第175話 偉大なる師による語りについて 後
今回は短めです。
朝食の後のひと時。
私は、奇妙な程落ち着いた気分で食卓に着いていた。
師匠は食後の紅茶を淹れており、しろすけは私の足元で丸くなっている。
うざったい遊び人のグレンはいない。
ここにいるのは、私と、師匠と、しろすけだけ。
いつも通りの、家族の団欒。
これこそが、あるべき本当の姿なのだ。
「さあ、どうぞ」
かたん、かたんと、眼の前に皿と湯呑が置かれていく。
良い香りのするその中身は、師匠のお気に入りの紅茶だ。銘柄は全然知らないが。
「さて、何処から話したものだろうか」
食卓を挟んだ向こう側で、師匠はそう呟いた。
いつもの無表情の中に、深い自責の念が見える。
あの非道に過ぎる“試練”は、私に憎悪を抱かせるための“虐待”だったらしい。
そんなことを可愛い弟子にしたのならば、それは後悔をして当然だろう。
「・・・ぜんぶ!」
私は腫れぼったい眼で師匠を見つめながら、そう言ってやった。
すでに全身に受けていた青あざは、師匠の“快癒”によって消え去っていた。
ようやく覚えた“治癒”よりも高位の奇跡であるそれは、最早お嫁にいけない程に傷らだけだった私に、玉のお肌を返してくれたのだ。
だがそれでも、心の傷までは癒されることはない。
私が納得するには、全てを話してもらうしかなかったのだ。
「全部って、それは・・・」
すると師匠は、果醤の入った瓶を私の方へ押しやりつつ、首筋を撫でた。
どうやらこの期に及んで、私に事情を語る事を躊躇しているらしい。
言いよどむ師匠に舌打ちをすると、私はよこされた瓶を突っ返してやった。
私は、紅茶と言うやつがあまり好きではない。
味がパッとしないので、美味しく感じられないからだ。
しかし、いつもなら果醤をドバドバと投入するのだが、今回はそうする気はなかった。
『全て話す』
あの時師匠は、私を抱きかかえながらそう言ってくれた。
『全て』
それはつまり、師匠の態度の豹変の理由とか、あのいけ好かない女との関係とか、なんで私のお小遣いが値上げしてもらえないのかとか、そう言ったもろもろの全ての事情なのだろう。
だが私は、何から聞けばよいのかが分からなくなっていた。
だってそれら全てはきっと、私が聞くべき。いや、知るべきことなのだから。
私は、師匠の弟子だ。
私は弟子として、師匠のことを何でも知っているべきなのだ。
だから、全部だ。
師匠が私に話すべきことは、全部。
師匠が何をしてきたのか。
そしてこれから、何をするつもりなのかを。
洗いざらい、全部話してもらうのだ。
「ふむ。まあ、そうだね・・・」
黙って見つめる私に、観念したのだろう。
師匠は嘆息して自分の席につくと、おもむろに口を開いた。
「今日はアンタに、全てを話すわ」
戦天城中枢。
広い円形の部屋の中心で、玉座に座るイリーナはそう宣言した。
「・・・すべて、ですか?」
その言葉に、弟子がごくりと唾を飲み込み、身構えた。
彼の背後に控えていた三人娘も事態の深刻さを悟ったようで、先刻までの姦しさを捨てて口を強く結んでいる。
彼自身が聞きたかったことだろうに、しかしいざこうしてその時が来ると、尻込みをしてしまうようである。手を硬く握りしめつつも、その腰は引けている。眼には早くも涙が浮かんでいた。
そんな情けない弟子の様子を見て、ふとイリーナは心配になった。
『本当に、全部話しちゃっても大丈夫かしら?』
この弟子が自分に対して、“育ての親”や“魔法士としての師”以上の想いを抱いていることは、とっくの昔に察していた。
今まで割かしぞんざいに扱ってきた筈なのだが、どうもそれらを好意的に解釈していたらしい。なんとも人の好いことである。
そんな無垢な純情少年に対して“イリーナの半生”を語って聞かせるというのは、酷なのではないだろうか。
『・・・まあ、同じことよね』
少しだけ震えつつも、その眼に覚悟の光を湛える弟子を見つめて、イリーナはそれに応えてやることにした。
いずれにしても、この少年との別れはもう決定付けられているのだ。
どれだけ言葉を飾ろうとも、その事実だけは絶対に変わらない。
むしろ、何も知らせずに去る方がよっぽど酷だ。
「そう、すべてよ。アタシが何をしてきたのか。そして、これから何をするのかを」
そう言いつつ、イリーナは優しく微笑んだ。
それはまるで、母親が息子に向けるようなそれであった。
しかしそれを見ても、クリスが顔をふにゃふにゃと緩めることはない。
涙を溜め、きゅっと結んだ口は震えているが、眼をそらそうとはしなかったのだ。
成長ぶりを感じさせる弟子の表情に、イリーナは満足げに頷いた。
全体、人間なんていうのは大なり小なり喪失を味わうものだ。
そこから立ち上がることで、その心はより強くなっていく。
きっとこの少年なら、大丈夫。もし挫けてしまっても、問題はない。
だって自分一人の力で立ち上がれなくても、そばで支えてくれる人たちがいるのだから。
ニーニャ、リャノン、ライネン三姉妹。
それに森人たちと、その長であるレイン。
あと、数に入れたくはないけれど、あのいけ好かないガキ。
こんなにたくさんの、素晴らしい仲間たちがいる。
それはとても、幸せなことだ。
そうではなかった“アイツ”とは、違うのだから。
「そうだね。事の始まりは、たった一人の人間の野望だったんだ」
師匠はそう言って、自分の湯呑を手に取った。
瞑目して香りを嗅ぐと、それを傾けてほんの一口だけ含む。
「やぼう?」
思ったよりも具体性に欠ける答えに、私は思わず聞き返した。
それが師匠の私に対する非道な仕打ちにどう繋がるのか。理解しかねたのである。
「・・・」
師匠は私には答えず、自分の眼の前の湯呑に匙を突っ込み、かき混ぜ始めた。
すると中身の紅茶が、渦を巻いて回り出す。
くるくる、くるくると。
繰り返し、繰り返し。
しかし中心の一点は、止まっている様に見える。
師匠はその様子を見つめながら、匙を卓上に置いた。
そして、おもむろに口を開く。
「・・・いや、最初はどうも野望ではなかったらしい。神々や悪魔どもから聞き及んだ限りなんだが、最初は理想とか、夢と言うべきものだったんだ」
「りそう、ゆめ・・・」
まったく要領を得ない言葉であった。
師匠の態度の急変。
あのいけ好かない女との関係。
お小遣いの件は・・・、まあ置いておくとして。
それら全てが、たった一人の人間の抱いた思いに帰結するという。
それは一体、どんな人間だったのだろうか。
歴史に名を遺すような、素晴らしい偉人だったのだろうか。
いや、あるいは、それとは真逆の・・・
そんな私の予想に答えるように。
師匠は、湯呑から私へと視線を移した。
いつもの無表情だが、その眼には何かを決意したような。覚悟の光が宿っている。
いつの間にか。
師匠の紅茶の渦巻が、止まっていた。
「常闇の腹心。その、大首領。そいつが、全ての始まりだった」
次回から、過去のお話に入ります。




