第171話 魔法士見習いクリスのお話 その13(あるいは、許容できない変化について 後)
龍山の麓。
森人らの住まう、神聖なる大きな森。
お師様と僕は、そこを並んで歩いていました。
整備されていない道でも、すでに雪は解けきっており。
木の枝には、少しずつ芽が出ているのが分かります。
季節はもうすぐ春!
木漏れ日に照らし出され、ほのかに感じられる暖かさは、まるで今の僕の胸中を表しているかのよう!
「ご機嫌ねぇ、少年」
「それはもう!幸せいっぱいですとも!」
僕はお師様とつないだ手を振り上げながら、上機嫌に返事をしました。
いやはやなんとも、今の僕は幸福の絶頂にあります。
最近そっけなかったお師様が、今日は一緒に出掛けようと言ってくれたのです。
何でも『大事な人に会って話さなければならない』そうですが、その目的についてはあんまり気になりませんでした。
とにかく重要なのは、久しぶりにお師様とお話できるということ!
しかも僕が、『手を握ってもいいか』と尋ねると、逡巡することもなく僕の手を取ってくれくれたのです!
小さくて、ひんやりして、優しい。
心休まる手です。
その、僕の手を握ってくれているのは、僕の大好きなお師様の手です。
ああ!
僕って本当に、師から愛される弟子なんだなぁ!
『あーあーあー・・・』
そんな果報な僕に向かって、じめじめとした声が投げかけられました。
「こっちが恥ずかしくなっちゃうわよ」
「見せつけてくれるわね」
「眼の毒、眼の毒・・・」
声の主は、ニーニャさん、リャノンさん、ライネンさんの三姉妹。
僕らの先導として、前を歩いてくれていたのです。
どうも今回の“お話”には絶対に参加してもらわなければならないらしく、行商中で忙しかった彼女らを召喚するのにえらく時間がかかってしまったとか。
本音を言えばお師様と二人きりが良かったのですが、それ程不快なわけではありませんでした。
なにせ今の僕は、水を差された気分にすらならないくらいに上機嫌なのです。
「えへへ!久しぶりなんだから、これくらいはいいでしょう!」
僕は満面の笑みを浮かべながら、前方を歩く三人の女性に応えました。
するとこちらを振り返っていた女性陣は、一斉に顔を歪ませ、大げさにため息をつきました。
「御馳走様ってやつだわよ・・・」
「お砂糖吐きそう・・・」
「おえー、おえー・・・」
彼女らは、僕らと合流してからずっとこの調子でした。
しかし本心からふざけているのではないということは、その背中から漂ってくる緊張感からはっきりと推し量れるというものです。
この女性たちは、その出生から森人たちから筆舌に尽くしがたい扱いを受けてきました。
そんな彼女らが、最早敵中とすら言える森人の里に足を踏み入れようとなれば、こんな悲壮な雰囲気を漂わせるのも当然と言うものでしょう。
むしろ、僕を玩具にすることで少しでも心に余裕を持てるのならば、どんどんそうして欲しいくらいです。なにせ今の僕は、お師様のおかげで無敵なのですから。
やがて騒がしく歩いていた三姉妹は、何かに気づいたように押し黙りました。
それと同時に。
「そろそろね。変なこと言っちゃぁ駄目よ」
お師様は前方を顎で示しながら、僕にそれとなく注意を促しました。
森人の里の入口。
門が設えらえているという訳ではありませんが、そこには皮鎧の屈強な戦士が数人、弓を手に直立していました。
いや、数人どころではありません。
先へ続く道の両側に、まるで衛兵の様にして、一定の間隔を置いてずらりと並んでいるではありませんか。
「うわぁ・・・」
その鋭い視線がこちらに注がれていることに気づき、僕はぶるぶると震えました。
森人というのは、自らの領域たる森に許可なく入り込む者を激しく憎悪します。
例えそうでなくとも、余所者の逗留を快く思わない排他的な思想の持主なのです。
そんな彼らの眼の前に立つのは、人間と半森人という組み合わせ。
何処をどう見たって、歓迎される様な団体ではありませんでした。
しかし。
僕たちが、そんな攻撃的に思える視線を浴びながら、なおも近づいていくと。
『お待ちしておりました』
なんと入口で待ち構えていた数人の戦士たちは、そう言って頭を下げたではありませんか。
排斥されるどころか、それは明らかに客人への応対です。
予想外のことに、僕は眼を白黒とさせました。
「お師様、これは一体・・・?」
