第196話 見納めについて
早朝。
街の東の空が、ようやく白み始める時刻のこと。
敬虔な青年は、いつもより一時間ほど早く日課を済ませることにした。
何せこれで最後なのだ。今日くらいは誰にも、彼女との逢瀬を邪魔されたくない。
そんな、聖職者にあるまじき私的な考えを抱く青年は、人気のない道路をゆっくりとした足取りで歩いていた。見納めとばかりに、周囲の風景を眼に焼き付けているのだ。
「二万年か・・・」
未熟だった頃に演じた失態を帳消しにせんがため、長い年月をかけて復興させたハーフオーガを焚き付けて攻め入った機動要塞。思えばあの闘いから、この街とも随分と長い付き合いになってしまった。
最初は仇敵の尖兵としての出会いだったというのに、今では弟子達との思い出の詰まった地である。なんと皮肉なことか。
憎むべき不死人軍団の創り上げた、忌まわしい災厄。そんな因縁もようやく潰え、胸中に芽生えるのは二万年以上を過ごしたねぐらとの惜別の情だ。
まことに、人は変わるものである。
いや、変わらねばならないのだ。
「そうだよな、レオン。アリシアさん。そして、イリーナ」
歩きつつ周囲に巡らしていた瞳に、強い灯が点る。それは、青年の確かな決意であった。
どんなに挫けても、どんなに打たれても。
それでも人は立ち上がり、前に進まねばならない。
もう、逃げたりはしない。
やがて青年は、目的地である公園にたどり着いた。この辺りに引っ越してきてから、今の弟子との日課をこなすために使っている土地だ。
青年の記憶が定かならば、ここは一万九千年前には十棟を超える長屋があった筈だった。何せ家賃が安かったので、そこに十年ほど潜り込んでいたのだ。
「お隣の娘さんに、字を教えてやったっけ。向かいの爺さんと婆さんは、よく世話を焼いてくれたなぁ」
最早見る影もないが、それが処刑場、売春窟、ゴミ捨て場と、様々な変化を遂げて現在に至っている。
人も変われば、周囲の環境も変わっていくもの。この公園の跡には、一体何が建つのだろうか。残念ながら、それを見ることはできないが。
言ってしまえば青年には、この機動要塞の残骸で知らない場所はない。少なくとも、外部構造に関して言えば、だが。
不死人の残党を狩りつくそうと、寝る間も惜しんで歩き回り、内部施設への侵入口を探した日々。そうしているうちに周辺の先住民の人々が住み着き、街などという共同体ができあがってしまった。
あの天使を召喚するなり、銀龍の娘に頼むなりの強硬な手段を講じれば、もっと早くに解決できていたはずなのに、これほど時間を浪費してしまった。
何故か?
簡単だ。
彼女との決着を、怖れていたからに決まっている。
「そんな足踏みばかりの人生も、遂に終わりか」
不可思議な感慨を抱きつつ、青年は公園の真ん中へと進み出た。そしていつも通りに跪き、真摯に祈る。
十万年を超える永い人生の中で、無限にも等しい回数に亘って繰り返してきた所作。数千年ほど石になっていた時期もあったが、その動きには微塵の隙も無い。
すると瞬く間に、跪く青年の眼前に一筋の光が降り立った。
凡夫にはそれしか知覚できないが、徳を積み、敬虔に生きる者ならばはっきりと見ることができるだろう。
地上に降り立つ美しい女神。
救済神アリシアの、威厳に満ちた姿を。
「我が主神よ」
青年は首を垂れ、恭しくそれを迎えた。
信徒として当然の態度。偉大なる主に使える僕として、あるべき振舞だ。
しかしどうしたことか。彼の主神は、それがお気に召さないようであった。
『・・・アイザックさん』
僕にかけられたのは、昔懐かしい呼び名。まだ青年が少年だった頃の、喪失に心を砕かれるより以前の名だ。
洗礼前の名を呟く、酷く憂いに満ちたその口調。
この日が来ることは分かっていた筈なのに、当事者である青年より余程辛そうだ。
しかし彼は、あえてそれに気づかないように顔を伏せたまま上告した。
「これより私は、地上に残りし最後の不死人を狩りに赴きます。願わくは、私に加護を・・・」
最後の別れにと、寝台の中で散々悩んで選んだ言葉。
今まで情けない姿ばかりを見られていたものだから、今日ばかりは格好をつけようとしたのだ。
しかしやはり、偉大なる救済の女神は納得しかねるようであった。
『本当に、それで良いのですか!?』
叫ぶようなその言葉に、青年は思わず顔を上げた。
すると眼に飛び込んできたのは、信じがたい光景。
