第4話 清掃について 後
下水道は街中に張り巡らされている。
そんな中からたった一匹の正体不明の実験動物を見つけ出すのは、普通ならば不可能に近いことだ。
しかし今回は、派手に痕跡が残されていた。
研究棟のすぐそばにある排水溝から下水道に入ると、なにやら壁面に黒い粘液のようなものがこびりついていたのだ。
しかもそれは、途切れることなく先へ先へと、まるで蛞蝓が這った後のように続いていた。
この道しるべのおかげで複雑に入り組んだ下水道の中を迷うこともなく、謎の実験動物を追跡することが出来ていた。
しかしながら、壁やら天井やらを自在に這い回るとは。
いったい如何なる実験動物なのだろうか?
「心配ない。大したことはないよ」
師匠がこのようなことを言うときは、決まって相手の詳しい情報を持っている時だ。
そして同時に、いくら聞かれても答えは教えてやらない。自分で考えろ。という意思表示でもある。
師匠の大嫌いなところだ。
三十分も歩いた頃。
道しるべだった黒い粘液が、目の前の天井で忽然と消えていた。
これより先の壁面や天井には、粘液は付いていない。
では水の中にいるのだろうか?
私は目を凝らして水面を観察し、右手の剣で何度か突いてみた。
手ごたえは無い。
ならば実験動物はここで水の中に落ち、そのまま進んでいるということだ。
私はそう判断して、先へと進もうとした。
しかし。
「やれやれ」
突如師匠は呟いて、私の服の襟を掴むと、後ろへと強引に引っ張った。
溜まらず私は姿勢を崩し、盛大に汚水の中に尻餅を付いてしまった。
ばしゃんという大きな音と共に、水しぶきがあがった。
当然のことだが、即座に下服から下着までが水に浸され、なんともいえない嫌な感覚が下半身に広がった。
おまけに皮鎧にまで汚れが飛び散ってしまった。
なんて酷い!
気持ち悪い!
おまけにこの皮鎧!
手入れをするのにどれだけかかるやら!
「のんきだなぁ君は」
私が抗議の声を上げようと師匠を見ると、師匠が左腕で何かを掴んでいた。
それは酷くぬめぬめしていて、まるっきり形がおぼつかなくて、そこはかとなく水っぽいような、なんとも形容しがたい『粘体』だった。
そんなまさか。
天井にも壁面にも、汚水の中にも何もいなかったのに。
「擬態だよ。天井から君を狙っていたんだ」
師匠は奇妙な粘体を掴みながら言った。
いや、どちらかといえば、粘体の方が師匠の腕にまとわり付いているのではないか。
私が咄嗟に、師匠の腕からそれを払いのけようとすると、師匠は静かに私を制した。
「見ていなさい」
粘体が絡みついた師匠の左腕は、見る見るうちに皮膚が溶け、筋繊維が解け、骨ばかりになってしまった。
手首から指にかけての関節がばらばら外れて、幾つかの細工部品のようになったかと思ったら、粘体からぺっと吐き出された。
「綺麗に食べるじゃないか。この行儀の良さは、君も見習うべきだね」
左の肘から上をまるまる『捕食』された師匠は、しかしいつもの通りの無表情であった。
言ってる場合ではない!
私は、もはや白い棒っきれのようなものがくっついているだけの師匠の左腕に向けて、剣を振るった。
上手い具合に一撃で、粘体ごと師匠の左腕の残骸を切り落とすことができた。
「お見事」
だから、言ってる場合ではないというに!