僕が驚きを隠せずに横を見ても、お師様はすました顔。
衛兵である戦士たちの間をくぐっていく三姉妹を追うように、僕の手を引いて歩き出したのです。
僕は気圧されつつも、お師様に従って歩を進めました。
なんと異様な光景でしょうか。
並び立つ森人の戦士たちは、僕らが横を通るなり一様に頭を下げてきます。
前もって到来を予告していたのでしょうが、それでも誇り高く、僕たち人間種を“無能人”と呼ぶ彼らの行動としては、考えられないことでした。
加えて半森人である三姉妹に対して眉をしかめることすらしないともなれば、異常極まるとしか言いようがありません。
『いや、でも、待てよ』
僕はよくよく彼らを観察することで、得心が行きました。
彼らがじっと見つめていたのは、“僕たち”ではなく“お師様ただ一人”だったのです。
成程、森人が人間相手にへりくだるだなんて、本来あり得ないことです。
でも、それが僕のお師様に向けられる畏敬の念の表れともなれば、納得するより他にはありません。
全体お師様は、この森に住まう森人たちから多くの依頼を受け、それをことごとく完遂してきたという実績があるのですから。
自分が偉くなったわけでもないのに、僕はどこか得意げな顔をしながら森人たちの間を歩いていきました。
「調子に乗るんじゃぁないわよ、少年」
「あうっ!す、すみません・・・」
緊張から解放され、緩んだ顔つきになっていた頬をお師様に抓られて、僕は小さく悲鳴を上げました。
森人の戦士たちが並び立つ道を歩いていくと、やがて森の中心部である大樹に到着しました。
周囲に繁茂する草木の中でもひと際大きく、街の“巨象”をすら凌ぐような太さの幹。
天を突くばかりに伸びるその巨体の周囲には濃密な、しかし清廉な魔力が漂っていることが感じ取れました。
樹齢にして数万年という伝説級のこの木は、この森の力の源と言っても差し支えのない強大な力を秘めているそうです。
そんな、森人たちにとっては信仰の対象となるような大樹の麓に。
一人の女性が瞑目し、胡坐をかいて座っていました。
周囲の森人らと同じく整った顔立ちに、尖った耳。
しかしその顔には、何か不思議な紋様が描かれています。
腕にも同じような印が走っていることから、簡素な衣服の下にもびっしりとそれが描かれているのでしょう。
ニーニャさん、リャノンさん、ライネンさんがその女性の眼の前までくると、彼女はまるで見ていたかのように口を開きました。
「久しいね、お前たち。イリーナも、壮健なようだ」
そう言ってその女性は、ゆっくりと眼を開きました。
紋様だらけの顔には不思議と心が落ち着くような、しかしなんとなく不自然に思える笑みが浮かんでいました。
『お久しぶりです、レイン様。私たちに森へ踏み入る機会を授けて下さり、まことにありがとうございます』
三姉妹は声をそろえて言うと、その場に跪いて首を垂れました。
あの森人嫌いな人たちがなんの躊躇も見せずにかしこまるだなんて、どうやら相手は、とても偉い人だったようです。
僕も慌ててそれに倣おうとして、お師様と繋いでいた手を放し・・・。そこで、ふと気が付きました。
その顔に浮かぶ微笑は、人の表情という領域を著しく逸脱している様に思えたのです。
あえて表現するのならば、そう。
“神々しい”。
そんな言葉がしっくりくるような、超然とした笑みなのでした。
『話には聞いていたけれど、ひょっとしてこの人が・・・!』
僕はその正体に考えが至り、固唾を飲み込みました。
“いと高き森人”。
森人の中でも、さらに高位の者。
半ば自然と一体化し、森がある限り永劫に生き続ける不死の一種。
しかし邪法によってその領域に至った不死人とは違い、その精神は如何なる欲求も衝動にも苛まれることはなく、ただただ地上を眺め続ける仙人の様な存在なのだとか。
初めてお会いすることができましたが、確かにお師様から聞いていた通り。人の形をしていてもすでに人ではないということが感じ取れます。年齢はお師様や三姉妹と変わらなく見えますが、恐らくその外見にそぐわぬ長寿なのに相違ありません。
今僕らの眼の前にいるのは、天上の神々に近しい高次の存在なのでしょう。
「中々、勘の鋭い子だね」
気が付くと、その超然とした笑顔がこちらを向いていました。
その眼はこちらを向いていますが、しかし何故だか僕を見ている様には思えません。
