第97話 よく分からないことについて
リィルが少しずつ成長しているという話です。
「師匠ってば、ちょっとへんだよ」
私は隣を歩く師匠に語り掛けた。
しかし師匠は、どこ吹く風といった体である。
「そうかな?別に普通だろう」
大量の買い物袋を抱えながら、師匠はいつもの無表情でそう言った。
百貨店の装飾品売り場を並んで歩きながら、私は師匠に対して疑いの眼差しを向けていた。
それも当然である。
今日の師匠は、異様なのだ。
「だってだって!わたしのほしいもの、いっぱいかってくれたもん!」
そう。
師匠が今抱えているのは、全て私の望んだ品だ。
最新の流行の品である、ニホンのマンガという本。
ニホンの文化の勉強のためという名目でお願いしたら、買ってくれたのだ。
それに、鼬の毛皮で作った手袋。
指先がかじかんで剣を取り落とさないようにという名目でお願いしたら、買ってくれたのだ。
さらに、可愛い絵柄のついた携帯型通話装置の入れ物。
壊れやすい通話装置を衝撃や落下から守るという名目でお願いしたら、買ってくれたのだ。
「もっと欲しい物があったら、いくらでも買ってあげるよ?」
自分の娘よりも幼い少女に入れ込む援助交際親父のような台詞を吐きながら、師匠は無表情にそう言うのであった。
やっぱり変だ。
今日の師匠は、異様である。
私は、身に覚えがないのにこれ程の厚意を受け続けることが、だんだんと恐ろしくなってきていのだった。
「師匠、おはよう」
私のその一言で、異変が始まった。
この地上を生きる知性ある者なら大抵が、一日の始まりの挨拶として使用するありきたりな言葉である。しかしそれがきっかけとなって、異変が始まったのである。
いつも通りにすでに起床していた師匠は、私の挨拶に対して返事をせずに、私をじっと見つめた。
その顔はいつもの無表情だったが、眼だけは大きく見開かれていた。
「師匠?どうかしたの?」
その眼に宿る驚愕の感情を読み取り、私は首を傾げた。
私はいつも通りにしろすけに起こされ、いつも通りに寝台から這い出し、いつも通りに居間へと降りて、いつも通りに師匠に挨拶をしたのだ。
私がしろすけを抱きしめながら問いかけると、師匠は腕組みをしてうんうんと頷き始めた。
「君。もう一度、言ってくれたまえ」
ええっ、と私は口を大きく開いた。
挨拶の仕方が気に入らなかったのだろうか?
でも、そんな程度のことなら一言注意をして終わりのはずだが。
私は訝りながらも、もう一度朝の挨拶をすることにした。
しろすけを足元に下ろし、師匠をきっと見つめ、息を大きく吸い込み腹に力を込めて、私は再びこう言った
「師匠、おはよう!」
きちんと相手の顔を見据えての挨拶。
声の大きさも十分だ。
これなら文句はないだろう。
そう思って師匠を見ていると。
「もう一度だ」
何かがまだ気に入らなかったらしい。
またも師匠は、因縁をつけてきた。
だんだんとイライラしてきた私は、今度は怒鳴る様に挨拶をした。
「師匠!おはよう!」
「もっとだ。もっと頼むよ、君」
なんだか気に入らないというよりも、聞き入っているように感じる。
師匠は目をつぶりながら、さらなる私の言葉を待っていた。
いい加減にうんざりしてきた私は、つかつかと師匠に詰め寄ると、両手を口に当てて叫んでやった。
「師匠!師匠!師匠ー!」
我ながら、お屋敷全体が震えるのではないかと思う程の声量だった。
恐らく耳鳴りに苛まれているのだろう師匠は、考え込むようにしてしばらく目を閉じていた。
「ふむ」
何が何だか分からないが、どうやら満悦したらしい。
やがて師匠は眼を見開いて頷くと、ふらふらと台所の方へと移動していった。
・・・んん?台所へ?
「あれ?たんれんは?」
今日は平日なので、朝食の前に日課の鍛錬がある筈なのだ。
事実居間の卓上には、刺突剣を模した細身の木剣と水筒、それに手拭が用意されていた。
これ以上何か必要なものがあるのだろうか。
そう思って声をかけると、驚くべき答えが返ってきた。
「ああ、今日はお休みにしよう」
台所の方から響いてきた師匠の声に、私は絶句した。
師匠に強要されている毎朝の鍛錬は、よほどの悪天候でなければ決行されてきた。
特に冬場は雪や風のせいで地獄の苦痛を伴うのだが、師匠はお構いなしに素振りをさせるのだ。
つい先刻だって、しろすけが耳元でがなり立てるので嫌々ながら寝台から這い出し、わざわざ防寒具を着込んで準備をしてきたのだ。
それなのに、これはどういうことのなのだろうか?
