第3話 清掃について 前
私は肩で口と鼻を庇うようにして塞ぎ、込みあがる吐き気に必死に耐えていた。
周囲から立ち込める悪臭だけでも厄介だというのに、本日は快晴なり。
照りつける太陽のおかげで汗が噴出し、臭いとの相乗効果で、不快感が間欠泉のように吹き上がっていた。
なんだってこんな日に、どぶ川の清掃なんぞをしなくてはならないのか!
現在私と師匠は、街の中を流れる川の、町外れにある最下流にいた。
そこには長い時間をかけて、捨てられたごみや落ち葉や動物の死骸やらの汚物がたまりにたまり、周囲には蝿や蛆が跳梁し、さながら地獄絵図と化していた。
このまま放置しては汚水が溢れ出してしまうし、住民は悪臭で困るし、景観をそこねるし、ということで師匠へとお鉢が回ってきたのだ。
そのこと自体は、まあどうでもいい。
本当だったら今日の私は、鍛錬も依頼もない休日だったのだから。
だというのに、『一人だと大変だから』などと、寝台でまどろんでいたところを無理やり連れ出されてしまった。
まったく師匠ときたら!可愛い弟子への扱いが、いやそれ以前に女性に対する扱いがなっていない!
師匠の大嫌いなところだ!
「自分で言うかね、それ」
師匠はこんな状況でも、いつもの彫像のような顔をして、せっせと円匙で汚物をすくい上げていた。
私はこの酷い臭いに耐えかねて、少しでもましになればと手ぬぐいで口や鼻を覆っているのだが、師匠はまったくいつもの通りの格好だ。
まあ小鬼の巣窟だろうが盗賊団の住処だろうが、何処へでも同じような普段着で赴くのだが。
「つらい環境での力仕事というのも、良い鍛錬になるよ」
などとのたまう師匠は、ちっともつらそうではなかった。まったく不公平極まる。
全体、師匠の如き無神経な男とか弱い女性であるところの私では、肉体的な負担が大きく異なる。
膝まで水に使っているため歩きづらく、汚物は水を大量に含んでいるため持ち上げるには一苦労なのだ。
昨日の鍛錬の疲れが取れていないのに、これはあんまりな仕打ちだった。
本来、私たちのようにまっとうな生産業に従事していない人間が合法的に金銭を得ようとすれば、方法は限られるものだ。
大体において腕っ節ばかりが自慢の者は、『組合』へ登録して『組合員』になるのが一般的だ。
組合員になれば、組合から様々な仕事を斡旋してもらえるし、充実した施設が使える。
例えば訓練場や、宿泊用の部屋、それに食堂・酒場だ。
他にもいろいろな特典があるらしいが、詳しくは教わっていない。
もちろんその代わりに、依頼をこなして得られる金銭から幾ばくかの仲介料を取られることになるが、それでも戦うことしか出来ない人間には、とてもありがたい制度だ。
最近では、子どものころから入組して英才教育を受けている者たちもいるらしい。
これはかなり昔に、おとぎばなしに出てくるような『冒険者』と言われた人たちが長い年月をかけて作り上げたものであり、様々な改正がされつつも今日まで健全に稼動していた。
しかし師匠も私も、『組合員』ではない。
師匠いわく、『別にならなくても困らないだろう』だそうだ。
そのせいで私の実力に見合った適正な仕事は得られない。
本来なら命を一度に数十回失うような危険なものや、労働の割りに対価があまりに低いもの。
そんな誰もできない、やらないような依頼ばかりをこなすのだ。
このどぶ川さらいの依頼も、もともとは近所の貧乏な自治会から組合へと持ち込まれた依頼だった筈だ。
しかし組合員の誰一人として引き受けてくれなかったため、依頼主は師匠に泣き付いたのだろう。
当然である。
私だって、師匠の命令が無ければとっくに逃げ出している。
師匠は受ける依頼を、報酬や労力では判断しないのだ。
『困っている人は助けてやるべきだろう』などともっともらしくおっしゃるが、それならいったいどなた様が私を助けてくださるのか!?