私は師匠を壁面へと突き飛ばすと、水面に落ちた粘体へと対峙した。
粘体は水の中でぶるぶると震えると、師匠とは反対側の壁面へと這いずるように移動した。
奇妙なことだった。
この粘体は透明度が高く、それこそ水の中に潜まれでもしたら、見つけようが無い。
それなのにこいつは、わざわざ水から離れるように、いや逃れるようにして移動している。
そういえば、いままで追ってきたこの粘体の足跡とも言うべき黒い粘液は、常に壁から天井にかけてを移動していた。一度として、水の中には入っていない。
「つまり、水が苦手だということだね」
私の推測を後押しするように、師匠が言った。
ならば、やれる。
ほんの数秒で人間の身体を消化しきってしまう程の能力があっても、弱点がはっきりとしてしまえば戦いようはある。
私は右手の剣を振るい、水から少しでも距離を取ろうとする粘体を、逆に水の中に叩き落とそうとした。
しかし。
剣は抵抗を受けることなく、そのままずるりと粘体の身体をすり抜けてしまった。
私は予想外のことに安定を崩して倒れそうになるが、何とか踏ん張って耐えた。
そして粘体の方は、特に傷を負った様子も無く、相変わらずぶるぶると震えながら這いずっていた。
もう一度、同じようにして試すが、結果は同じだった。
どうやらこの生き物には、剣による斬撃は効果が薄いらしい。
だとすると厄介だ。
私の主な攻撃手段は、この片手剣だけである。
これでは水の中に叩き落すどころか、傷一つつけることはできない。
他に持ってきたものといえば、緊急用の治療道具や魔法薬、それに縄と鉄杭が数本だ。
いずれも、この生き物を駆除するのには適するとは思えない。
有効な手段を思いつけずにいると、粘体の様子に変化があった。
その不定形の身体をいっぱいに震わせると、なぜか縮んだのだ。
そこに不吉な兆候を感じ取った私は、咄嗟に左腕の盾で顔を庇った。
間髪をいれずに、左腕に重いものを叩きつけた様な衝撃が走り、同時に水が撥ねるような音が辺りに響いた。
まずい。
このままでは、私の左腕も、師匠のそれと同じように。
とっさに私は、左腕を水の中に突っ込むことを考えた。
しかし、粘体はなぜか私の左腕にまとわり付くことはせずに、すぐに跳ぶようにして離れてしまった。
私はしばしあっけにとられたが、即座に盾を構えなおして考えた。
なぜ、離れた?
皮鎧を着ていたからか?
それとも水の中に腕を突っ込もうとした考えを読まれたのか?
「よく見なさい」
師匠の視線は、私の左腕を指していた。
いや、左手だ。
ちがう、左手の中にある・・・これだ。
私は剣を落として右手を空にすると、左手の松明を持ち替えた。
そして、壁に張り付こうとしている粘体に思い切り押し付けた。
「~~~~!?」
生まれて初めて聞くような、いや、聞こえているのかも分からないような音域の声を出して、粘体はのたうった。
私は耳を塞ぎたい欲求を跳ね除け、二撃目を見舞った。
またも名状しがたい鳴き声を放つと、粘体はさっき以上に暴れまわり、自ら水の中へとその身を投げた。
しばらくの間、水面には激しく泡が立ち、ごぼごぼと鍋が煮立つような音を立てていた。
やがてそれが収まると、下水道に静寂が戻った。
終わったのだろうか?
「死んだよ」
師匠はいつの間にか跪き、礼の祈りの言葉を呟いていた。
驚いたことに、師匠の粘体に食われた筈の左腕には、今まさに『骨が生えて』きていた。
そして骨格が指先に至るまで復元されると、その周りに筋繊維が、まるで生糸のように巻きついていき、その上から皮が現れていき・・・。
師匠が祈りを終えて立ち上がるころには、元の左腕が、きちんとあるべき場所に収まっていた。
師匠は、完全に元通りになった左腕の手を、握ったり開いたりしながら言った。
「ウーズの一種だ。水で体組織が保てなくなるとは、かなり弱体化しているな」
うぅず?
「遥か古の生物さ。倒すのは、とても大変だった。今ではほぼ絶滅しているのだろうがね」
そう語る師匠は、いつもの無表情ではなかった。
それはそう。
彼が、闇夜を恐れて同衾を求める幼い私のために、寝物語を語ってくれた時の。
「まったく!きゅうじつがだいなしです!」
「悪かったよ。お詫びに、今日の残りの仕事は全部やっておくから」
「そうですか。ところであのおやくにん、まだもどってないみたいですよ?」
「えっ。じゃあ、まだどぶ川の掃除・・・」
「それじゃあ、わたしはおふろにはいってきます」
「・・・」