「アリシアさん・・・」
主神の目元に輝く光の雫に、青年は思わず無礼を働いてしまった。いくら生前の彼女と親しい間柄であったとしても、今この瞬間の関係性を考えれば、かような気安い呼びかけは神罰の対象である。
青年は即座にそれに気づくと、態度を改めようとする。
「それは当然のこと。地上の歪みたる不死人を狩るということは、聖戦士としての義務です」
『そんな!彼女と、イリーナさんと滅ぼし合うなどと・・・』
稲穂の様に輝く髪を揺らしながら、偉大なる主神が声を荒げた。
地上で最も広く信仰される神の一柱が、まるで心を乱した乙女のようである。
胸の前で手を組み、必死に訴えかけてくる主神に対して、青年は嘆息しつつ改めて口を開いた。
「これでいいんだよ、アリシアさん」
あの時と寸分も変わらない“親友”の姿に、青年は苦笑した。
あの時も彼女は、青年を。青年“たち”のことを気にかけてくれた。
いや、彼女だけではない。
あの大英雄レオンも、地上最高の知性たるイリーナも。
逃げてばかり、挫けてばかりの青年を、憂いてくれていたのだ。
「俺は今まで、散々逃げ回ってきた。境遇から。業から。血から。そして、責務から」
呟く青年の脳裏に、十万年前の記憶が巡る。
農奴という暮らしからの逃亡。
素晴らしい仲間たちとの出会い。
初恋の相手の喪失。
そして、偉大なる救済の女神との“契約”。
現在の地上では神話などとして語られているが、青年にとっては単なる昔ばなし。恥に塗れた半生に過ぎない。
「最後くらいは、きちんと逃げずに向き合わなきゃならないんだ。俺はイリーナを裏切っちまった。だから彼女は不死人なんていう外法に手を染めた。原因が俺にある以上、俺は闘わなきゃならない」
『アイザックさん・・・』
「大丈夫だよ、俺は“負けない”。君に誓って・・・!」
青年は立ち上がり、悲痛な表情の“アリシアさん”に向かって力強い笑みを浮かべた。
かつて素晴らしい仲間たちに、“暑苦しい”などと評された、会心の笑みを。
「今までお世話になりました。どうか、俺の最後の弟子をよろしくお願いします」
寝台の上で、私はぱちりを眼を開いた。
そして身じろぎもせずに上半身を起こし、机の方へ顔を向ける。
机上に置かれていた時計は、五時五十五分を示していた。
「よしっ!」
私は掛け声を上げると、身体に張り付いていたしろすけを引っぺがし、元気よく寝台から飛び出した。そして抗議の鳴き声をしり目に、手早く着替えをする。
春になり気温が上がってきたので、薄手の上下を着る。そしてその上に、さらに愛用の皮鎧を着込んでいく。
今日は遂に、師匠とあの女が決着をつける日だ。
別に私が闘う訳ではないが、弟子として立ち会う以上は正装しなければならない。
しろすけが眠そうな眼を向ける中、私は刺突剣を腰に差し、左腕に盾を括り付けた。
よし!完璧だ!
「いくよ!しろすけ!」
一声叫んでやると、やっと眠気が覚めたらしい。
忠蜥蜴は甲高い声で応じ、まだ私の温もりが残っていた寝台から飛び降りた。
私はそれを見て頷くと、自室の扉を開けた。どたどたと飛び降りる様にして、行儀悪く階段を下っていく。
そしてそのままの勢いで、居間へと飛び込んだ。
「師匠!おはっ・・・」
朝の挨拶を仕掛けて、私は固まってしまった。
私の眼前に、偉大なる漢が仁王立ちしていたのだ。
「君、行儀が悪いよ。もう少し女性らしく、慎みを持ちなさい」
そう苦言を呈する師匠は、いつもの野暮ったい格好ではなかった。
赤銅色に輝く鎧。
背には大弓と矢筒。
両手に握るは、武骨な大剣。
数日前に神々から賜った、聖遺物だ。
いずれも強大な力を秘めたそれらを纏う姿は・・・
「“せいせんし”だぁ・・・」
後光を背負うようにして輝く師匠は、いみじくも伝説の聖戦士であった。
いや、神話にて語られるこの人ならば、それも当然のことなのだろう。
つまりこれから行われる不死同士の闘争というのは、神話に匹敵するということに他ならない。
「いや、まあ、仰る通りなんだがね」
そう言って“苦笑する”師匠には、悲壮感など微塵もなかった。
これから永劫に亘って語り継がれることになるであろう闘いの場に赴くにしては、自然体そのものだ。
そう。
全然。
まったく。
“普通”だったのだ。
だから私は、安心した。
師匠は負けない。
また明日も、こうして顔を合わせることができるんだ、と。




