第173話 師匠への思いについて
肌を撫でる朝日の光と静謐な空気の中に、春の到来を感じさせる花の香りが漂う草原の上。
腹部に鈍い衝撃と、それに続いて響くような痛みを覚えて。私は手を地面についた。
しかし痛みのもとはそれだけではなく、ほとんど全身くまなくに亘っている。
とっさに私は左腕に噛み付くと、すでに自分のものとは思えない、棒っ切れの様にさえ感じられる脚をどうにか動かして立ち上がろうと試みた。
その瞬間襲い掛かってくる更なる痛みに、ともすれば年相応に大声で泣き喚きそうになるところを、私は必死に腕を噛んで耐えた。
これは師匠から与えられた“試練”であり、そんな状況で自らの無力さを晒すような愚を犯す訳にはいかなかったのだ。
何より眼の前にいる師匠に。
大嫌いなこの人に“見捨てられる”というのは、痛み以上に耐え難かったのだ。
「もう、無理だろう」
頭上からの声がかかった。
こんなことをしておきながら、いつもよりもさらに抑揚のない声なのが腹立たしい。
「止め給え、これ以上は・・・」
そう気遣う様な言葉をかけてきたのは、私を散々に痛めつる張本人。
詰まり、弟子を“虐待”する師匠その人だった。
言いつつもその手に握る大剣を下ろそうとはしないことから、この仕打ちを止める気がないことが窺い知れる。
だが、こんな非道極まる男こそが、私の大嫌いで、そして大好きな師匠だ。
私は震える脚を抑えながら、どうにか頭を振った。
「・・・分かった」
そう言うと師匠は、今日何度目だか分からないが、私に向けて大剣を振るった。
途端に新たな痛みが、剣を握る右手に走る。
「うっ・・・ぐぁ・・・」
剣の腹で手の甲を叩かれ、意志とは無関係に指を開いてしまう。
そして呻くと同時に、宝物の一つである刺突剣が、ぽとりと地面に落ちた。
「もう、終わりにしよう」
冷たいながらも強い声音で、師匠がまたも言った。
だが私は、やはり今日何度目だか分からないが、首を横に振った。
そして必死に剣を拾い上げると、感覚のなくなった右腕を持ち上げ、再び構える。
『負けるもんか・・・!』
私はそう強く念じて、師匠を見据えた。
師匠の様子がおかしくなってしまった理由には、なんとなく察しがつき始めていた。
それは何というか、“悲壮な覚悟”だ。
懸命に感情を押し殺しているようだが、長い付き合いの私には分かる。
師匠は近い将来、何かとんでもないことをしようとしている。
それも、自分の身が危うくなる程の何かを。
そしてそれには、私が足手まといになる。
あの、“異界事変”の時の様に。
だから師匠は、私を遠ざけようとしているのだ。
でも本当なら、弟子は師匠についていくのが当たり前だ。
それなのに同伴どころか、事情すら話してもらえない。
それは単に、私が未熟者で、期待が持てない不出来な弟子であると思われているからなのだろう。
一体何が、師匠の私に対する評価をここまで引き下げる原因となったのか。
・・・ちょっと頭を働かせれば、思い当たる節があり過ぎた。
自らの力量を考えずに異界の、あの戦場のど真ん中で悪鬼の軍勢のもとに飛び込んでしまったために、師匠に多大なる迷惑をかけてしまったからなのか。
あるいは、主神であるアリシアさんを侮辱し続ける私を聖職者の後継として育てる自信がなくなったのか。
もっとしょうもないことに、いつまで経ってもまともに野菜が食べられないことが許せなかったりするのかも知れない。
それらのどの理由なのか、もしくはそれら以外の理由なのか。ひょっとしたら、全部ひっくるめたものなのかも分からない。
とにかく確かなことは、師匠が私の弟子としての素質を疑っているという事実だろう。
そして。
恐らくこの実戦形式の鍛錬によって、最終確認をするつもりなのだ。
私と言う愚かな娘を、今まで通りに弟子として扱うべきか。はたまたその人生を遊び人にゆだねて、放逐するべきかを。
『でも、それならっ!』
この“試練”に耐え抜くことができたのならば。
きっと師匠は、今までの優しい師匠に戻ってくれる筈なのだ。
君、とても頑張ったね。
君は、私が思った以上に強くなっている。
君は本当に、素晴らしい女性だ。
そんな温かい言葉をかけてくれる筈なのだ。
そこいらの根性のない若者ならば、こんな仕打ちを受けたらとっとと逃げ出してしまうのだろう。師匠も、私がそうすると考えているのかもしれない。
だが、どっこい私はそこいらの若者とは鍛え方が違うのだ。
なにせ私は、偉大なる師匠の下で、厳しい鍛錬を積んできたのだから。
何度引っぱたかれたって、決して心を折ったりはしない。
どんなに冷たくされたって、絶対に離れたりなんかしない。
だって。
だって私は。
この大嫌いで、大好きな師匠と・・・
ふらふらと立ち上がった弟子はすでに体力が底をつき、気力のみで意識を保っている様であった。手加減をしているとはいえ、今までの彼女ならとっくに根を上げている筈なのに、驚くべき成長ぶりだ。
「むむむ・・・」
だが。
だが、どうしてだ。
眼の前の少女の“強さ”については理解しているつもりだったが、それでも彼女の反応は異常と言わざる負えない。
どうして君は、そんなになっても私に向かってくるのだ。
どうして君は、そんな“縋るような眼”で私を見るのだ。
何故。
何故なんだ。
少女はこんな惨い扱いを受けているというのに、未だに私に対して執着している。
何故、私を拒絶しない。
何故、私を憎悪しない。
「君!いい加減に止めるんだ!」
私は可能な限り冷たく、突き放すように言った。
半ば脚を引きずり、私に向けて構える剣先は震えで定まらない。
なんとも痛々しく見ていられない姿だが、全体それは、愚かしい私の手によるもの。
女性の、それもまだ十台前半の子どもをここまで殴りつけるなど、きっと主神はあきれ果てていることだろう。
だが、それでも。
この娘のことを思えばこそ、そんな非道な手も下したというのに。
『何という、“強い”娘だろうか・・・』
いつの間にか、自分が顔を引きつらせているのが分かった。
砦の様なゴーレムと渡り合う膂力?・・・それがどうした!