「しゃべる元気があるなら、もっと手を動かしなさい」
まったくもって、この師匠ときたら。
私はぶつくさ文句を垂れながら、汚物の山との格闘に戻った。
どれくらい経っただろうか。
いつの間にか、あれほど酷かった臭いが気にならなくなり、顔についた汚れを拭うことすら忘れた頃。
馬の嘶きが聞こえた。
私は円匙を大量の汚物の山に突き立てて、そちらに顔を向けた。
街の方から、一頭の馬に乗った男がまっすぐにこちらに向かっていた。
その装いは一般人のそれとは違い、公職に付く者のみに許された紺色の外套であった。
男も私たちの姿を認めたようだった。
徐々に速度を落とし、やがて馬は私たちのすぐそばで停止した。
「お役人様が、何の用?」
師匠は手を止めることも無く、視線すら向けずに男に尋ねた。
無礼な行為だったが、当のお役人は憤るどころかさっさと馬からおりると、慌てた様子でどぶ川の縁に駆け寄った。
「いや、お邪魔をしてしまい誠に申し訳ありません。しかし、火急の用件がありまして」
普段は平民に対してえばり散らしている役人が、こっけいなほどにへりくだっていた。
まったく分からなかったが、ひょっとして師匠は大物だったりするのだろうか?
「忙しいから、手短に頼むよ」
「ええ、はい」
あくまでも作業を続け、その場を動こうとしない師匠に対し、役人は自分が汚れるのにも構わずにどぶ川に足を踏み入れ、ざぶざぶと汚水を掻き分けて師匠のすぐそばにまで近づいていった。
相変わらず師匠は目も向けなかったが、健気なお役人は必死に何かを話し始めた。
相当にあせっているらしい。
私があっけにとられてその様子を見ていると、師匠はやっと手を止めた。
「わかった」
師匠はそれだけ言って、役人に円匙を押し付けた。
役人は理解しかねる様子で、師匠と円匙を交互に見た。
「日が沈むまでに、終わらせておいてくれ」
絶句する役人を尻目に、師匠はどぶ川から上がり、街へと歩き出した。
話が全く分からない。
私はどうすればよいのだろうか。
「何してるんだ、君も来なさい」
ああ、やっぱり。
なんだか厄介ごとの予感がしたが、この地獄から逃げ出せるのならば何処だって構わない。
私は口元の手ぬぐいをとって、少し晴れやかな気分でその場を後にした。
可愛そうなお役人様。
私たちの代わりに、街の清掃をよろしく!
どぶ川から開放されたと思ったら、なんだって私は下水道の探検をしなければならないのか!
まったく師匠ときたら!可愛い弟子への扱いが、いやそれ以前に、女性に対する扱いがなっていない!
「だから、自分でお言いでないよ。そもそも君は、女性と言うにはまだ幼い」
後ろから、のん気に師匠が言った。
私は歯軋りをしながら、松明を片手に進み続けた。
頭上からは、所々にある排水溝の穴から日の光が漏れてきていたが、それだけではこの薄暗い道のりを見通すのには心もとなかった。
おまけに膝下にはまたも汚水が溜まっており、装備の重さも相まって非常に歩きにくかった。
そう。
今の私は、完全武装をしているのだ。
左腕に小楯をくくり付け、右手には片手剣を持ち、皮鎧を着込み、雑嚢や腰には戦闘用の様々な品が用意されていた。
あの後師匠は、どんな依頼かを教えもせずに、ただ必要なものを全て持って付いて来いとだけ言ったのだ。
訳も分からずに私は、とにかく持てるだけの装備を持ち、労働で疲れた身体に鞭打って、言われるがままにこの下水道へと突入することになったのだ。
唯一の救いは、どぶ川清掃をしていたおかげで下水道の臭いがさほど苦にならなかったことだった。
「学院の研究棟から、ある実験動物が逃げ出したらしい。そいつを始末して欲しいそうだ」
そして師匠は、ここに来てようやく依頼の内容を話し始めた。
こんな暗くてじめじめしていて汚い場所に来ると分かっていたら、私がずるけてしまうと理解しているのだろう。
師匠の嫌なところだ。
大体実験動物とは、いったいどんな姿かたちをしているのか。
そもそも捕獲ではなく始末しろとは穏やかではない。
ということは、放置しては危険な生き物ということではないのだろうか?
ぐるぐると頭の中が思考の渦でかき回され始めると、師匠が落ち着きなさいと声を掛けてきた。
「なに、たった一匹だ。今の君ならすぐに終わらせられるよ」
師匠ののんびりした声が腹立たしかったが、私の成長を認めてくれているその言葉に、少しだけ嬉しさも感じた。