第197話 決着の地へ
聖戦士様がおわす食卓にて。
私としろすけは、もそもそと朝食をいただいていた。
今日の献立は、炒り卵に赤茄子。
細かく刻んだ豆と葉野菜の和え物。
それに、牛酪を塗った薄切り白麺麭に、柑橘と牛乳。
しろすけの方は、野菜の盛り合わせだ。
特別な日だというのに、いつも通りの面白みのない、栄養に偏りのない健康的な品目の数々。というか、卵と麺麭以外は苦手なやつばかりだ。
しかし。
いつもと違うことがある。
「師匠、にやにやしないでよぉ。きもちわるい・・・」
「おっと、失礼」
などと言いつつも、師匠は私の食事を眺めることを止めようとはしなかった。
朝食が始まってからというもの、何をするでもなく腕組みをしながら突っ立って、ただただじっと、私としろすけのが朝食を済ませるのを待っているのだ。それも、“笑み”を浮かべながら。
ちなみに日課は、今日はしなくていいとのことだった。
これから歴史に残るような闘争を始めようというのだから、今日くらいは弟子の面倒を見なくてもよいということなのかも知れない。
楽なのはいいことだが、喜ぶ気にはならなかった。
「んぐっ。・・・師匠は、たべないの?」
「申し訳ないが、私はもう済ませたんだ。これから闘いに赴こうというのに、胃袋に物が残っているのは困るのでね」
「・・・そう」
咀嚼をしながらの会話とよそ見。いつもなら、お小言を三つか四つはいただく行為だ。
そんな行儀の悪い娘だというのに、師匠は注意をしようとしない。
なんでだろうな。
どうしていつもみたいに、怒らないのかな。
君、口に物を入れてしゃべってはいけないよ、とか。
君、よそ見をしたらこぼしてしまうよ、とか。
・・・ひょっとして、言わない理由でもあるのかな。
「ひひょうっ」
胸騒ぎを覚えた私は、麺麭を口いっぱいに頬張りながら呼びかけた。
いつも通りなのに、いつもとは違う。
それは、すべてが異なるということよりも恐ろしく思える。
だってそれって、本当は違うんだけれど、どうにかしていつも通りにしようと気丈に振舞っているってことじゃあないの?
「なんだい」
そんな思いに反して、応えてくれる師匠の顔に浮かぶのは、柔らかく落ち着いた“笑み”だ。
そこには恐怖も焦りもない。
昨日その眼の中に見た、強い決意と拒絶という相反する感情のぶつかり合いは、微塵も読み取れなかった。
それはまるで・・・・
『諦観?』
その瞬間。
凍り付いた手で心臓を鷲掴みにされたような気分になり、私は背筋を伸ばしながら震えた。
大丈夫だよね、師匠。
明日もこうして、朝食を作ってくれるんだよね。
これからも、私を鍛えてくれるんだよね。
ずっとずっと、私のそばにいてくれるんだよね。
“生きて帰ってくることを、諦めている”んじゃあないよね!?
そう問いただしたい。確かめたいという衝動にかられたが、しかし口には出せなかった。
『その通りだよ』と言われてしまう。そんな最悪の未来を幻視してしまい、私は手の中の麺麭を握りしめていた。
「どうしたんだい、君」
やがて師匠の顔から、“笑み”が消えた。新たに現れたのは、“心配そうな”表情。だが、自分自身のことではない。私のことを、心の底から案じてくれているものだ。
だがそれでも、問うことはできなかった。
無数にある可能性から、最悪の結果を選び取ってしまうという恐怖が、私をさらなる不安へと駆り立てる。
ああ、いっそ彼が心を読んでくれるのならば、こんな葛藤に苦しむことなどないのに。
そんな愚かで無礼なことを考えてしまい、私は何度も大きく頭を振った。
問うべきか、問わざるべきか。
訝る師匠の眼前で立ち尽くす私は、もごもごと口を開閉するばかりだった。
その時。
残念なことに、いっそ折よく、私と師匠の間に割って入ってくる者がいた。
「おはようございます」
その、南部出身者特有の黒い肌の青年は、居間に現れるなり落ち着き払った口調で告げた。
許可なく家に入り込んでくる者がいたら、それが知人であったとしても、普通なら文句を言うなり追い出すなりするだろう。
だがこの時の私には、そのどちらもできなかった。
「あれ、ぐれん?」
私は、呆気にとられたように彼に視線を移した。
そう、グレンだ。私の数少ない友人であり、そして“伝文仲間”でもある遊び人の兄ちゃん。
だけど私は、このグレンという男が少し苦手だ。
だってこの兄ちゃん、話を聞くだけでも疲れるし、いつも厄介事を持ち込んでくるし、訳がわからんのだもの。
だが、今日はいつもと違う。
軽薄な雰囲気が、一切ない。
その格好はいつも通りのチキュウ製と思しきチャラい衣服だというのに、ゲラゲラと品なく笑ったり、大げさに感情表現をしたりしない。
整った顔立ちも相まって、これではただの好青年ではないか。
「ディンさん、お迎えに上がりました」
「・・・向こうの準備は整ったのか」
「はい。もう“あそこ”でお待ちですよ」
言いつつグレンは、ちらりと私に目配せをした。
ほんの一瞬だったので、その赤い眼に込められた感情を読み取ることはできなかったが、その意図は理解できた。
「この娘は、どうするんです?」
「ああ、それは・・・」
戦装束の師匠が、逡巡するかのように私を見る。
決着の場に、未熟者の私を連れていくかどうか。
そんなこと、聞くまでもなく決まっている。
「いく!」
私は手に持っていた麺麭を放り出し、立ち上がった。
足元のしろすけも、同意するように鳴き、跳ねる。
「わたしもいくよ!いってみとどける!だってわたしは、師匠の“でし”だもん!」
「しかしね・・・」
「いくったら、いく!つれてってくれなきゃ、“あと”でひどいんだから!」
腕力では持ち上げるのがしんどくなってきたしろすけを引っ掴み、よたよたと師匠の前に歩み出る。
すると、強い光を湛えた四つの視線にさらされた師匠は、“困ったような笑み”を浮かべた。
「・・・そうだね、君は私の弟子なのだからね」
その言葉に、グレンが僅かばかりに身じろぎした。
そして、何故か非難めいた視線を師匠へと向ける。
「よろしいんですかね?」
「ああ、頼むよ」
二人の男どもの考えはよくわからなかったが、とにかく私は、ほっと嘆息して、しろすけの頭を撫でた。
ああ、よかった。
やっぱり師匠は、勝つつもりなんだ。
そうでなければ、弟子の私を連れていく筈がない。あの恐ろしい女の前に私を置いて、去る筈がないのだ。
しろすけも私の安堵を感じ取ったらしく、手を舐め返してくれた。
グレンはそれをちらりと見て嘆息すると、呪文を紡ぎだした。
途端に空気中の魔力がにわかに騒めき、彼の周りに集まりだす。
なんと!
ただの遊び人かと思っていたが、彼は魔法士だったのか!
しかも周囲の魔力を利用するあたり、あの女魔法士と同じくらいに熟達しているのか!?
そう驚くよりも早く、グレンは完成させた呪文を発動した。
「では、参りましょうか」
その短い言葉と同時に、私たち三人と一匹は光に包まれていく。
声を上げる間もない、ほんの一瞬の出来事。
気が付くと私は、死の荒野に立っていた。