第157話 帝都は燃えているか
早朝の帝都に顕現したのは、正に地獄であった。
異形の怪物たちに引き裂かれ、食い殺される帝都の臣民たち。
破壊され、瓦礫が散らばり、炎で揺らめく街並み。
昨日までの日常は消え去り、眼の前に広がるのは、まるでアクション映画の一風景。
そんな中を、主役となってしまった少年少女は。あるいは、名乗ることすら許されずフェードアウトしていく群衆となってしまった二人は、ひた走っていた。
「ショウちゃん!」
「急いで!キョウちゃん!」
二人の少年少女は、お互いの無事を逐次確かめ合おうと、固く手を握っていた。
このような大惨事において、彼らはあまりに無力な存在だった。
できることは少ない。
まず、状況の判断。
そして、即時の避難行動だった。
あるいは向こう見ずな正義感を持っていたり、自らの種々の力量を過信したりする者だったならば、“被害に遭っている人々”に救いの手を差し伸べようとしたのかもしれない。
だが少年と少女は、そこまで勇敢にも愚かにもなれない。
繰り返しになるが、このような大惨事において、彼らはあまりに無力な存在なのだ。
「うぅっ・・・」
「見ちゃあ駄目だ!」
空いている手で口元を押さえる幼馴染を叱咤する少年の方も、こみ上げてくる吐き気を押さえることに必死であった。
酷い。
酷過ぎる。
こんな悪行が、許されていいのか。
少年の胸中には、眼の前で殺戮の限りを尽くす怪物たちへの怒りが。何より、そんな連中へ一切の抵抗ができない自分自身への怒りが、強く渦を巻いていた。
彼らの周囲で繰り広げられていたのは、凄惨な殺戮劇であった。
空から飛来した異形の怪物たちは無造作に帝都に降り立つと、見境なく建物を破壊し、得物である人間を引っ張り出す。
そしてそれで、“愉しむ”のだ。
少なくとも、少年にはそうとしか見えなかった。
出勤途中だったスーツの男を、頭から丸呑みにする。
禍々しい顔を歪めながら、老人の四肢を順番にもぎ取る。
妊婦の大きなお腹に齧りつき、血の泡を吹いて悶えるその女性を空中から放り捨てる。
引きちぎった人間の頭を投的して、別の人間の頭を砕く。
逃げまどう子どもたちに向かって口から炎を浴びせかけ、痛みと呼吸困難からもがき苦しむ様子を眺めて笑い転げる。
乗客でいっぱいになったバスを取り囲み、一斉に電撃を浴びせかけて、中にいる人達を黒焦げにする。
少なくとも、少年の常識では人間のやるようなことではなかった。
それを証明するように、彼らの外見は地球人のそれとは大きくかけ離れていた。
黒く大きな、蝙蝠の様な翼。
頭に生えている捻じれた角は、羊のそれに酷似している。
爛々と輝く眼は獲物を探してぎょろぎょろとせわしなく動き回り、舌なめずりをする口からはおびただしい牙が覗いている。
彼らが人間でないということは、その行為も含めて自明であった。
何故。何のために、こんなことを。
彼らは一体、何を求めてこんな非道を行うのか。
いや、あるいは。
彼らは“これ”を求めて、ここに飛来したのだろうか。
この状況を打開する材料にはなり得ないことに頭を巡らせつつも、少年は走ることを止めなかった。
奴らの力は強大だ。
捕まってしまえば、想像を絶する苦痛を味わいながら死んでいくことだろう。
『・・・死ぬ?』
初めてはっきりと間近に感じ取った“死の感触”に、少年は頭の中がクリアになっていくように思えた。
死ぬ。
まだ、十年ちょっとしか生きていないのに。
まだ、異界に住むという夢を実現していないのに。
まだ、幼馴染に想いを告げていないのに。
そんなの、御免だ。
逃げまどう帝都民の中でもみくちゃにされる少年は。
正太郎は、絶望に屈服することなく脚に力を込めた。
目指すは、帝大付属中学校。彼らの学び舎である。
地震や津波、あるいは“核ミサイル”が投下されるなどという最悪の事態に備えて、公共の施設には大抵強固なシェルターが備え付けられている。
あまりに想定外のこの事態への対応として正しいのかは分からなかったが、『空から降ってきた、自分を食い殺そうとする化け物から逃げる』などという避難訓練のメニューをこなしたことのない彼らには、それ以上の妙案は思い浮かばなかったのだ。
あるいは父親の務める東部軍管区司令部に逃げ込むという道もあったが、ほぼ反対方向だったので諦めた。それにこれが“異界の軍勢”による戦闘行為であるのならば、軍事施設が真っ先に狙われている恐れもあったのだ。
『いや、そんな馬鹿な!』
幼馴染の手を引きながら、正太郎は自分の愚かな考えを恥じた。
ようやっと交流が正常化してきたばかりだというのに、それを台無しにするような事をするはずがない。あの素晴らしい出会いが紛い物だったなんて、そんなことはあり得ない!
