第36話 我の境遇について (あるいは、やむを得ぬ犠牲について)
皆の衆、久しいな。
今回は、我の境遇について語ろうと思う。
・・・何、『お前は誰だ?』だと。
なんと、我のことが分からんと言うのか。
我だ。ほら、我が主人の。
『雪のような君』の、忠実なる下僕。
『強壮なる白』である!
・・・何、『ますます分からん』だと。
ううむ、妙な事だな。
近所の野良猫や飼い犬連中になら、これで通じるというのに。
確か、主人ら無能人の言語で表現するならば、ええと、ええと・・・
「おーい、しろすけ。そろそろ君のご主人様を、起こしてやってくれ」
あっ、はーい!
ああ、そうそう。
『しろすけ』だ!
我は下賤な無能人の言語を深く理解はできんが、恐らく我の真の名、『強壮なる白』と同じ意味なのだろうな。
・・・何、『全然違う』だと。
そんな馬鹿な。
我が主人が、必死になって考えてくださった名前だぞ。
「なんでもいいから、はやく起こしてきてくれないかい」
あっ、はーい!
ううむ、仕方がない。
その件については後回しだ。
とりあえず、我が主人を目覚めさせねばならぬ。
うぬっ。この、階段というやつ。
なんとも我の完璧なる肉体には使いづらい造りであるな。
全体、木造であるがゆえに、我の足を引っかけるにはいささか耐久性に難があるのだ。
毎度、二階に上がるためには、こうして細心の注意を払って・・・
がりっ!
あっ。
やっべ。
「どうしたー、しろすけー?」
あ、いや、なんでもないでーす。
ええい、まったく!
何ゆえ無能人というのは、かように傷つきやすく壊れやすい場所に住むのだ。
我がただ歩いただけでも傷ができると、『赤毛の方』はいつも小言を言っておられる。
だがそう言われても、我にはどうしようもないのだ。
我のこの力強い爪は、岩ですら切り裂ける。・・・ようになる筈だ、将来は。
そんな力を秘めた我が爪が触れれば、木造の床やら壁なんぞ、すぐに傷だらけになるのだ。
これは、『やむを得ぬ犠牲』というやつだ!
さて、主人の部屋に着いたぞ。
主人はどうやら夜行性らしく、いつもいつも夜遅くまで起きておられる。
そのため、かように早朝の起床は肉体的に多大な負担を強いられるらしく、したがっていつもいつも我が主人を起こすのだ。
主人は、我が入りやすいように部屋の扉を少しだけ開けておいて下さる。
なんとも心優しき主人よ。
しかし・・・。
なんとも、主人の巣というのは、いつもいつもごちゃごちゃとしておるな。
何やら“雑誌”だの“絵草紙”だの食料の残りかすだのが散乱しており、歩きづらいことこの上ない。
ちょっと前まではその隙間をちょろちょろと縫うようにして歩き回ることができていたのだが、最近だいぶ成長してきたので、ぶつからずに歩くのにはいささか難があるのだ。
毎度、主人の褥に近づくためには、こうして細心の注意を払って・・・
ばしっ!
ばさばさばさっ!
あっあっ。
やっべ。やっちった。
ええい、まったく!
何ゆえ無能人というのは、かように崩れやすい紙の束をうず高く積み上げるのだ。
我がただ尻尾をふるっただけで散らかってしまうと、『雪のような君』はいつも小言を言っておられる。
だがそう言われても、我にはどうしようもないのだ。
我のこの力強い尻尾は、大樹ですら薙ぎ払える。・・・ようになる筈だ、将来は。
そんな力を秘めた我が尻尾が触れれば、紙の塔なんぞ、すぐに崩れ去るのだ。
これは、『やむを得ぬ犠牲』というやつだ!
さて、主人の褥にたどり着いたぞ。
いつだったか、主人の顔を舐めて起こそうとしたら、噛みつかれてしまったことがある。
食料の類と勘違いされてしまったようだったが、命の危険を感じる程の恐怖であった。
それ以来主人を目覚めさせるときには、我はこの手を使うのだ。
ぱくっ!
ふふふ。
こうして毛布に噛みついて、一気にはぎ取ってやるのだ。
最近は朝の気温が低く、いつもいつも薄い布切れ二枚だけを着用して寝ている主人には、よい起床剤になるだろう。
覚悟するがいい、主人よ!
とりゃっ!
がしっ
な、何ぃ!?
我が主人よ、眠ったまま毛布を引っ張っておられるのか!?
くっ、しかし主人よ。
我も『赤毛の方』から、貴女の覚醒を任された身。
どうあっても今すぐに、目覚めていただくぞ!こうして、我の全力を込めて・・・
ぐぐぐぐぐぅ~
びりびりびりっ
あっあっあっ。
やっべ。やっちった。ごめんねー。
ええい、まったく!
