夜の祭り
打ち上げ花火の音がした。10月も終わろうとしているこの季節に。しかも、いまは深夜帯の4時だ。なにかの間違いかと思いヘッドフォンを外し、カーテンでふさがれる窓硝子のほうをじっとみる。するとほら、またひとつ確かな打ち上げ花火の音が。
カーテンを掻き分け、窓を開けた。外からはぎゅうぎゅうに圧縮された冷たい風がながれこみ、僕は思わず身震いをする。窓の外では、下半分をいくつかの民家が占め、上半分では薄い雲のかかる黒塗りの空が占めていた。その中央からすこし右にずれた辺りに、丸い月が浮かんでいる。きょうはどうやら満月らしい。
耳を澄ませ、じっと空を睨む。花火の音はすぐにやってきた。けれど、肝心のその姿をとらえることは叶わない。雷の音なのかもしれないな、と疑った。雨は降っていないし、それに雷と花火の音を聞き間違えるなんて変な話だとも思う。しかしそのおかしさを差し引いたとしても、この季節に、この時刻に花火を打ち上げるなんてそちらのほうがおかしい。
窓を閉め、部屋着用のカーディガンのうえからグレイのフードつきのパーカーを着込み、厚手のジーパンを履いて家を出た。外は、当然のことながらひどく冷え込んでいた。フードをかぶり、冷え込んだ手をジーパンのポッケにねじ込みながら辺りを見渡すと、また花火の音がした。音は東の方角からやってくるようであった。東には大通りを挟みちいさな中学校がある。その裏手には名も知らぬちいさな山が。山のむこうのことまでは判らない。
とにかく東へ歩いた。僕を取り囲む民家やアパートの類は、そろって沈黙を決め込んでいた。虫の声も、車の音も、そこには1ミリだって存在しえなかった。僕の湿った足音だけがそこにはあった。世界は、いまもっとも深い夜の底にあるような気がした。
けれど静寂は長くは続かなかった。ひとの、話し声のようなものが聴こえたのだ。それは東の大通りに近づけば近づくほど確かなものとなり、話し声のほかにも太鼓の音や笛の音がした。花火は、依然打ちあげられていたが、当然のようにその姿をとらえることはできなかった。
なにかが行われていることは確かだった。けれどなにが行われているというのだ? 僕はこの街に来てはや3年になるけれど、この時期に、そしてこんな時刻になにかしらの行事が執り行われているといった話は聞いたことがない。今年から始まったのだろうか。いや、けれど、どうしてまたこんな日時に?
僕の歩くスピードは段々と加速する。それに比例するように、話し声、太鼓の音や笛の音はおおきく確かなものとなる。花火は――いったいどこであがっているのだ?
そして僕は大通りに出た。果たしてそこには、30人ばかりの20代から30代くらいの男女の集団が、大通りを北に行進している最中であった。そのなかのいくつかが木製の横笛を吹き、いくつかが小太鼓を叩いていた。笛も太鼓もやっていないものは、思い思いに踊ってみたり、または雑談をしていたりと様々であった。彼らに共通しているのは、その身を黒い衣服で染めているというただひとつであった。それがために、彼らの姿は闇夜のなかに交じってうまくとらえることができない。まるで、ひとつのおおきな生命体であるようにもみえた。
僕はそのなかの雑談をしている20代くらいの2人の女性におずおずと話かけた。
「あのう」と発せられた僕の言葉に、両方が同時に振り向いた。片方はその髪を肩の辺りで切り揃え、もう片方は地面に着くぎりぎりくらいまで垂らしていた。どちらも黒髪で、そのどちらもがひどく整った顔立ちをしていた。
「あら」と短髪のほうが云った。
「あらあらあら」と長髪のほうも続き、2人して僕の顔を舐めるようにみた。
「あなたどうやってここに来たの?」と短髪のほうが云って、「もしかして迷子?」と長髪のほうが続いた。
「いや、外でなにやらもの音が聴こえたので、なにかお祭りでもやっているのかなって……。これはいったいなにをされてるのですか?」
「これは夜のお祭りよ」と短髪のほうが云って、長髪のほうが肯いた。
「夜のお祭り?」
話しながら、僕らは歩いた。大通りに面している民家のどれもが、その明かりを落としていた。コンビニエンスストアの類もおなじであった。まばらにある街灯のひとつひとつだけが、夜を一定の範囲照らしていた。月の姿は――いまはもう、雲に隠れ認められない。