まるで、僕の背後。
いや、それよりもずっと後ろ。
遥か遠くの何処かを、じっと眺めているような。
そんな、覚束ない視線なのです。
「当然でしょ、レイン。アタシの弟子なんですもの」
お師様は誇らしげに胸をそらすと、鼻息をついてそう言いました。
褒めてもらっているようで嬉しいのですが、こんな神話に登場しそうな方を呼び捨てするというのは、いかがなものなのでしょうか。
しかし僕が内心ハラハラとしている横で、意外にもレインと呼ばれたその女性は、高らかに笑い声を上げました。
自尊心の高い森人の長の様な人だというのに、お師様のぞんざいとも言える話し方を気にした様子はありません。
最も、周囲を固める衛兵たちの表情は、若干固くなっていましたが。
『大事な人とのお話って、この人とのことなのかな?』
出遅れてしまった僕はそんなことを考えつつ、挙動不審にも変な屈伸運動を繰り返していました。
今からでも跪くべきか、それともお師様と同じように、いっそ堂々としているべきかが分からなかったのです。
「で、あんたが私の前に来たってことは?」
周りの人達が緊張している中、レインさんは気さくな調子でお師様に語り掛けました。
お師様の態度も含めて考えれば、お二方は知己の間柄なのかもしれません。
それを証明するようにお師様は、普段三姉妹らに向けるのと同じような、親しい相手にのみ見せる気安い笑みを浮かべて言ったのです。
「時が来たわ。そう言う訳で、後を頼みたいの」
「そうかい。ついに、“決着をつける”んだね」
するとレインさんは、感慨深げに天を仰ぎました。
“決着をつける”。
それは一体、どういう意味なのでしょうか。
その言葉に不安な響きを感じ取った僕は、こんな場だというのに、思わずお師様に訊ねようと口を開きかけました。
すると。
それを遮るようにして、レインさんが姿勢を変えました。
胡坐をかいていた足を崩すと、なんと跪いたではありませんか。
それはまるで、主に忠誠を誓う臣下の如き振舞。
あるいはそれは、お師様とこのレインさんとの関係性を示しているとでもいうのでしょうか。
僕が仰天している前で、異常な事態はどんどん加速していきました。
「予てよりの盟約の通りに、今この瞬間より弟子の後見を引き受けることを誓う!」
レインさんがそう宣言すると同時に。
ざっ!
と、音を立てて、今度は背後に並んでいた森人の戦士たちが一斉に跪きました。
片膝をつき、弓を持った握った手を胸に置いて、顔はお師様の方を見つめています。
『森にあっては我らが』
彼らは同じ拍子で、まるで一つの意思で繋がっているかのように、口を開きました。
そして戦士たちが力強くそう宣言すると、最後に三姉妹たちが跪いたままこちらを振り返り、やはりお師様を見つめて口を開きました。
『森の外にあっては、私たちが』
次々と宣言されていく誓い。
周囲から浴びせられる強い視線。
その波に溺れそうになりながらも、僕はどうにか必死に踏みとどまっていました。
そして。
そんな僕に向かって。
いと高き森人が。
半森人の三姉妹が。
そして、森人の戦士たちが。
同時に、叫んだのです。
『偉大なる勇者の弟子を、命を賭けて守ることを誓う!』
その最後の言葉が、森の中で反響するのを止めた瞬間。
ざっ!
と、お師様と僕を取り囲む全ての人々が首を垂れました。
まるで儀式の様な一糸乱れぬ動きに、僕は見とれてしまっていました。
いや、それはまさしく儀式だったのでしょう。
たっぷり一分程は、呆けていたのでしょうか。
やがてゆっくりと脳みそに血が巡り始めた僕は、やっとの思いで口を開きました。
「お、お師様?こ、こ、これは・・・」
一体何の冗談なんですか。
大事な人との話とはこれなんですか。
僕の後見を、この森人たちが担うだなんて。
いや、それ以前に。
そうなると、お師様は一体、どうなるんですか?
そんな疑問が次から次へと湧き上がり、頭の中で盛大に氾濫してしまい、僕は言葉にならない言葉を呟いていました。
でも、そこは偉大なお師様。
僕の言わんとすることを正確に“読み取って”くれたようで、こちらを見ながらゆっくりと口を開きました。
「ああ、まあ、何て言うかね・・・」
僕が手を繋いでもいいかと尋ねた時とは違い。
少しだけ迷うような素振りを見せながら。
それでもお師様は、はっきりと答えてくれました。
「お別れってことよ、少年」