己の限界を振り切って走り続ける少年は、突如放り込まれた極限状況から目をそらすようにそんなことを考えていた。
「ショ、ショウちゃん、ちょっと待って・・・」
ふと、幼馴染の恭子を引く手が重くなったのを感じて、少年は走る速度を緩めた。
あの惨劇に巻き込まれまいと必死に走ってきたが、少女の方はとうの昔に限界を超えていたのだ。 ここにきてようやく疲れを実感した正太郎は、荒い息をつきつつさらに速度を緩め、やがて立ち止まった。
このまま自分のペースで走り続けては、体力のない彼女に怪我をさせてしまうかもしれない。
そうなったら、ますます避難がしにくくなる。
結構走ってきたのだし、少しぐらいは休憩しても大丈夫だろう。
正太郎はそう自分に言い聞かせて、幼馴染の恭子の方へ振り返った。
「キョウちゃん、だいじょう・・・」
そして正太郎は、背後の光景を見て愕然とした。
百年近く前の大震災でも滅ぶことなく。
あの大戦でも焼かれることのなかった大都市が。
世界に誇る、帝都が。
今、燃えているのだ。
気が付くと二人は人混みから離れて、小路に入り込んでいたようだった。見える範囲に人はおらず、同様に怪物もいない。
だが聞こえてくる阿鼻叫喚は、未だにここが修羅場であることを示している。この場に留まるのは、危険だった。
「・・・キョウちゃん、少しずつでもいいから進もう」
正太郎はそう言うと、返事も聞かずに再び恭子の手を取った。
元より息も絶え絶えで話せそうにない少女は、少しだけ血色の良くなった顔を僅かばかりに上下させたが、足は全く動かなかった。
仕方なしに正太郎は、疲労困憊の少女の身体を支えようと、その隣に立った。
その時。
ずしんっ!
全身に伝わってくる振動と共に、飛び散った瓦礫が二人の子どもの身体にパラパラと当たった。
眼の前に、何かが落ちてきたのだ。
しばしの間をおいて、正太郎は理解した。
『きっと、建物か何かの破片だろう』
恐怖と疲労で荒い息をつく恭子を庇いながら、正太郎は断じた。
半ば祈るような気持ちで、というよりも、自分のその憶測にすがったのだ。
そうでなければ困る。
そうでなければ、困るのだ。
しかし。
予想に反して、その“落ちてきたもの”はゆっくりと“大きな黒い翼”を広げた。
最悪の状況に、二人は息を呑んだ。
酷い悪臭を漂わせる、ゴワゴワの体毛。
二メートルを越える身の丈は、まるで巨人と見まごうようである。
逞しい丸太の様な腕は、何かがぱちぱちと爆ぜるような音を出している。
鋭い爪から滴っているのは、つい今しがた殺害した犠牲者のものなのだろう。
いや、これからその上に、自分たちの・・・
「下がって!キョウちゃん!」
咄嗟に正太郎は一声叫ぶと、一歩前に進み出た。
そして背負っていた竹刀を握りしめると、正眼に構えた。
はたから見れば、無謀にも程がある行為だった。
空を飛び、人間を片手で殺傷し、強力な魔法と思しき力を放つ怪物に、中学生が闘いを挑もうというのだ。到底勝てる筈がない。
だがそれは、当の本人がすでに痛い程に分かっていた。
正太郎には、この怪物の戦闘能力の高さがはっきりと理解できていたのだ。
同時に、彼我の戦力さが竹刀一本では到底埋められないということも。
それ以前に、自分では何をどうやっても一切の対抗ができないということを。
『でも!』
正太郎は歯を強く食いしばることで、どうにか歯の根を合わせた。
ここで逃げることはできない。
幼馴染は最早自分ではまともに歩くこともできず、従ってコイツから逃げることはできない。
だからと言って、正太郎が一人だけで逃げるというのも選びえない道だ。
頭の固い父親に常日頃から言われている通りに、自分だって日本男児の端くれなのだ。
惚れた女の一人も守れなくては、それを名乗る資格などありはしない。
そんな健気な少年に対して、怪物はその顔を歪めながら、短く息を吐いた。
『・・・あっ』
正太郎はその時、確信した。
今この怪物は、嘲ったのだ。
無駄な抵抗をしようとする愚かな存在を。
実力差を理解しているというのに、それでも立ち向かおうとする自分を、笑ったのだ。
そのことを正太郎は、怒りも憤りもせずに、ただただ素直に受け入れていた。
だって、当然だろう?
人間に挑もうとする蟻を見たら、どんな思いを抱く?
風車に突撃するドン・キホーテを見たら、どんな思いを抱く?
コイツにとっての僕は、つまりそうなんだ。
正太郎は最早身震い一つせずに、歩み寄ってくる怪物をただ眺めていた。
ああ。
駄目だ。
勝てっこない。
こんな人外の化け物に、僕の様な子どもが。
遂に絶望に屈した正太郎は、竹刀を構えたまま眼を閉じた。
生臭く生暖かい息が顔にかかった。
いよいよ終わりだ。
「ショウちゃん!」
轟音。
心臓どころか身体全体を跳ねあがらせた正太郎は、ゆっくりと眼を開いた。
すると。
今、まさに自分の頭を丸かじりにしようとしていた怪物が、逆にその頭を失って突っ立っていた。
予想外の出来事に、一気に弛緩した正太郎は、どさりと尻もちをついた。
助かった。
後少しで死ぬところだったのに、生きている。
しかし一体、何が起こったのか。
自らの存命に安堵しつつも、正太郎がその事実を訝ると。
「ショ、ショウちゃん、後ろ・・・」
幼馴染が、震える手で正太郎の背後を指さした。
正太郎が、恐る恐るそちらを向くと・・・