「わたしたちは、この夜と一緒に一生を過ごすのよ。わたしたちの歩くところにはこの夜があり、この夜のあるところにはわたしたちがいる」長髪が云い終わるのとおなじに、短髪のほうが続けた。「わたしたちは似た者同士なの。わたしたちはみんなこの夜が大好きで、離れたくなくて、だからこうしてずっと一緒にいるの。まるで永遠の愛を誓ったカップルみたいに」
そのとき、ひと際おおきな花火があがった。咄嗟に上空を仰ぐも、やはりその姿をとらえることはできなかった。
「もしかしてあなた、この音が聴こえるの?」短髪が、驚いたように目を丸くして問うた。
「もともとこの音が気になってここまで来たんです。これはいったいなんなんですか? どこであがっているんですか? 音はするのに、実物がどこにもみえない……」
「この音についてはわたしたちもよく判らないの」長髪が云った。「わたしたちのなかでも、この音を聴き取れるのは2・3人しかいないのよ。思うに、より深く夜と同化できたものにのみ、この音は聴こえるの。より深く夜を知って、より多く夜を愛しているものにのみ……ねえ、あなたってついてるわ」
僕たちの話し声につられてか、気づけば僕らの周りにはさらに5・6人ほどの黒塗りのものたちが佇んでいた。
「この子は?」「へえ、あの音が聴こえるんだ」「どうする?」「さあ、それは判らないよ」「いずれにせよ急がなくちゃ」「もうすぐ夜が明ける」
集団は、なにやら議論を重ねているようであった。そのあいだだけ彼らの行進は止まって、僕はただ空を仰いでいた。月はない。星たちの姿もまた。風は吹いていない。夜は――ありえないほどの静寂をまとって僕らを浸していた。
しばらくして、集団のなかからひとりの男性が歩み出した。男性は、当然のことながら黒い衣服をまとっていた。それだけでなく、男性の顔面のあたりには黒い霧のようなものがまとい、その表情を汲み取ることは1ミリだってできやしなかった。
「もしよろしければ」とひどく低い、獣のうねり声のようなかたちで男は云った。「もしよろしければ、僕たちと一緒に旅をしないかい? 君には適正がある。もしも君がうちにくわわれば、我々はさらにこの夜のことを知ることができ、より深く愛することができる。そしてもしかしたら――僕たちは夜そのものになれるのかもしれない」
「夜そのもの?」
「あるいはね」とさらに低く、深い音程で男は云った。
「これはとても素晴らしいことよ」と男の右隣に佇む短髪が云った。
「光栄なことよ」と続けて左隣の長髪が云った。
僕はすこしのあいだ俯いて、それから答えた。
「それは――ちょっと怖い」
それを聞いて、男はちいさく頷いて、それから長髪のほうがこちらへ歩み寄った。僕と彼女の距離は段々と縮まって、気づけば彼女の鼻先が僕の鼻先にぶつかるまでの距離にいた。
「それでは坊や」長髪は云って、僕の唇にとても短いキスをした。「さようなら」
その言葉を合図に僕の躰はずぶずぶと地面に沈み、ゆっくりと、けれど確かに、僕は地面に飲まれる。そんな僕の姿にはお構いなしに、彼らは僕らに背を向けて、また行進を再開したようであった。長髪の女性だけが違って、いつまでも僕のことを見下ろしていた。見下ろしながら、彼女は僕に語り掛けた。
「ねえ、知ってる? この世界には、まったくのおなじ夜ってものは存在しえないの。今日と、明日と、明後日の夜はそのどれもが違って、今日の夜はもう二度と訪れることがないの」
もう二度とよ、と長髪はつよく云った。
僕の躰は顎のあたりまで沈み、もうなんの身動きを取ることもできなかった。彼女の言葉も段々と遠くなり、心なしかぼやけて聴こえた。
「いいえ、夜だけじゃない。すべてのものごとが、この世界では一度きりなの。朝も、夜も、昼も。太陽も、月も。出会いも、別れも。出会わなかったことも、別れなかったことも。ねえ、それって最高に怖くない? あり得ないくらい恐ろしいことだとは思わない? 耳をふさぎたくならない? すべてを否定したくならない? もしそう思ったら、また夜のお祭りを見に来てちょうだいね」
――そこにはもう、わたしたちはいないのだれど。
その言葉を最後に、僕の躰は完全に地面のなかに沈んだ。なんとなく、彼女が去ってゆくのが判った。祭りの音も、夜の気配も、そのどれもが確かな感覚で遠のいていった。
やがて意識すらも薄れていって、僕はただ、眠るように目を閉じた。