第91話 好みについて 前
「ししょうの、へんたい!」
私は跪く師匠を見下ろしながら喝破した。
腕組みをしながら仁王立ちをする私は、小さな身体をいっぱいに使って怒りを体現して見せていた。
とはいえ、完全に怒りだけに支配されていたわけではなかったのだが。
「大変に、申し訳ないことをした」
未だ朝食の用意に入っていない師匠は、その言葉とは裏腹に喜びに満ちた表情だった。
いや、それでは語弊がある。
師匠はいつもの通りの無表情だったが、その眼に宿る感情は確かな喜びだったのだ。
変態呼ばわりされながらのこの異常な反応に怖気を走らせながら、私はさらに続けて言った。
「ししょうの、へんたい!へんたいへんたいへんたい!」
「いや、本当に申し訳ないことをした。これ、この通りに」
私の罵倒に反論するでもなく、師匠は潔く頭を下げた。
凄まじい寝坊をかました師匠は、なんと寝ぼけたまま私を抱きしめたのだ。
完全な不意打ちだったのでそれを堪能するなどという気など一切起きず、私は慌てて師匠を殴りつけてしまったのだ。
まったくもって、私の師匠は変質者である。
私のような年端もいかない娘を手籠めにしようとするなんて、聖職者の風上にも置けない男だ!
前もって言ってくれていれば、心の準備も・・・
「いやいやいや!ちがうから!そういうんじゃないから!」
「うん?どうしたんだい、君」
訳の分からないことを言い出した私に驚いたのか、師匠が顔を上げた。
その二つの眼からは喜びが薄れ、代わりに私を気遣う様な感情が溢れていた。
何だか私の心を見透かされそうな気がして、今度は私が師匠から顔を背けた。
居間の食卓の上では、空腹に耐えかねたしろすけが催促をするように鳴き声を上げていた。
朝。
いつになく気持ちよく目覚めた私は、同時に強い違和感を覚えた。
それもそのはず、すでに窓の外では日が昇っていたのである。
通常この時期になると、街から見える日の出はかなり遅くなる。
師匠によれば、これが地上に四季をもたらしているのだそうな。
毎年冬になると、六時に起きても周囲は夜の様に真っ暗だ。
必然冬における私と師匠の鍛錬は、暗く寒い環境で行われることになる。
私は日課の鍛錬が大嫌いだが、こと冬におけるそれは超が付くほどの大嫌いになる。
毎日毎日温かい寝台から引っ張り出されて、外のあまりの寒さに寝ぼけることすら許されず、歯の根を鳴らしながら剣を振るうのだ。
こんな無為な行為を喜ぶ人間など、居ようはずがない。
だから私が冬の朝を寝台で過ごしたいと願うのは普通のことなのだ。
つまり、何が言いたいのかと言うと。
私がこうして朝の七時まで眠りこけていられるというのは、この家においては異常事態だということなのだ。
私は机上の時計を確認してその事実を認識すると、慌てて自室を飛び出た。
勿論可愛いしろすけも一緒だ。
相変わらず私を湯たんぽ代わりにするようにしてへばりついていたらしい。
私が目覚めた時にはとっくに眼は冷めていたらしいが、そのまま私の身体に密着して温まっていたようだ。
そんな愛しい火吹き蜥蜴は、いつもの朝の挨拶代わりに私の頬をぺろりと舐めた。
「ん!おはよう、しろすけ!」
短く鳴いて返事をするしろすけを抱きしめながら、私は一気に階下へと飛び降りた。
どすんっ!
と、床が大きな音をたてたというのに、それを注意する人物がいない。
つまり、師匠が居間にいないのだ。
私は居間へと飛び込むと、周囲を見渡した。
やはり、居ない。
急な用事でもできて、出かけて行ったのだろうか。
そう思って卓上を見回したが、書置きの一つもない。
だとすると、まだ自室にいるのだろうか。
そう考えて、私は師匠の部屋へと視線をむけた。
すでに師匠の本来の起床時間から二時間以上が経過しているのだ。
まさかまだ、寝ているなどということはあるまい。
・・・では、もしや急病とか!?