魔法院の青二才どもを凌ぐ知識量?・・・下らない!
“不死人を狩る不死”だと?・・・馬鹿馬鹿しいにも程がある!
そんなものをどれ一つとっても、この娘の“これ”には及びもつかないではないか!
『一体、どうすれば・・・』
・・・私と共にあることを、諦めてくれるのか。
最早この弟子を、力づくでどうこうできるとは思えない。それこそ、死ぬまで自分の想いを曲げることなどあり得ないのだろう。
完全に当てが外れてしまい、私は思わず後ずさった。
すると。
「し・・・」
そんな根性なしの私に対して、少女が必死に語り掛けてきた。
私から離れることを、拒絶するようにして。
「しぃしぉおぉ・・・」
感情が高ぶり、また吃音がぶり返している。
だが少女はそれに構わず、私に追いすがる様に、覚束ない一歩を踏み出してきた。
「お、おぉねがぃぃぃ・・・」
何て姿。しかしそれに反して、大粒の涙を溜めつつも、強い光を湛える瞳。
そんな力強い意志にあてられ、私は一瞬気を抜いてしまった。
そしてその瞬間。
“流れ込んできた”
彼女の、強い感情が。
「ぉいて、かぁなぃでぇ・・・」
『置いていかないで!』
ああ・・・
「わあたしぃ、がんんば、るぅからぁあ・・・」
『私、頑張るから!』
なんということだろうか・・・
「ひぃいとぉ、りぼちぃに、しぃないでえぇ・・・」
『独りぼっちにしないで!』
私は。
いや、俺は・・・!
「リィル!」
気が付くと私は、剣を放り出していた。
そして泣きながらも驚いた表情の少女に駆け寄ると。
その小さな身体を、抱擁した。
「あ・・・?」
少女の戸惑う様な声が聞こえる。
いつもだったら酷く暴れて、私を打擲するというのに。
疲弊しきったこの娘には、最早抵抗などできないのだ。
「御免よ」
だが私は、それをいいことにさらに抱きすくめる腕に力を込めた。
ああ、まったくもって私と言う男は、考えなしの大馬鹿野郎だ。
冷たくあしらい続ければ、私を嫌ってくれるだろう、だと?
なんという愚かで罪深い浅慮だろうか!
こうして殴りつければ、私を憎んでくれるだろう、だと?
この娘には、私しかいなかったのだぞ!
“育ての親から拒絶される”。
それはつまり、この娘にとっては結局、父親を失うのと同じではないか!
「本当に、御免よ。私はまた、同じ間違いを犯してしまった」
言いながら、そっと頭を撫でてやる。
涙と鼻汁で汚れたその顔。
“あの娘”とは全然違うが、しかしまったく同じ。
“親を失うことを恐れる顔”だ。
「私が悪かった。許してくれ・・・」
その言葉に驚き、剣を取り落とした娘は、やがておずおずと私を抱擁し返した。
疲れ切っている小さなその腕は弱々しいが、彼女のなけなしの力が籠っている。
二度と離すものか。
そんな強い意志が、伝わってくるようだ。
それ程に私を想ってくれるその心は嬉しくもあり、同時に気がかりでもある。
いや。
だが、話すべきだ。
この娘ならば。
この強い心を持つ弟子ならば、きっと耐えてくれる筈だ。
何せこの弟子は、こんな非道極まる扱いを受けても、立ち上がってきたのだ。
自らの欠点に一度は折れたその心は、より強く育っている。
もう、心配することはない。
これで私は、何も思い残すことはなく、“決着をつける”ことができるだろう。
「ええっと、つまりー?」
「いや、その、なんだな。もうしばらくの間は、面倒を見ることにした」
「えぇー!?じゃあボクは、お役御免ってなワケですかー!?」
「その通りだ。そう言うわけだから、もう“向こう”に行っていいぞ」
「・・・」