。男は後ろのデスクから自分の分のマグカップを持ち、優雅に口に運んだ。相変わらず絵になるなと思いながら、自分もマグカップを口に持っていった。コーヒーの香りが鼻孔をくすぐっていく。苦みが苦手な私のためにカフェオレにしてくれているのが、嬉しかった。
一口飲んでから、部屋の中の違和感に気がついた。やけに照明が明るく感じる。視線をずらして窓に向けると、そこには暗闇と遠くの街頭が灯って見えた。
「えっ、うそ。いつの間に暗くなっていたの」
私は慌ててパソコンに向きなおり隅に表示されている時間を確認した。17時48分。
今は12月に入り、日が暮れるのが早くなっているとはいえ、それに気づかないくらい没頭していたのかと思い、驚いてしまった。
「集中していたからね、『ユカリ』は。ねえ、今日はもう止めよう。あとは明日にすればいいよ」
私は一息でカフェオレを飲み干すと、邪魔にならない位置にマグカップを置いて、パソコンのほうを向いた。そして先ほどまでの作業を再開しようとした。
「ユカリ」
伸びてきた腕は体を抱きしめながら、右の手で視界を奪う。拘束しながらも甘やかに耳元で囁く男に、顔だけ向けて私は言った。
「でも! もう、なん日もないじゃない。早く……早く見つけないと」
「駄目だよ、ユカリ」
椅子を回されて向き合うようにして、抱きしめ直された。逞しい胸に顔を埋めるように抱きしめられて、私の目には涙が浮かんできた。
「今日はもう駄目だよ。これ以上その眼を使うことは許さないよ」
「でも……」
顔をあげて男の顔を見つめる。男の目が細まって、手が頬に触れた。こぼれ落ちた雫を親指の腹で撫でとっていく。
「ユカリ。大丈夫だよ。まだ次の新月までひと月近くあるだろう」
「そうだけど……早く見つけたいのよ」
「ユカリの気持ちは嬉しいよ。だけど無理をして、また倒れることになったらどうするんだ。その方が、俺は嫌だね」
頭を抱え込むように抱きしめられて、彼の体の温かさに包まれる。一度こぼれてしまった涙は、次々と筋となって流れ落ちていく。そしてそれは彼のシャツへと吸い込まれていった。
「大丈夫。俺はユカリを信じている。ユカリの眼ならきっと見つけ出すことが出来るはずだ」
宥めるように髪を撫でていた手は、指の間に髪を通す、玩ぶような動きに変わっていった。
「ユカリの髪はサラサラで触り心地がいいな」
涙が止まった私は顔をあげて男のことを見つめた。
「ソウゲツ」
まだ潤んでいるだろう瞳で見つめたら、彼は顔を近づけてきた。目を閉じた私の額にそっと柔らかいものが触れてすぐに離れた。
そしてまた私の頭を抱え込むように、抱きしめられた。
だけど……胸に押し当てた耳には、彼の鼓動は聞こえてこない。
私はまた湧き上がってくる涙を、瞼に力を入れて堪えたのだった。
◇
私の名前は棟高桔梗という。1年と3カ月前までは、普通のOLをしていた。それが今は少し特殊な仕事についている。
先ほどから私の邪魔をしている男。名前を天童織戸矢と言う。
彼は私のために大事なものを奪われた。私は年明けの新月の日までに、それを探し出さなければいけないのだ。
◇
始まりは1年3カ月前の木曜日。その日は仕事が立て込み、珍しくかなり遅い時間まで残業をしたのだ。
最寄りの駅で降りて、自宅アパートまでいつものように歩いていた私。ある角まで来たところで、私の足はぴたりと止まった。あとはそこの角から二分ほど歩けばアパートに着くというのに、私の足は縫い付けられたように動くことが出来なかった。
頭のどこかで赤信号が点滅していた。この道を行ってはいけないと、頭の中に警鐘が鳴り響いているような気がしたのだ。
私はそんな変な考えを振り払うように頭を振り、一歩その道に足を踏み入れた。その途端、背筋を悪寒が駆け抜けた。
私は歩き出した勢いのままにカツカツとヒールを鳴らして道を急いだ。表通りと違い間遠な街灯。光が届かない闇の部分から、悪意が届く気がした。
気のせいだと言い聞かせて急いでいたはずなのに、気がつくと何かに纏わりつかれたかの様に歩みは遅くなっていた。
あんなに祖父に言われていたのに、引き返さなかったことを後悔しながら、私は肩にかけたハンドバッグを開けようとした。腕どころか指先までが思うように動かない。
目的のものを人差し指と中指で挟んで出そうとしたけど、それはバッグから出たところで指の間から、滑り落ちてしまった。
落ちる時に開いてしまい、中身が当たりに散らばった。それを避けるように纏わりついていた闇は私の周りから離れた気がした。