私は恐る恐る、師匠の部屋へと歩み寄った。
欠伸をするしろすけをぎゅっと抱きしめ、扉の取っ手に手をかけようとすると。
がちゃり。
突如開いた扉に、私は驚いて身を硬くした。
果たして私の目の前には、師匠が立っていた。
半ば呆然と私を見つめるその眼には、何か涙の痕のようなものが見えた。
恐らくしろすけ同様に、欠伸でもしていたのだろう。
「ししょう、おそかったね」
心配して損した。
私はそう思いながら怒りの表情で師匠を睨みつけた。
体調を案じた弟子に対して、しかし愚かな師匠は胡乱気な視線をむけてきた。
「・・・ああ、おはよう」
私の心中に反して、実にのんきな挨拶である。
ひょっとして、自分が朝寝坊をしてしまった事実が分かっていないのだろうか。
いつもと違って情けない様子の師匠に、私が頬を膨らませると。
急に師匠が私の顔を見つめ始めたのだ。
そしてひとしきりじろじろと私のふくれっ面を鑑賞した後に。
突如師匠の態度が豹変したのである。
その変質的な行動以降、私はしばらく師匠を面罵し続けた。
気安く乙女の身体に触れるその行為を、聖職者の卵として許しておけなかったのである。
決して、もっと優しく扱ってほしいだとか、もうちょっといい雰囲気の時にやるべきだったなどという愚かなことは考えていないのだ!
「ほんとにししょうってば、さいてーのへんたいだ!きっとじごくいきだ!」
喚き散らす私に対して、師匠はいい加減うんざりしてきたらしい。
だんだんとその眼から喜びの感情が消えてきていた。
「そう怒らないでくれたまえ。確かに君を抱擁したが、それには男女間のアレコレは一切含んでいない。君に対して劣情を抱いていたわけではないんだよ」
「え?ああ、そう・・・」
私を安心させようとしたのであろう。師匠は良く分からない身振り手振りを交えて私に弁明した。
しかしその師匠の言葉は、何故だか逆に私の心を大きくかき乱した。
「へえぇ、ふぅーん?そうなんだ・・・」
私は肩を落としたり、歯ぎしりをしたり、自分で腕をねじったりと、私自身にも良く分からない行動をとり始めた。
何にしても、身体を動かしていないと感情が暴発してしまいそうだったのである。
「どうしたんだい、君」
弟子の反応が予想の埒外だったのだろう。
師匠のその無表情の中にあって、眼だけが不安な色を湛え始めていた。
だが、不安なのはこちらも同じなのだ。
師匠は私に劣情を抱いていないというが、それはつまり私を女として見ていないということである。
別にそれ自体は何の問題もないが、しかし大問題である。
なにせ私は師匠の弟子であるし、親代わりである師匠に特別な感情など一切抱いていないのだから。
だから問題はないのだ。だが、大問題なのだ。
「・・・ししょうのこのみって、どんなの?」
私はにわかにざわつき始めた心情をどうにかして抑えようと、師匠に訊ねた。
この変質者が一体どのような女性を好くのかなど知ったことではないのだが、私はそれを知らなければならないのだ。
なにせ私は師匠の弟子であるし、命の恩人である師匠に特別な感情など一切抱いていないのだから。
だから知ったことではないのだ。だが、知らなければならないのだ。
「私の好み?女性のかい?そうだね・・・」
混沌の渦の様に泡立つ私の心に気づいた様子もなく、突然話題を振られた師匠は律儀に考え始めた。
突発的に魅力的な女性の影がちらつくことのある師匠だが、あれらの女性陣の中には該当する人物はいるのか。あるいはいないのか。
私は拳を握りしめながら、師匠の言葉を待った。
「聞きたいのかい?」
師匠言いよどんで、私に尋ねてきた。
「ききたい!」
私は即答した。
この愚か者の好みなど聞きたくはないのだが、私はそれを聞かなければならないのだ。
なにせ私は師匠の弟子であるし、大嫌いな師匠に特別な感情など一切抱いていないのだから。
だから聞きたくなどないのだ。だが、聞かなければならないのだ。
鼻息も荒く顔を迫らせる私におののいた様子を見せながら、師匠は視線を上下左右へと泳がせた。
私は、そんな師匠の視線を追うようにして、顔を上下左右へと動かした。
観念した師匠は少しだけ頬を赤らめながら、ゆっくりと、かみしめる様に答えた。
「私の、女性の好みは、だね・・・」
もったいぶるような口調にいら立ちつつも、私は辛抱強く答えを待った。
一体、この朴念仁の甲斐性なしの無思慮な馬鹿男は、どのような女性を好くのだろうか。
そしてその範疇に、私は・・・
ごくりと唾を飲み込む私の眼前で、師匠の唇が動いた。
「・・・“私よりも強い女性”だ」
その答えに、私は絶句した。