何ゆえ無能人というのは、かように千切れやすい毛皮をかぶるのだ。
我がただ衣服や絨毯に噛みついただけでも破れてしまうと、『雪のような君』も『赤毛の方』もそろっていつも小言を言っておられる。
だがそう言われても、我にはどうしようもないのだ。
我のこの力強い牙は、鋼鉄の鎧ですらたやすく噛み砕ける。・・・ようになる筈だ、将来は。
そんな力を秘めた我が牙が触れれば、こんな薄っぺらい毛皮なんぞ、すぐに切ってしまうのだ。
これは、『やむを得ぬ犠牲』というやつだ!
・・・何、『さっきから意味の分からない単語が出てくる』だと?
ああ、『雪のような君』に加えて、『赤毛の方』のことか。
主人らのような無能人の持つ固有名詞は我にとっては理解しがたく、同時に発音もできないものなのだ。
ゆえに、我は敬意をこめて、主人を『雪のような君』と。
そしてその師匠を、『赤毛の方』とそれぞれお呼びしているのだ。
・・・何、『そのまんまではないか』だと?
何が問題なのか理解できんな。
我が真の名、『強壮なる白』とて、我が力強き外見を的確に表現しているだろう。
だから我も、お二方の髪の色を見て名付けたのだ。
そんなことよりも。
ううむ、主人はまた毛布にくるまって丸くなってしまわれた。
また噛みつかれるのは、流石の我もたまらぬ。
かと言って、我が主人が『赤毛の方』から小言を浴びせられるのも、なんとか回避させたいが。
『雪のような君』と『赤毛の方』はいつも仲良くして欲しいのだ。
我はどちらも、大好きなのだから。
我が主人、『雪のような君』は、我の育ての親である。
以前に本人から聞いたが、我の育ての親を殺したのだそうだ。
だが、我には恨みの類は一切ない。
全体、我の産みの親たちは、無能人と敵対していたらしい。
であるならば、そのままなら我もいずれは害獣として駆除される運命だったのだろう。
むしろ、親子ともども死に絶えるという最悪の結末から救ってくださったという一点において、感謝すらしておるのだ。
まあ我は産みの親の顔すら知らぬから、悲しみようもないし実感も分かないのだがな。
・・・うーむ、それよりも。
我が主人をどうするべきか。
先刻からずっと呼び掛けているのだが、一向に気づいてくださらん。
仕方がない。
一度、『赤毛の方』の元に戻るとしよう。
「やあ、駄目だったようだね、しろすけ」
あっ、はーい。駄目でしたー。
「やれやれ。あの娘にも、困ったものだ」
頭を振る『赤毛の方』は、その実まったく困ってなどおられないというのを、我はよく知っている。
『赤毛の方』は、そのように“困った娘”である『雪のような君』を、憎からず想っておられるのだ。
我は、この『赤毛の方』にも深い感謝をしている。
いつも食料を提供してくださるからだ。
つい先ほども・・・。おっと。
先日『赤毛の方』は、『雪のような君』に交尾について教えようと考えておられた。
ゆえに我は、“実践”すればよいと提言したのだ。
我が主人、『雪のような君』は、間違いなくそれを望んでおられる。主人の忠実なる下僕である我には、はっきりと分かるのだ。
互いに想い合う無能人同士。
早く結ばれて卵を産めばよいと、我は思うのだ。
・・・まあ、『赤毛の方』はお気に召さなかったようだが。
「当然だよ、しろすけ。人間の男女の間柄というのは、少しばかり複雑なんだ」
でもでも『赤毛の方』ー。
我が主人は、絶対自分からは手を出しませんよー、あれ。
貴方から襲ってやらんと、いつまでも卵が産めないじゃないですか。
「あんな幼い娘を手籠めにするなんて、できるわけがないだろう」
なんだ、世間体を気にしてるんですか?
そんな下らないことよりも、まずは主人の気持ちを汲んでやってくださいよー。
まあ、実際に手を出して『赤毛の方』の評判が落ちるのも、『やむを得ぬ犠牲』というやつですよ。
「君もまだ若いだろうに、どうしてそんなにませたことを言うんだい」
ああ、何やら主人が読んでおられた“雑誌”に書いてあったのですよ。
何だったかな、『イマドキ娘の恋愛事情!~街娘百人に聞いた衝撃の経験~』とか書いてありましたー。
「・・・なんで子どもが、そのようないかがわしそうな雑誌を読むのだ」
そりゃあ、『赤毛の方』。我が主人は、貴方の卵を産みたいと望んでおられるのですよ。
そのために、主人なりに学習しておられるんです。
「これは早急に、かつ本格的にまともな性教育をせねばならんな。ところで、しろすけよ」
あっ、はーい。
なんでしょうか?
「私がご近所様への贈呈用にと仕込んでおいた、果物の天日干し。すべて食べてしまった者は?」
あっあっあっあっ・・・
「ふむ、やはり君か」
ちょ、ちょっとまってくださいよ、『赤毛の方』。
目の前に、あんなにおいしそうな果物の切り身が置いてあったら食べちゃいますって!
我は育ちざかりなんですから!
これは、『やむを得ぬ犠牲』というやつです!
「ならばこれも、やむを得ぬ犠牲というやつだよ、しろすけ。覚悟しなさい」