私が足元のしろすけを見つめると、しろすけも私を見ながら首をかしげていた。
鍛錬なしの朝食というものは、なかなかに良いものである。
なにせ汗で気持ち悪くなることなどないし、鍛錬の分の時間を使ってゆっくりとくつろげるからだ。
休日の朝食は、大体そうである。
しかし常々、献立の中にある野菜がそれを台無しにしてしまう。
師匠は朝・昼・晩のいずれにも、必ずどこかに野菜を使うのだ。
師匠に言わせれば、穀類・肉類・野菜類の均整がとれた食事こそが健康の秘訣なのだそうな。だが少なくとも私にとっては、野菜というやつは精神の健やかさを阻害する悪の産物である。
なにせ味が良くない。
匂いも良くない。
歯ごたえも良くない。
あんな物を喜んで食べるのは、家畜か虫だけなのだ。
しかし今日の献立は、善の輝きに溢れていた。
「さあ、召し上がれ」
そう言って師匠が私の目の前に置いたのは、大好きな卵と燻製肉の炒り物。
それに一口大に切り分けられた、蜜柑と林檎の山盛り。
そして乳粥だった。
「師匠、やさいは?」
「ああ、うん。あいにくと、切らしてしまってね」
そう言いながら師匠は、私の対面に座っていつもの祈りを捧げ始めたのだった。
なんだか前にも似たようなことがあったなー。
私は嫌な予感を覚えつつ、朝食をいただくことにした。
野菜がないためだろうか。
いつもよりも食が進むような気がする。
「ん!だめだよ、しろすけ」
すでに自分の朝食を平らげてしまったらしいしろすけが、いつものように私の足元をちょろちょろと走り始めたのを見て、私は釘をさした。
「きょうは、あげないから!」
私がそう言うと、しろすけはしょげたように首を垂れながら、自分の皿の前に戻って行った。
悪いが、果物は好きな方なのだ。
好物は、譲ってはやれない。
私がしろすけに負けないぐらいの勢いで朝食を口の中に放り込んでいると、師匠は自分の皿をしろすけの前に置きながら言った。
「今日は予定を変更して、買い物に行こう」
しろすけの喜びの鳴き声を聞きながら、私は嫌な予感が的中したことを理解した。
何のことはない。
師匠は私に、荷物持ちをさせようというのだ。
私は薄く切られた燻製肉をほとんど噛まずに飲み込みながら、師匠を睨みつけた。
恐らく、量販店で特売でもやっているのだろう。
貧乏性の師匠が安いうちに大量に購入しようとするのは、いつものことだった。
そのための戦力として利用するために、こうして私を餌付けしようというのだろうが、そうはいかない!
「わたし、きょうはよていがあるから!」
ほとんどかき込む様に大急ぎで朝食を済ませると、私はさっさと自室へ退散しようと椅子から腰を浮かした。
師匠の買い物は、往々にして長時間の強行軍となる。
そんなものに付き合うくらいならば、一時間もかからない鍛錬の方がまだましだ。
どうせどちらも外に出ることになるのだし。
「何、それは困るな」
言いながら師匠が、私を止めるように立ち上がった。
ほら、やっぱりだ!
私は奥歯を噛み締めた。
間違いなく、私をこき使うつもりなのだ。
ただでさえ荷物持ちなんて力のない私には大変な労苦を伴うというのに、それを二時間も三時間も続けさせるだなんて、あんまりひどい悪行ではないか。
私がそんなことを考えながら、そろそろと椅子から飛び出そうと身構えていると。
師匠が続けて、異様なことを言った。
「今日は、君の欲しい物を買ってあげたいのだが」
「やっぱり、へんだ!へんだへんだへんだ!」
「そうかなあ?」
私に言われるがまま、服だの菓子だの本だのを買ってくれる師匠は、実に上機嫌だった。
いつだったか私の新しい剣を選んだ時と、非常に良く似ている様に思えてしまう。
「だってきょうの師匠は、わたしがなんにも“していない”のに、すごくやさしいもの!」
「いや、きちんと“している”さ」
無表情なのに鼻歌なんぞを歌っていた師匠は、私に向き直った。
その真剣な眼差しは、師匠の実直さを表しているようだった。
「私は、君が“成長している”ことが嬉しいんだ。それに報いようというだけだよ」
「せいちょう?」
私は、ぽかんとしてしまった。
今朝からずっと師匠からいただいている厚意の理由が、私が成長したからだという。
しかし成長しているとは、一体全体どこがだろうか?
「わたし、せいちょうしてるの?」
「しているとも。すごく、ね」
無表情に頷く師匠に対して、私は右へ左へと首を傾げた。
「わかんないなぁ」
成長したっていうが、私のどこが成長したというのだろうか?
身長なんて、昨日とそれ程変わってはいない。
朝の鍛錬はいつも通りにどうにかずるけられないかと考えていたし、そんなことを考えていたせいで寝台から這い出すのに十分もかかってしまっていた。
朝食の際には祈りの言葉なんて述べなかったし、こうして百貨店では欲望のままに師匠に欲しい物をねだっている。
我ながら、外的にも内的にも成長しているとは思えないのだが。
「それでいいんだよ、君」
唸る私に対して師匠はそう言うと、器用に片手で大量の買い物袋を抱えながら、もう片方の手で私の頭を撫でた。
大きく、温かく、力強い
安心する手だ。
なんだかその手からは、師匠が一切の含みを持っていないということが伝わってくるようだった。
「君が気づいていなくとも、私はしっかりと聞いているし、見ているから」
気持ちの良さに思わず眼を閉じた私に向かって、師匠は優しく言った。
「師匠、もう、いいよぉ」
「気にしなくていい。もっといろいろ買ってあげよう」
「いや、でもぉ・・・」
「遠慮しないでくれ給え。成長した君には、ぜひともご褒美をあげたいんだ」
「・・・」
ちょっと分かりにくいかもしれません。




